共産党員の修養を論ず 第三章 共産党員の修養と群衆の革命実践 【日本語訳】
第三章 共産党員の修養と群衆の革命実践
我々はマルクス・レーニン主義創始人の最も忠実で、最もよき学生とならなければならず、プロレタリア階級と一切の群衆の長期かつ偉大な革命闘争の中で各方面の修養を進める必要があり、マルクス・レーニン主義理論の修養を有すべきであり、マルクス・レーニン主義の立場、観点及び方法を運用して各種問題の研究、処理する修養を有するべきであり、プロレタリア階級の革命戦略、戦術的修養を有するべきであり、プロレタリア階級の思想意識と道徳資質の修養を有するべきであり、党内の団結を堅持し、批判と自己批判を進め、紀律を遵守する修養を有するべきであり、難に耐えて奮闘する工作作風の修養を有するべきであり、善く群衆と連繋する修養を有し、以て各種科学知識の修養等を行うべきである。我々はすべて共産党員であり、故に我々は全員例外無く上述した各方面の修養を進める必要がある。ただし、我々党員の政治覚悟、闘争経験、工作上の職位、文化程度、社会活動の条件は、各々すべて異なるのだから、特に注意して修養し或いは重きを置いて修養する必要のある方面は、各々の同志によって差が生ずる。
中国古代の曾子は、「吾日に吾が身を三省す」と述べ、自省の問題について言及した。『詩経』上に、このような著名な詩句があるーー「切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し」、これは友人間で相互に幇助をすること、相互に批評をすることを述べている。この一切の説明はすべて、一個人が進歩を求めるならば、すなわち苦しい修練、鄭重なる自己の修養が必須であるということである。ただし、古代の許多の人物のいわゆる修養は、大抵唯心的で、形式的で、抽象的で、社会実践から脱離したものである。彼らは片面、誇大主観的な作用で、彼らの抽象的な「善良の心」さえ保持していれば、すなわち現実を改変でき、社会を改変し、自己を改変できると思い込んでいる。これは当然虚妄である。我々はこのような修養は行えない。我々は革命的唯物主義者であり、我々の修養は人民群衆の革命実践より脱離できない。
我々にとって最も重要なのは、無論如何にあっても目下の人民群衆の革命闘争から脱離できず、むしろこの種の闘争を結合して歴史上の革命経験を総括、学習および運用をするべきであるということである。したがって、革命的実践の中にあって修養と鍛錬を要し、かつこの種の修養と鍛錬の唯一の目的は、また人民のため、革命的実践のためである。これはすなわち、我々は虚心にマルクス・レーニン主義の立場、観点と方法を学習し、マルクス・レーニン主義創始人の高貴なプロレタリア階級的資質を学習し、なおかつ自己の実践の中で運用し、自己の生活、言論、行動と工作の中で運用し、不断に自己の思想意識中の一切の相反するものを洗い流し、プロレタリア階級共産主義の意識と資質を増強することである。これはつまり、我々は虚心に同志と群衆の意見と批判に耳を傾けるべきであり、生活中、工作中の実際問題を仔細に研究し、工作中の教訓を細心に総括し、そしてこれらをもとに自己のマルクス・レーニン主義に対する了解が正確か否かを調べ、自己の欠点と錯誤を検査し糾正を加え、自己の工作を改造することである。同時に、我々は新たな経験に基づきマルクス・レーニン主義にどのような個別の結論があり、どのような個別の方面にあって充実、豊富と発展を加えるべきかを研究すべきである。結論として、我々はマルクス・レーニン主義の普遍真理と具体的革命実践とを結合させなければならない。
これは恐らく我々共産党員の修養の方法である。この種のマルクス・レーニン主義の修養方法と、その他唯心主義な人民群衆から脱離した
革命実践の修養方法とは、完全に異なるものである。
