本当にやりたいことは必ず出来ます。 未来予想図のとおり『やってやれないことはない』として書きました。
プロローグ
遠い遠いその昔、昭和39年に東京オリンピックを迎えた小学校5年生。社会は大きく変わっていき、人々の自意識も強く芽生え始めました。カラーフィルムが販売され、街中のあらゆるものにいろいろな色が付き始め、カラーテレビができて白黒の世界から鮮やかな色のついた世界に変化していく様は、将来への希望でした。東京都内はあらゆる道路の下に下水道管が敷設され、その後は全て舗装されつくしました。
都内では水洗トイレが整備されました。初めてのトイレットペーパーに触れた時は幅の狭さに戸惑いを覚えましたが、それまでの公衆衛生の観点からみれば、衛生の質は雲泥の差です。
人の集まる場所に置かれたタンツボは撤去されました。痰壺と書きます。肺から出る痰を吐き出す壺です。今では、道路に痰を吐く人を見かけなくなりましたが、当時は多くの人が痰が出るほどの土埃や排気ガス、密集地での空気環境の汚染など汚れた空気にさらされ、街中には黄緑色した痰を吐く人が多くいました。
どんどん変わっていく東京が私の人生にも明るい指標を導き出すきっかけとなりました。皆さんの中にはご存知の方がいるかもしれませんが、加山雄三主演「若大将」シリーズの映画に見入った私が衝撃を受けたことがその後の生き方を変えてしまいました。一人の青年が空に海に陸に水中に海外にと全てに自由に人生を謳歌するその世界がまぶしく映りましたが、私の理想でもありましたので人生「これしかない」で決まりました。 但し、無理をせず自らの力量の中にあって、やれるときに行うことを目標にあるがままにいつか叶うという思いで行くことにしました。
「チャンスは、誰にでもある。自分の目の前を平等に過ぎてゆく。ただ、それをつかむ用意ができているかいないかである。」という言葉を日々の暮らしの中に置きました。
黎明期
10代後半から20代前半は、一人で右往左往しながら歩き始めた私の人生の黎明期です。この時代のエポックは何と言ってもドルショックとオイルショックでしょう。もはやこの経済動乱を知る人は私達世代以上だけかもしれません。
ドルショックは1971年に1ドル360円の固定相場制から変動相場制に移行せざるを得なくなり、その結果1980年には175円まで円高になりました。約2倍の円高です。
この背景を基にガソリン価格が50円台で安定していた時に毎年の値上げで100円台に上昇。トイレットペーパーが市場から無くなり、この間に起こった1973年第1次オイルショックから1979年第2次オイルショックの間にありとあらゆるモノの値段が2倍近く値上がりしました。 短い期間に2度のオイルショックがあり、航空業界は求人募集ゼロ。それどころか原油を使うことに関係する仕事は、求人が見当たりません。求職氷河期という言葉がありますが、その頃主流であった広告媒体の新聞からも大手企業の募集広告がほとんど消えてしまいました。1ドル360円であった外国為替が1ドル250円台になり、あっという間に180円台の円高になったおかげで、この混乱が起こりました。これらを狂乱物価と呼び、高度経済成長は終焉を迎えました。
世界へ
20代前半は、1971年のニクソン・ショックから始まる日中友好条約の締結が私に素晴らしい外交旅行のチャンスをくれました。
第1回東京都日中友好青年の船の団員に選ばれ、未知の国へ出ていくきっかけとなりました。第1回とのことで慎重を期した選考は、第3次試験まで課されました。
今では考えられませんが、政治信条や宗教まで聞かれた記憶があります。
1976年3月、晴海ふ頭から音楽隊の見送りを受け、ドラの音とともに出航です。
船の名は「コーラルプリンセス」。約500名の団員とともに中国に向かいました。
東シナ海は大荒れでした。船が波間にエレベーターのように上下し、甲板に大波が叩きつけている状態に一瞬の恐怖を感じたものです。無事に上海に到着し、日中友好外交の始まりです。書きたいことはたくさんありますが、そこは抑え気味にしましょう。何せ、あらゆる人とあらゆるものが初めて見るものばかり。中国語を話すことさえ初めてで20歳の青年には驚きと感動の連続でした。
上海市内と南京市内をバスで回り友好行事を行いながら、北京までは緑色の列車旅です。北京からはバスで万里の長城に行きました。天安門広場につながる故宮は中国清王朝時代の遺産が多く展示され、故宮の規模は想像を絶するものでした。
