二項対立に抗う、『中動態の世界』を読んで
意思がある能動態と、意思のない受動態
「言語の多様性は記号や音声の多様性ではなく、世界認識の多様性である」と言ったのは19世紀ドイツの言語学者、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトだが、サピア=ウォーフの仮説を付け加えるまでもなく、言語はわれわれの世界観の形成に関与してきたし、同時に、人々の日々のコミュニケーションが言語を変化させてきた。ゆえに、言語の歴史を紐解くと、世界認識の歴史が見えてくる。
言語はまた、常に哲学にとって主要な問題であり続けた。フランスの言語学者エミール・バンヴェニストによれば、動詞とは「完結した平叙文の構成に不可欠なもの」であり、そこには2種類の「態(voice)」がある。能動態(active voice)と受動態(passive voice)だ。
能動態と受動態が作り出す「する」「される」という対比は、一言で言うと「意志がある」「意思がない」という二項対立である。
動詞が持つこの構造は、暗黙のうちに行為者を尋問する。「この行為は誰のものか?」と。責任の所在を明らかにする「司法的」とも言えるあり方だ。
行為の帰属先が問われるとき「意志の能力」が要求される。哲学者のジョルジュ・アガンベンは「意志とは行動や技術をある主体に所属させる装置である」と述べている。
われわれの言語、つまり能動態と受動態が対をなす言語においては、話者は自らの行為の「意志」を常に問われている。そして、少なくともわれわれにとって、能動態と受動態の二項対立はごく当たり前の言語の初期設定であり、それ以外の「態」など想像もつかない。
失われた態、中動態
ところが、言語の歴史的変遷を比較言語学で遡ると、能動態/受動態の対立は動詞の普遍的な姿ではなく、われわれの直感に反して比較的新しいものだということが明らかになる。
英語・スペイン語・ロシア語などの源流であるインドヨーロッパ語族のさらに先祖の言語(共通基語と呼ばれる)においては、動詞は非人称態しか持たなかったという。そこで動詞が描写するのは話者の意志ではなく、出来事であった。能動態/受動態の二項対立は存在せず、代わりに、能動態と対立するものとして「中動態(middle voice)」と呼ばれる態が存在した。
ここでようやく本書籍の主人公である「中動態」が登場する。中動というと、まるで能動と受動の中間にあるものの様に思えるかもしれないが、そうではないようだ。
能動態/受動態の関係が「する/される」だとすると、能動態/中動態の関係は「外/内」である。言い換えると、動詞が名指しする過程が話者の外で完了するのであれば能動態、動詞の名指しする過程が話者の中で進む場合や、話者自身がその過程の場所であるような場合が中動態である。
では、具体的に、どのような動詞が中動態に該当するのだろうか。著者はトークイベント中の客席との対話の中で、わかり易い例として「惚れる」という言葉と挙げている。
行為の当事者でありながら、気づけばその過程にあったとき。積極的に行ったわけではなく、かといって強要されたわけでもない場合。中動態が適用されるのはそういった行為を表す動詞であり、前述の「惚れる」しかり、そのような言葉はそれほど珍しくない。
中動態的な動詞においては、行為の主体よりも出来事が前景化し、なにより行為者の意思が問われていない。
現代においても、われわれの行為のうちいくつかは、中動態に当てはまるものがある。にもかかわらず、文法上、動詞は能動態と受動態に限られるのはなぜだろうか。動詞の一つの態が、たまたま忘れ去られるなどということがあるだろうか。それとも、だれかが隠してしまったのか。何の為に?
