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東京都知事選挙と表現の自由

「ナンのおかわり自由の店でおかわりをしない自由を行使している」牛隆佑の詩集「鳥の跡、洞の音」で紹介されている詩。自由という言葉は世界人権宣言の第1条「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」とあるように人類が多くの犠牲を払いながら、近代において勝ち取った人類普遍の理念です。そんな「自由」という言葉を考えなければならない事態が、東京都知事選の候補者が掲示する卑猥なポスターを見たときに起きていると感じましたので、今回は人類普遍の「自由」についてといきたいところですが、そこまで大それたテーマではなく「表現の自由」について学んでいきたいと思います。


表現の自由と日本国憲法

現在の日本国憲法は戦後敗北した日本においてアメリカの強い影響のもとに制定されました。国民が主権者になったことにより、大日本帝国憲法のもとでは法律の留保のもとに認められていた権利が、留保なしで認められるようになりました。日本国憲法第21条では基本的人権の一つとして「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と定め「表現の自由」を法律の留保なしに保障をしています。

表現の自由と選挙運動

日本国憲法においては第21条の表現の自由の他に、第15条において「選挙活動の自由」も認められていいます。選挙運動は国民固有の権利としてできる限り自由に行われることが要求され、公職選挙法が制限を設けているものの、それ以外は原則的に制限がなされていません。公職選挙法による制限としては「戸別訪問の禁止」が論点となり、これは日本の風土に根ざした、情実による感情によって投票が左右されることを防ぐことによって、選挙の自由と公正を確保するといったことからである。その他は選挙運動のルールに関しては立法府の裁量の問題とされて、合憲のために厳格な基準は適用されないこととされている。

卑猥の概念

さて、今回のポスターには卑猥と言わざるを得ない物が見受けられる。表現の自由と卑猥の概念において欠かすことができないのが「公共の福祉」である。有名なチャレター事件判決や悪徳の栄え事件などにおいても、公共の福祉による制約が認められている。社会風潮や表現の方法が変わりつつある現代においてこの「公共の福祉論」だけでは表現の自由が語ることはできなくなりつつあるかもしれないが、健全な秩序を維持するために、処罰することは国民生活全体の利益につながると考える。表現の自由の他に選挙活動の自由に守られているからといって、何でもありではなく、刑法175条のわいせつ物頒布罪と表現の自由を根拠にした政治活動の表現の関係性について考える時が来ているのかもしれません。

おわりに

世界人権宣言の第1条では先述した文章に続き「人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」と宣言されています。自由を主張するにためには、当然「理性と良心」を忘れてはいけないということです。今回の問題があったポスターの候補者の公約を見ると民法の親族規定、所謂「家族法」の改正や消費税など廃止など都知事の権限では無いような文言も見受けられ、選挙に立候補する目的をはき違えて、ただ悪目立ちしたいだけにしか感じることが出来ません。今後こういった事態に対して選挙制度と表現の自由について立法府が動き出さなければ、政治不信の原因ともなり民主主義の根幹をなす、正しい選挙制度の確保が難しくなる事態となってしまいます。「正しい政治は、正しい選挙から」この言葉が示すように選挙違反は当然のことながら、悪戯に立候補されても正しい政治が行われるとは言えません。とある候補者が記者会見で言った「恥を知れ、恥を」は今回の候補者のそのままお返ししてあげたい。

おまけ

ナンの話からスタートしましたが、偶然にも「あきたかた焼き」なるものを販売しているキッチンカーに出会いました。広島県安芸高田市の市長さんも立候補しているので、応援しているわけではありませんがどういう結果になるのか注目をしていきたいです。ところで東京都は23区の都市部ばかりが注目されますが、奥多摩のような山間地域や島嶼部なども抱えるので東京都は日本の縮図とも言えるのかもしれません。泡沫候補は問題外として、現職以外に島嶼部について触れていない様な気がします。

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