ある日、ホテルに宿泊していると夜中の0時にドラの音が街中になり始めました。窓を開け眼下を見下ろすと、そこには人民服を着たとてつもない多くの人達が集まってきています。「何が起きたんだ?」不安と衝撃で唖然と見ていたことを思い出します。
翌朝、ホテルの団員達は情報収集を始め、新聞をもらいに行き、その記事に「打倒!鄧小平」とあります。鄧小平が政治的に敗れた瞬間でした。資本主義を一時的に導入しようとした試みは終わりました。その日の友好行事に向かうバスの道筋には、多くの市民が横断幕を揚げ「毛沢東 万歳!」とシュプレヒコールを挙げながらデモ行進していました。街中はこのような状態で、バスもなかなか進むことができませんでした。
政治というものの拍動を直に感じ、その場にいた者しか受け取ることのできないパッションに対し、思考転換のあり方に思いを巡らせたものでした。
海へ
20代後半の時、ある雑誌に出ていた募集広告は海洋へのいざないを彷彿とさせていました。島国であり、海洋国に住んでいながら私はその周りの海を自由に行き来していたことがないことに気付かされ、直ちに応募後、広島県尾道市に移動し、海技学院に入所しました。
海の男の端くれにでもなればと頑張ったおかげで、一級小型船舶操縦士免許を取得し、ヨットでお台場周りやモーターボートで目黒川を遡上し、五反田の先まで行きました。夏には大島まで航海し、甘く見た日焼けに散々苦しめられました。
30代の前半にふと目にした魚に向き合うダイバーの動画を見ていた時、「魚が逃げない」場面にくぎ付けになりました。釣り堀で魚を釣るのではなく、彼等の世界に入った時に魚達はどのように相対するのか興味が膨らみました。 スキューバライセンスを取得し、30メートルの海に潜ると意識も大きく変わりました。私達は太古に海から生まれてきたことを思い出させるほど抱かれた気持ちになり、ウマヅラハギや伊勢海老はこちらをじっと見ているだけで逃げません。彼等の世界にお邪魔しているだけなのでしょうね。謙虚に生きなければと学んだものです。
アメリカ生活 ~パイロットからハリウッド映画出演まで~
その1 ヘリコプターパイロット
そうこうしていた30代中盤戦。10代から読んでいた航空雑誌に増えてきた留学生募集の記事。もともとパイロット志望でもあったところにチャンス到来。
アメリカ留学の機会を得て、EMSドクターヘリの操縦訓練目指してオレゴン州に渡航することになりました。
この間は私の本業である医療と病院運営、医療と経営の分離について学ぶため、地域中核病院への研修も同時に行い、カレッジの講座も受講しました。学ぶことの多いこの1年間は、私の人生にものの見方を変え、視野を広げてくれました。
私の飛行教官は1つ年下の元カーペンターです。フライト訓練を始めてから教育のできる免許取得まで2年目の教官です。日本の常識からすると考えられない経験のパイロットが教官として教えるわけです。大丈夫でしょうか?安全でしょうか?私の不安を解消するために思い切って疑問を投げかけてみました。
彼の答えは明瞭でした。「免許を取りたてのパイロットは、最新知識を持っている。それらに加え、身体に染みついた飛行訓練が基本に忠実に覚えている。まして、自分達にとっても教えるということで自分が受けた飛行訓練の復習ができ、より安全なパイロットになれる。」というものでした。
この論理には異論をはさむ余地が無く、合理主義的な西洋思想の一端を見た思いでした。
「コンセントレイト」必ず言われる言葉です。命を懸ける訓練は真剣そのもので、「集中」の重要性を鍛えてくれました。
事業用免許取得後は、レンタカーを借りるようにヘリを借り、農場に野菜を買いに行ったり、街中のスパゲティハウスにヘリで乗り付け食事をしたり、朝の牧場にモーニングコーヒーを飲みに行ったり、西海岸の断崖絶壁に立つピンクの喫茶店の横に乗り付けてアフタヌーンコーヒーを飲んで休憩したりと日本では味わえない日々を過ごしました。
フライト中に休憩の為、川の中州に着陸してコーラを飲んでいたら、コーストガードと書かれた大型ボートにサングラスをした屈強の男性が8人こちらをジッと見ており、手を振ったら返してくれたのでホッとしたことを覚えています。何しろ、前日に街中で警察官がパトカーの横から銃を構えている場面に遭遇したので、緊張がよぎっていました。
ジェットヘリの免許も取得し、コマーシャルの仕事もさせていただきました。フロートのついた水上ヘリの免許も取得。湖に着陸後、船のように動き回っていると珍しがってボートが近づいてきて困ったものです。
その2 ハリウッド映画出演