ギリシア世界における「意志」の欠如
動詞の態が違えば、人々の世界認識も異なる。OSが違う、と言い換えても良い。中動態が存在する言語によって語られる世界とはどのようなものだったのだろう。
古代ギリシアでは、能動態と受動態に加えて、中動態が共存していたという。
ハンナ・アレントは、ギリシア世界における意志の概念の中に、奇妙な欠落を発見した。例えば、当時を代表する思想家、アリストテレスの存在論においては、実在する一切のものには、その原因としての「可能態」が先行しているとされている。未来は過去の帰結以外のなにものでもないと言う見解だ。
行為者が自らの行為の源泉であるとする観念とは異なり、そこでは、意思を表す言葉は不要であり、必要とされるのは、客観的に出来事を描写する動詞である。このように、自然を現象として科学的に記述しようとするギリシア世界の哲学においては意志の概念が欠如していた。意志を表す言葉すら持たなかったという。プラトンやアリストテレスを読んでも、意志の概念に相当するものは出て来ないのだ。
ところがその後、ラテン語が台頭する時代になると、思考のOSとしての言語は更新される。動詞は人称を獲得し、行為や状態を主語に結びつける言語へと、行為者を確定する言語へと移行した。そして能動態/中動態の関係は能動態/受動態の対立へと変化し、その結果、出来事ではなく主体の意思が前景化した。
注目すべきは、意思というカテゴリーが存在しなかったという歴史そのものよりも、その後の西洋世界で意志や責任、主体といった概念が創造された事実である。
人類が意志概念に目覚める過程、フーコーはそれをキリスト教的な思考の枠組みに由来するものと指摘した。『性の歴史IV』によれば、アウグスティヌスは原罪の概念を使って無限に反省を強いられる主体を定立した。原罪とは解消されることのない罪悪感である。キリスト教による主体化が、意志や責任の概念を生み出した、と。
ここで、われわれがその存在を疑っても見なかったもの、つまり、行為する主体の源泉であるところの意志という概念が、社会の要請から発生した後天的なものだとしたら?という問いが生まれる。
意志という虚構
意志とは行為の源泉であり、あらゆる行為の起点でなければならないはずのものである。もしそうでないなら……例えば、過去に起こった出来事の結果「仕方なくやってしまった」ことであれば、そこに意志があったとは言えないはずだ。その場合でも、行為の主体に対して責任を問われるべきだろうか。「あなたのせいではない」と言う人もいれば「それは無責任な態度だ」と責める人もいるだろう。
この様に、意志と責任はセットで語られる。
責任を問うべき行為とは、意志によって開始された地点における行為を指すと思うのだが、その地点がどの地点なのか、どのように確定すればよいか。行為の原因をどこまで遡ると原因となる意志が出てくるのだろう。
「自らの意志」だと言う以上、それは過去からの帰結であってはならず、歴史から切断された絶対的な始まりでなければならない。しかし過去の歴史や現在の状況と切り離された行為というのは、いわば「無からの創造」みたいなものであり、そんなものは存在しえないのだから、そもそも意志など実現不可能だ、と言ってしまう方がわかりやすい。
このパラドックスをハイデッガーは皮肉を込めて「意志とは忘れようとすることだ」と述べていている。意志とは、ただ未来だけを眺め、過去を忘却することでしか実現しないと言っているのだ。「意志するとは考えまいとすること」とまで述べている。安易に意志を前提とすることを厳しく批判しているのだ。
意志とはだれもが初めから持っている人間の基本的な能力などではなく、自由な意志を掲げるものは、自分の行為の原因を何も知らないだけかもしれない。それどころか、そこから目を背けるために「自らを動かす意志」という虚構で覆い隠しているのかもしれない。
意志と責任を批判する
このように、近代以降の哲学においては、意志はたびたびその存在を疑問視されてきた。ただし、これはリベラルアーツによって少しおかしくなった人間が言うところの「意志」である。経験的には、意志こそが主体の本質だと考えてもおかしくはない。だれもが意志に基づき行為していると考えることに、何の不都合もないはずだ。
本当にそうだろうか?
アメリカの作家David Foster Wallaceの有名なスピーチ「これは水です(This is water)」ではリベラルアーツの役割を「先天的な自己中心的なデフォルトの思考を脱却すること」と言った。それは要するに、常識的な思考を批判することで、常識の外部へと、もしかするとそれは新しい常識へとアップデートしていくことであり、それこそが、今より少し自由に近づくということでもある。
この意味で、「中動態」について考えることは、私たちのデフォルトの思考である「意志と責任」を批判することにほかならない。
私たちが本質だと思っているもの、つまり「意志と責任」が、単に能動態 v.s. 受動態という文法上の対比が生み出す効果に過ぎないものだったとしたら?それはまだマシな方で、統治に便利だから普及しただけの概念だったとしたら?
二項対立ではなかったものを二項対立にする、というのは、世界の秩序化とも言えるし、単純化でもある。物語に落とし込む過程で元々そこに有った何かが隠され、抑圧されている。能動態と受動態の二項対立を壊してみることで、意志をめぐる目眩のするような「哲学的な転回」が訪れた。
それによって何が得られるか。普段見えないものを垣間見た気がするが、それだけといえば、それだけだ。また新しい問いが生まれ、既知が未知に、よりいっそう世界がわからなくなったとも言える。
こうした感想が誰かの役に立つとも思えないし、なにか別の目的があるわけでもない。言うまでもなく、誰かに書かされたものでもない。気づいたら書いていた、というか書く過程にあった……などと言えば中動態の濫用だろうか。
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