古語「なつかし」による男女の愛の表現 古文作家 松井 浩一 の面白くてためになる古語と古典文法解説 第2回
古語「なつかし」で男女の愛を表現する! 受験などで少し古文を頑張って勉強した人ならば、えっ! なにっ!? そんな場面で使える意味があるのか!? って思うのではないでしょうか?(笑)
しかし「なつかし」には、大人の関係にこれからなる、またはすでになっている愛し合う男女が、相手に対して覚える感情「抱きしめたい」という意味があるのです。ちょっと下品な表現にすると「抱きてぇ!」こんな気持ちです。
具体的な用例を見ていきましょう。
◎用例1
もの心憂がるけしきもなく、思ひ寄りぬるやうおぼゆれば、やがて静やかに横たへ手枕しつ。
「寒からずや……」「さなむ……」「かくは、身はならはしのものにとはなりななむ」とてまた口重ねゆく。
かくするうちに、いとどなつかしう おぼゆれば、
【苔の下道 P124 L8~L11】
いやがるような様子もなく、心を寄せてくれているようなので、そのまま静かにベッドに彼女を横たえて手枕をした。
「寒くはない……」
「うん……」
「こういうことが、いつもの慣れたことになってくれたら……、いいのに」
そしてまた口を重ねていく。
口を重ねているうちに、彼女のことを抱きしめたくなったので、
【苔の下道 P125 L10~L16】
◎用例2
かくなる思ひやりても、心ゆき果たで、なほ、なつかしくもかなしむ心付きぬるを、あさましうもあはれにおぼゆ。
【苔の下道 P126 L7~L9】
かりそめの思いを遂げても、心は満たされなくて、さらに抱きしめて大切にしたい気持ちになってしまったので、そんな自分の気持ちを意外に思いながらも、彼女への愛しみの心があふれ出て来るのを感じてしまう。
【苔の下道 P127 L11~L13】
これは僕の自著「苔の下道」からの引用なのですが、こんな用例を挙げてみても信憑性には欠けますよね。だってこれはいわゆる自作自演というやつで、僕が勝手に古語「なつかし」の意味を作り上げている、または間違った意味で運用していると思われるかも知れないからです。
それではここで古語辞典での「なつかし」の意味を見てみましょう。
【なつかし】~三省堂全訳読解古語辞典
①心がひかれる。親しみが感じられる。
②手放したくない。かわいい。いとしい。
③昔がしのばれて慕わしい。なつかしい。
以上の③の意味は現在の「なつかしい」の意味と重なってくるのですが、これは中世以降に出てきた用法で、中古以前では①、②の意味が主体になります。ですので「なつかし」は現在用いられる意味とは意味が異なる古語の典型的な言葉であるのです。
ここには「抱きしめたい」なんて意味はないですよね。
と言うことは……、やっぱり、「なつかし」を「抱きしめたい」なんて訳すのは信憑性に欠けるよなあ!? ますますこう思われるかも知れません。
しかし、ここで「なつかし」の原義を見てみて下さい。
【三省堂全訳読解古語辞典】
「なつかし」
四段動詞「なつく」が形容詞化した語。人や物に心がひかれて、そばに寄り添いたい気持ちを表す。そこから好ましい、魅力的だ、の意にもなる。
【古典基礎語辞典】大野晋 角川学芸出版
「なつかし」
動詞ナツク(懐く、カ四)の形容詞化した語。ナツクは、近寄り、密着して、親しむの意で、ナツカシの原義は、なつきたい、目前にある対象の身近に寄りたい、と思う気持ち。ナツカシの対象は、人・自然・物・動物など広い。人については、男性・女性、また同性・異性を問わず用いる。
【高校生のための古文キーワード100】鈴木日出男 ちくま新書
「なつかし」
動詞「なつく」が形容詞化した語。相手に近寄ってとりつきたい気持ち、なれ親しみたいという気持ちを表すのが原義。
そうなんです。この原義から推し量るに「なつかし」を「抱きしめたい」と訳すのも十分ありなのではないかと思えませんかね?
