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【書評】ダン・シモンズ「カーリーの歌」(1985):ホラーの枠を超えて社会の原理を問いかける佳作

■ はじめに

ダン・シモンズの「カーリーの歌」(原題:Song of Kali)。1985年に発表され、世界的に権威ある「世界幻想文学大賞」を勝ち取った作品だ。

あえてこの本について書く理由は以下の通り。
①単なる娯楽小説の垣根を超えたテーマに挑んでいるという点、
②そして作者が挑むテーマはまさに今考えられるべき話題である点

シモンズは「ハイペリオン」シリーズなどで知られる、米国を代表するSF作家だ。いわゆる重厚長大型の本格作品を書く人だと思って敬遠していたのだが、作家の風間賢二さんが本作を勧めていたので、読んでみることにした。

※注意※
※以下は、かなりのネタバレを含みます※

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■ あらすじ

ニューハンプシャーで活動する詩人のロバート・ルーザックは、数年前に亡くなったはずのインドの著名な詩人M.ダースの新作を文芸誌に掲載するため、インド人の妻と幼い娘とともにインド東部の大都市、カルカッタへ原稿を受け取りに向かう。

度重なる飛行機の遅れ、群がる物乞い、悪臭漂うスラム、獰猛さを垣間見せる人々。喧騒と混沌に満ちたカルカッタに戸惑いつつも、カルカッタに本拠地を置く地元の作家同盟から原稿を受け取る手はずを整えるも、ダース本人への面会はかたくなに拒否される。

一方、地元の青年クリシュナを通じて、ルーザックは殺戮を司る女神カーリーへの信仰がひっそりと生きていること、そしてダースの突然の死と復活には、カーリー信奉者(カーパーリカ)が深くかかわっていることを知る。

やっとの思いでダースの原稿を手に入れるも、飛行機のトラブルなどでルーザック一家は現地に足止めを食らう。次第に事態は血生臭い方向に動き出し、挙句ルーザックの一人娘ヴィクトリアが攫われてしまう。ルーザックと妻のアムリタは娘の救出、そして事態を陰で操っているカーパーリカとの対決を決意する…

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■ カーリーの歌=暴力が力を持つ世界への希求

本書をカルト教団の陰謀に巻き込まれた無辜の市民の抵抗劇として見てしまうと、恐らく本質を見誤るだろう。というよりも、娯楽的側面だけ見た場合は、かなりの消化不良に襲われるのではないか。なぜなら、本書における重要な謎のいくつかは解かれないままに終わるからだ。

・ダースの死と復活のからくり
・ダースに2回目の死をもたらした人物
・地元青年クリシュナが主人公に近づいた目的
・ヴィクトリア誘拐を陰で操っていた人物の確たる目的
・ヴィクトリア誘拐の実行犯たちの動機

これらの謎解きは劇中で仄めかされることもあれば、まったく手つかずに残されるものすらある。

一つだけ確かなことは、ダース(物語中盤の本人の言が正しければ、一度溺死したあとカーリーの力で復活した)は、カーリーによる破壊と暴力性を称える詩が世界に広まることを望んでいたということである。

それこそが、米国から主人公がインドまで呼ばれた理由でもあった。世界的な文芸誌に掲載され出版されることで、カーリーの歌=暴力への礼賛を世界に広めるという、ある種破滅的な関心によって動いていたわけだ。
(ただしこれは自暴自棄な動機というよりは、世界に存在する暴力の本質を表面化させようとする取り組みにも見える)

「力こそが唯一にして偉大な、宇宙を一つにまとめていくための根本原理なのです。(中略)そしてあらゆる暴力はすべてこの力を習得するための試みにすぎません。暴力こそは力なのです」(本書p.279)

結局、ダースの新作(にして遺稿)は出版されることはなかった。主人公が何百ページ分の原稿用紙を一枚一枚丁寧に破り捨て、日の目を見ることはなかった。

それでも、主人公の耳にはカーリーの歌が聴こえる。

悪魔祓いと称して幼い子供を焼き殺したクリスチャンの親子。
ガールフレンドを暴行して殺害した高校生。

これらは主人公の身近で、少なくとも同じ国で起こった出来事だ。ごく普通の人々が奥底に抱える暴力性が顕在化する時代、すなわちカーリーの時代の到来が予言されている。

「彼らはごく普通の一般市民なのです。あの忌まわしい事件が起こるまで、そして終わってからも、きわめてまっとうな世界に住む人々だったのです。カルカッタがベンガルの精神病院などと、したり顔で言う人々の愚かしさがこれでおわかりになったでしょう。うわべの下に隠された暴力の底流など、どこの国だってあるのです」(本書p.182)

■ 1980年代後半という時代

この本が書かれたのは1985年。

先進国では米国の主導でプラザ合意が成立した年だ。国際収支と財政収支の「双子の赤字」に苦しんだレーガン政権を見た先進各国は、協調的なドル安相場への誘導介入を決めた。

膨張する世界一の経済大国の収支赤字が国際的な不安を煽っていた時代である。ちなみにこれによってドル円相場は急激な円高に振れ、のちのバブル景気の下地が作られた。

中東ではイラン・イラク戦争の真っただ中で、軍事的緊張が続いていた(作中には、米国からインドへ向かう飛行機がイランを経由する描写がある。今では考えられないが)。

中国ではこの4年後に、近代中国最大の暗部とも言うべき天安門事件が起きている。

そして本作の舞台となったインドでは、前年にインディラ・ガンディー首相が分離派シク教徒の本拠地を攻撃し、報復として暗殺された。

乱暴との誹りを恐れずざっくりとくくるならば、80年代後半は、のちに世界経済をけん引する新興国において、血生臭い出来事が起こった時代だった。シモンズが新興国における暴力的テロの連鎖を目の当たりにし、本作の着想を得たとしても不思議ではない。

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■ 暴力と対話:普遍的なテーマをめぐる思索

そして本作の発表から35年が経った。

コロナウイルスの世界的流行にもかかわらず瞬く間に拡大し、一面では無秩序な略奪と成り果てた米国の黒人殺害への抗議デモ。

先進各国が揃って再考を促す中国による香港への統制強化と、香港市民の抵抗(今のところデモは平和的に行われているが、政治デモがしばしば過激化することは世の常だ)。

米中の貿易戦争にともなうグローバルサプライチェーンの分断に、世界から移動を奪った新型肺炎。逼塞する状況における暴力の台頭は半ば必然かもしれない。

そこに暴力=カーリーの歌をもって対抗するのか、対話と相互理解をもって歩み寄るのか。人と社会を動かす原理として、私たちは何を選択するのかを本作は問う。

近代以降の人々は「万人の万人に対する闘争」を経て、擬制的な社会契約をもって、社会を築いてきた。直接・間接の暴力に対して単に報復するのでもなく、泣き寝入りするのでもなく、あるいは本質的に不可避の性質として諦めるのでもないあり方がいま再び考えられなくてはならない。

「カーリーの歌はわたしたちとともにある。それははかり知れない昔からわたしたちとともにあったのだ。そしてその歌はますます大きくなりつつある。だが、また別の声が存在することもまた確かである。この世には歌われるべき別の歌があるのだ」(本書p.411)

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■ おわりに

この本は、インドの特殊性に関する興味深い議論を喚起する点でも議論に値するのだが、紙幅の都合でそこまで描けそうにない。本作含めインドを知るための本を別の機会に紹介できればと思う。

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ここまでお読みくださりありがとうございました!


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