あっという間に数カ月が経った頃、ハリウッド映画に3か月間にわたるエキストラとして出演の依頼が飛び込んできたので、すぐOK。
「COME SEE THE PARADISE」日本語タイトル「愛と悲しみの旅路」を見る機会があれば、私の50年代のスーツに帽子をかぶった後姿とたばこの煙の向こうで話している私に出会えることでしょう。(この映画は第二次世界大戦中のお話です)
出演料も280ドルいただきました。
大きな懐を持ったアメリカでいろいろな国の人達ともルームメイトになり、いろいろな話をしていろいろなところに行き、1年間過ごした充実度は何物にも代えがたい私の軌跡となりました。
パイロットから病院事務部長へ
帰国後、事業用操縦士の資格と航空無線通信士の資格を取り、日本の空を北海道から北九州まで飛び回っていましたが、私が目指したドクターヘリは40歳になろうしていた時に未だ日本政府の構想には無く、諦めることにしました。しかし、ただ諦めるのではなくこの期間に培った視野やものの考え方を土台にして次の更なる挑戦をすることにしました。
何に挑戦をするか?そこが問題です。
私の人生は26歳より一般病院に勤務を始め、医学部付属病院まで勤め上げておりました。その経験から、ある病院の理事長に呼ばれ「君に経営を全て任せるから立て直してほしい。」との一言にアメリカで学んだ『医業と経営の分離』についての知識が役立つ時を得て、チャンス到来と判断し、快諾しました。
経営の立て直しとは『倒産寸前』を意味しており、再建計画を立て、5年間かけて多くの課題をクリアし増改築も終了しました。
全精力を傾注した病院運営は、地域にとってなくてはならない病院と福祉介護施設に変容し、私の役割は終了しました。
病院事務部長から獣医師へ
次は何を目的とするか?
原点回帰。私は何をしたいのか?と人生最初に思ったのか。
人生最初の職業選択は獣医師でした。
決まれば早くと本屋に出掛け、如何にして獣医学部に入学するか広い視野で情報を集め、集中する物を選び対策を立てました。試験日まで8カ月弱。試験と面接について徹底的に自己診断し、強みと弱みを分析して整理し、仕事をしながら使える時間を計算して到達点を決めました。
こんなことばかり書くと真面目に勉強をしたと思われるかもしれませんが、日々の仕事に影響しないほどと心得て、淡々と実行していきました。試験当日は、12倍の競争率に加え、専門予備校ノートを持参している方もいて、開き直るのが精いっぱいでした。面接試験は多少とも圧迫面接でしたが、「獣医療の為に私の人生を無駄にするわけにはいきませんが、私の全ての人生経験を基に新しい獣医療に貢献できないかを考えています。」大見得を切りました。その時の面接官の学部長は一言「分かった」とおっしゃいました。その10日後に合格通知が届きました。
それからの6年間はいろいろありました。
今までも自分に合った勉強法を行ってきましたが、それはますます先鋭化し、崩すことなく勉強し、卒論は55ページにわたり、学年3本指に並びました。私の集大成は「獣医師国家試験合格」と、この「卒論」そして47歳で入学し、53歳で卒業できた影には自分と親子ほども違う若い学生の青春と光の影に関わり、失っていた若さを理解できる力を取り戻したことでした。動物との接点は「アニマルセラピーサポートセンター」を立ち上げ高齢者施設で実地研究を行いました。
卒業後は入学時の面接公約に則り、臨床を行い続けると共に動物病院の近代化に関与。専門学校での専任講師としての教育経験や幾多の新規開業獣医師に対する知的援助、人医療看護師の動物病院勤務へのすすめなど多くの活動に関与しました。
そして現在
次は、公衆衛生に向かうことにしていました。1つの自治体で食品衛生監視員、3つの自治体で環境衛生監視員として勤務しました。
住宅宿泊事業法(民泊)と旅館業法に振り回されながらも、使命をもって公衆衛生行政の一助になるべくやりがいがありました。
人生いろいろですが、一つ一つ選んだ人生に一生懸命に関わっていくことこそ天命と思いつつ進んできた道が、ようやく私の人生行路として一本の道として結びつけることができました。これも私の人生に接点を持っていただいた方々との一期一会があってこそできたことです。
ただひたすら感謝の念を感じるこの頃となり、若い人たちに私の経験をお話していこうとつらつらと思っている現在です。
先ずはここから。
ご興味のある方はスキステップをお願いいたします。
この続きは、それぞれのタイムラインの出来事をお話ししようと思っています。