この種のマルクス・レーニン主義的修養方法を堅持するため、我々は旧社会の教育と学習が我々に遺留した最大の禍害ーーー理論と実際の乖離にはっきりと反対し徹底的に粛清しなければならない。旧社会の中にあって、許多の人物が教育を受け学習するとき、彼らが学んだ所の物事は実行する必要がないと考えており、甚だしきに至っては実行は不可能であると考え、彼らはつね仁義道徳を口先で唱え、実際には徹頭徹尾男は盗人女は娼婦のろくでなしである。国民党反動派は『三民主義』を熟読し、孫中山の『総理遺囑』を暗誦しているにもかかわらず、実際は重税を取り立て、汚職殺戮にして、民衆を圧迫し、「世界上の我の民族を平等に待するをもって(という『総理遺囑』の文言)」に反対し、甚だしきに至っては民族の敵と妥協し、敵に投降している。ある一人の老秀才は私に対して直に、このようなことを言った。「孔子が言ったことを、彼は二つの句でなしうる、それはすなわち『食は精なるを厭わず、膾は細きを厭わず』、その他のことを、彼はなにも行えず、また従来より行う準備もしていない。」 もしそうであるなら、何がために彼らはそれでも教育を行い、それでも所謂「聖賢の道」を学習しようとするのか?彼らの目的は、出世し財を手に入れ、この「聖賢の道」を用いて被搾取者を圧迫し、口ばかりの仁義道徳で人民を欺き騙すことである。これは、すなわち旧社会の搾取階級の代表人物の、彼らが「崇拝」する所の聖賢の態度である。当然、我々共産党員は、マルクス・レーニン主義を学習し、我が国の歴史上の一切の優秀な遺産を学習し、このような態度をとることがあってはならない。我々は学び、必ず実行する。我々プロレタリア階級革命家は、忠誠で純潔で、自己を欺き騙したり、人民を欺き騙したり、古人を欺き騙したりすることができない。これは我々共産党員の最も大きな特色であり、また最も優秀なる点である。
旧社会が遺したこの種の毒は、我々に完全に影響がないといえようか?いいや、影響はあろう!君達の同級生の中で、出世し財を手に入れ、被搾取者を圧迫するためにマルクス・レーニン主義を学習するものがいないのはもちろんである。しかし君達の中で、全くこのように思わない者がいないといえるだろうか?すなわち、思想、言論、行動と生活は必ずしもマルクス・レーニン主義の原則の指導を受けなければならないわけではなく、彼らの学び取った所の原則もまた全部運用するつもりはない、と。君達の中にまた、このように考える者はないか?つまり、マルクス・レーニン主義を学習し、より高度ないささかの理論を学習することで、将来の自己の地位を高め、人に誇示し、自己を有名な人物にしあげよう、と。私は、君達の中に完全にこのような考えを持つ人物がいないとは担保できない。この種の考え方はマルクス・レーニン主義に合わず、マルクス・レーニン主義的理論と実践に関わる根本原則に合わない。我々は必ず理論を学習しなければならないが、学習したことは必ず実行しなければならず、かつ、用いるためにこそ学習をするのであり、党のため、人民のため、革命の勝利のためにこそ学習するのである。
毛沢東同志はこのように述べた。「マルクス・レーニン主義の偉大な力量は、すなわちそれが各国家の具体的な革命実践と連繋していることにある。中国共産党にとっては、マルクス・レーニン主義の理論を中国の具体的な環境に応用できるよう学習することである。偉大なる中華民族の一部分にして、この民族の血肉と相連ずる共産党員が、中国の特色から離れてマルクス主義を語るのは、抽象的で空洞的なマルクス主義に過ぎない。したがって、マルクス主義を中国で具体化し、これによってそのすべての表現中に必ず中国の特色を帯びさせること、すなわち、中国の特色に照らしてこれを応用することは、全党が速やかに了解し、速やかに解決しなければならない問題である。西洋かぶれを廃止しなければならず、空洞で抽象的なことを唱えるのを減らし、教条主義を休めて、かつ中国の老百姓が聞き喜び望む所の中国の作風と中国の風格のために、これを新鮮で活発なものに代えなければならない。」 我々の同志は、毛沢東同志がここで述べた方法を遵守し照らし合わせ、マルクス・レーニン主義の理論を学習するべきである。
(「第四章 理論学習と思想意識の修養は統一のものである」 につづく)