わたしと生活クラブしてくれますか?
無住所生活の記録(毎日つけているスプレッドシート)より引用。
図書館でブレイディみかこさんの新刊
本を読みたいという気持ち、他人の物語に身をうずめたい気持ちが本当に久しぶりに湧いてきて近くの図書館に行くことに決めた。図書館に入って一番にブレイディみかこさんの新刊『両手にトカレフ』が目に入り手にとった。嗜癖と連続性がテーマの本で自分の話みたいに入ってきた。
なぜか一番ビシビシきたのは、中産階級のイケてる少年が主人公のミア、劣悪な環境で生きている少女の感性を「きみだけが本当だ(©ギャツビー)」と感じ入って、でも自分には相手のことがわかりきれないこと、恋しているのに、恋がこんなに甘くなく自分のたりなさを感じるものなのか、自分と相手の間にある経験の差と理解しきれなさに圧倒されてことばを失っているシーンで、なぜだろう私は泣いた。こういうふうな他者の不在を思ったのかもしれないし、なんだろう、なんで泣いたんだろう。謎だ。
読み終えられると思ったが時間的に難しく、貸し出し用にカードをつくってもらった。イレギュラー対応だったようで、行政なのにすごく寛容だ。この施設自体小さいけれどすごく感じのいい空間で私は通いたいと思った。なんだか不思議な場所だった。
世界のほつれを防ぐため耳を塞ぐ
ほっこりしていると身なりのよい定年後とおぼしき60代男性が現れて「〇〇さんさ」と若い司書の女性にため語で話しかけて「俺が見つけた君が読むべき本」について話し始めた。私はいやすぎてすこし離れて物理的に耳を覆って目を閉じた。
その前にソファ席で本を読んでいたらベージュの作業服を着た50代男性がうしろにまわってきて私が机に置いていた荷物をナチュラルに端にずらし、地形図を見始めたのもこわかった。背後に50−60代男性がいるというだけで身体がこわばるし、そのあと図書館の人が私にどこに滞在しているか聞いたのをその人が聞いていたこともこわかった。
私は他者、特に50−60代男性が自分の境目を超えて内側に入ってくるのがほんとうにこわい。相手に負の感情がまったくなくとも自意識過剰であろうとも。何かが起こる前に、世界がほつれ始める前に場を立ち去りたい。耳を塞ぎたい。そのためだったらいくらでも「図書館入り口付近で耳を塞いで目を閉じて身体を縮こませる異常者」のレッテルを引き受ける。
わたしの生活協同組合連合会
翌日は本の続きを読むため朝からモスへ。THE、というようなハンバーガーを食べるのは久しぶりだった。トマトソースがおいしくて包み紙をぺろぺろなめてしまった。そしてふいに生活クラブを思い出した。
私には生活クラブへの憧れと幻想がある。一定生活に気をつかった家族がいきつく先が生活クラブという気がする。生活クラブは個人でとるものではない。コーヒー豆を煎るところから朝が始まり、綿の服に身をつつんだ健全な子どもたちがいる、サスティナブルな生活に目を向けた家族しか生活クラブにはいたれないと思っていた。
私がほしかったのは生活クラブの製品、パスチャライズド牛乳とかトマトケチャップとかではなく、生活クラブ的なものの背景にある生活、暮らし、安心、信頼できる家族だ。そういうものに猛烈に憧れていたし、人と付き合うとき「この人は私と生活クラブしてくれるかな?」と考えていた(おっかないでしょう、でもほんとうのことなんです)。
いろんなものを手放した今思うのは、生活は家族がいないとできないものではないということ。唯一の強いつながりを持つ「誰か」がいないと暮らせないなんて、そんなアホなことはない。私は自分の手で自分なりの生活協同組合連合会を積み上げる、わたしの生活倶楽部。
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