「そばに寄り添いたい」「近寄り密着したい」「近寄ってとりつきたい」
ここから文章の前後の状況、流れなどを勘案した時、「抱きしめたい」という意味は導かれてくるのではないかと思うのです。
実はこの訳はもともと僕が考えたものではないのです。実はこれは国文学者の玉上琢弥先生が、「源氏物語」の「浮舟」の帖で用いているものなのです。玉上先生は谷崎潤一郎の「源氏物語」の監修者であり、ご自身も「源氏物語」の現代語訳を原文と原文の注釈付きで完成させました。
この偉大な業績は、現在角川ソフィア文庫にて今なお刊行されております。
その「浮舟」の帖で「愛敬(あいぎやう)づきなつかしくをかしげなり」
という原文を「かわいらしく抱きしめたい感じの美人だ」と訳しています。
ここに「なつかし」の訳として「抱きしめたい」が出てまいりました。
「浮舟」の帖での前後の話の筋をかいつまみますと、
薫の君は浮舟が好きになってしまって愛人とした。誰にも知られぬよう宇治の山荘を用意してそこに住まわせて、薫は時々浮舟のもとに通っていた。
匂宮も浮舟に興味を持っていた。そこで浮舟が隠されている宇治の山荘のありかをつきとめて、ある晩薫のふりをして忍び訪ねて行く。
薫のふりをしているので、浮舟の居間にやすやすと招き入れられ、そこで半ば強引に浮舟と男女の関係になってしまう。
夜が明けても帰らずに結局帰ったのはまた翌日の明け方近く、ほぼほぼ浮舟のもとで2泊もしたのでした。
その日中の明るいところで浮舟を間近く眺めて匂宮が思ったことが、上記の「愛敬(あいぎやう)づきなつかしくをかしげなり」
「かわいらしく抱きしめたい感じの美人だ」
なのです。
この感じ、分かりますよね。
男性に対して問いかけますが、恋人である女性に対して、またはこれから恋人になるであろう女性に対して、うーん、もしかしたら一夜限りのアバンチュールということもあるかも知れませんが、愛欲の入り混じった気持ちで、「抱きしめたい」と思ったことありますよね。
まさに適訳だと思います。さすが辞書にある意味を1対1で当てはめて訳しているようなレベルとは違うと思います。
下に与謝野晶子以降の源氏物語の「浮舟」のこの部分の現代語訳を全てではありませんが、11例を挙げております。
このうち、③、⑤、⑥は学者の手による原文と注釈付きのものです。
③が玉上琢弥先生のものです。
これを見ますと、ほとんどの方が「なつかし」の意味を「親しみやすい」「心がひかれる」「好ましい」的な訳し方をしていることがわかります。
ですけど、この場に即した訳し方としては意味が弱いなあ。これでは長年連れ添ってソウルメイト的になった妻や恋人に対する感想を述べているように思えます。
しかし場合によってはこのような訳し方もありなのかなとも思います。
と言いますのは、異性に出会った当初、執着するほどに惚れてしまう原因は男女の欲つまり愛欲の情にあることが、ほとんどではないかと言えるのではないかと思うのですが、しかしいったん惚れてしまうと、惚れた原因を男女の欲にのみ求めることでは身も蓋もなくなってしまうので、内面的な美点についても後付け的に原因を求めようとすることはよくあることではないかと思うからです。
ではこの「浮舟」の帖の場合、匂宮はこのような後付け的な意味合いで「なつかし」を浮舟を評価する言葉として用いているのでしょうか?
そうではないと思います。そうだとするには前後の文脈から考えて材料が乏しすぎると思います。
なにしろ薫が浮舟を隠した宇治の山荘をつきとめて、わざわざ夜間に遠路忍んで行くという危険を冒して、危険はそれだけでなく、薫にばれるかも知れないという大変な危険も承知の上で、浮舟を半ば無理やりものにしてその晩は泊まり、翌日は一日一緒に過ごして、さらには翌明け方近くまで居続けるという、ほぼほぼ二泊もしている有様。そして後日また匂宮は浮舟と一緒に過ごすべく宇治を訪れるという執着ぶり。このような匂宮の行動を考えてみますと、ここの訳としては、男女の愛欲が垣間見える「抱きしめたい感じ」というのが適訳だと思うのです。
おかげで僕の男女の情愛を表す古語のボキャブラリーが広がりました。玉上先生に感謝です。そして僕の古文表現の大師匠である紫式部大先生も僕のこの古文表現がこのような域に到達していることを喜んで下さっていると思っております。
実はこの玉上先生の「なつかし」の訳「抱きしめたい感じ」は、僕が玉上先生の源氏物語の訳本を精読した結果、発見したものではありません。
これは大塚ひかりさんの著書(なんという本だったか忘れてしまいましたが)に書かれていたものなのです。さすが大塚さんはひと味違う作家でいらっしゃいます。古語を現代語に訳すにあたり、このような視点を与えて下さった大塚ひかり先生にも感謝です。
大塚さんの訳は下記の⑨になります。「吸いつきたい」これは「抱きしめたい」より強烈な表現かも知れません。
「愛敬(あいぎやう)づきなつかしくをかしげなり」
の現代語訳の事例
①愛嬌の多い美貌で女はあった。
与謝野晶子訳 新訳源氏物語 金尾文淵堂 1913年11月
②可愛らしく、やさしく、美しいのです。
谷崎潤一郎訳 源氏物語 中央公論社
旧訳1941年 新訳1954年 新々訳1965年
③かわいらしく抱きしめたい感じの美人だ。
玉上琢弥訳注 源氏物語 角川文庫 1964年5月~1975年1月
④どこからどこまで愛らしくやさしく美しい。
円地文子訳 源氏物語 新潮社 1973年
⑤やさしく情味をたたえて、人なつこくいかにもかわいらしい風情である。
小学館日本古典文学全集 源氏物語六 1976年2月
阿部秋生 秋山 虔 今井源衛 校注・訳
⑥愛らしくてやさしく女らしい風情がある。
新潮日本古典集成 源氏物語八 1985年4月 石田穣ニ 清水好子校注
⑦人なつっこくてやさしく、美しいのです。
瀬戸内寂聴訳 現代語訳源氏物語 講談社 1998年
⑧愛嬌があって、慕わしく魅力的である。
渋谷栄一訳注 源氏物語の世界 2000年10月
⑨こぼれるような愛らしさがあって、吸いつきたいほど魅力的なのです。
大塚ひかり訳 大塚ひかり全訳源氏物語 ちくま文庫 2009年
⑩愛嬌があって親しみ深く、満点の魅力があるように見える。
林望訳 謹訳 源氏物語 祥伝社 2013年
⑪あふれるような魅力をたたえ、やさしく女らしい人だと宮は思う。
角田光代訳 源氏物語 河出書房新社 2020年