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合気道の稽古法は「本質」を掴むためにあるんじゃないだろうか?
この世のあらゆるところに合気道があって、おれはそれを見つけてパクって合気道に使ったり、合気道で学んだことを応用して日常に活用してる。
今回は合気道からの応用で、本質をつかむ方法について考えてみた。最近は合気道の稽古がなんなのかってことに関心がある。
が、合気道で使われる「型稽古」という稽古法は全然メジャーじゃないので例によって1ミリも関係なさそうなところからはじめる。
天動説と地動説
よく本質をつかめだの見抜けだのと言われてたりするけど、その見つけ方を上手に説明できる人はあんまいないんじゃないだろうか?
(だいたいテキトーなこと言ってるだけでは?)
思うに、本質の見つけ方っていうのは天動説と地動説みたいなもんじゃないだろうか?
もの凄くざっくりと言うと、天動説ってのは地球を中心に星(天)が回ってるんじゃね?という説で、地動説は星(地)って太陽を中心に回ってるんじゃね?という互いに対立した説だった。
で、このふたつの説は実のところどっちも正確ではなくて、宇宙にあるものはぜんぶ動いていたのだった。
でもそれは天動説と地動説、両面から検証したからこそ見つけられたことなんじゃないだろうか。
本質とは何か?
天動説は言ったら自分中心で考えるってことで、地動説は客観視で、どっちも大事なことだ。
本質的な部分に繋がっているけれど、一方だけでは見えてこないものがある。脳と身体の関係とも言える。
例えば右と左というのは、何から見て右か左かで簡単に変わってしまう。あるいはひたすら右に行けば一周まわって何かの左側に辿り着くこともできちゃうので、単純な区別でしかない。でも区別がないとめんどくさくてしょーがない。
そのために人は何かを二つにわける。
あらゆる人間が生と死の隙間にいるのにも似てて、人間はバランスは違えどみんな生と死のさかい目にいる。
絶対に死なないということはないし、絶対に生きられるわけでもない。
でもそれを色々と区別して、死にやすいだの生きやすいだのと言う。
そういう何かをわける境界線の上に「本質」みたいなもんがあるんじゃねーかなと思う。本質がわかるということはどっちでも自由に使いわけられるということだ。
自分を中心として右と左がわかれば、向きをかえるだけで自由に右と左を入れ替えられる。そんな感じ。
本質の見つけ方
合気道はそういう稽古をしているとおれは思う。
そのメインの稽古法は「型稽古」だ。1482年頃に書かれたという「塵荊抄(じんけいしょう)」にはすでに兵法の型が書かれているらしい。
要するに1482年よりも前から540年以上に渡って現代に至るまで「型稽古」という稽古法はずっと続けられてきたわけだ。
合気道はそんな型稽古というシステムの良さをたっぷりと受け継いでいる。どんな風にやるか説明しよう。
型稽古は二人一組になって、決まった技を稽古する。その中で勝つ役と負ける役を交互に繰り返していく。
勝ち負けを争うのではなく、協力して勝つ方法を探す稽古だと言えるかも知れない。
当然だけれどただ押しただけで相手は倒れてはくれない。勝つ役はなんとかして自己中心的な都合のいい考えを捨てて物理的に相手に倒れて貰わないといけない。
負ける役はどういう風に動けば倒れてやってもいいかを教えてやる。そんな共同作業が型稽古だ。
役割を繰り返して、互いに「本質」に迫っていく。
お互いに本質からズレている部分を修正していって、本質へと近づく作業が型稽古なんじゃないだろうか。
交互に勝敗を味わっていくことで違いが見えてくる。勝つ時とはどういう時で負ける時とはどういう時なのか? 勝ちと負けを別ける境目が見えてくる。
この型稽古の発想を別のものに応用すれば、その本質にも迫れるんじゃないだろうか。そんな風に思ってるけど、その話はまた別の機会に。
まとめ
・型稽古のように勝ち負け両方の役割を演じれば本質が見えるんじゃね?
・型稽古ってすごくね?
・宇宙やばくね?
おわる
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