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個別型指導の落とし穴/授業力・指導力に必要なものとは?

講義型のレクチャーは、できるなら、できた方が良いという側面を持っています。
という話をします。

今更ながら。ですが、敢えてします。


無論、これは先生が、一定、知識をレクチャーする必要があると仮定した場合です。

とりあえずは、現状では、学校のITC化が先進国の中でも取り立てて遅れている現状から、レクチャー部分を、ある程度、先生という職の人が担うという前提で、書くこととします。

レクチャー部分は、いずれなくって良いとは思っていますけれど。
単なる知識のペーストなら、我々人間より、デジタルの方が正確ですからね。


翻って本題。

わかりやすくするために、講義型でないレクチャータイプの指導を、
個別指導または家庭教師指導タイプとします。

講義型でないいわゆる個別型のレクチャータイプが難しいのは、
「その場の質問に、形式的、表面的に、答えるに留まる」ことが起こりやすい点にあります。

で、案外、レクチャーする先生の側もそのことに気づいていない、ということが起こりうるのです。

子どもたちからすると、解法を教えてもらって満足、となりやすいのです。

現状、小学でよくみられる現象で、一般の皆さんにも馴染みのあることかもしれません。

「やり方を教えてもらって、解けた」=「理解した、学んだ」という危ない学習が、まさにそれです。


思考力のある大人の方なら、もはや何を言っているか?わからない方もおられるかもしれません。解法を教えてもらったのだから、わかっているに決まっているじゃないか、と。子どもだって、「わかった」って言っているんだから、わかっているはずだ、と。

そういう賢い方のために補足をしておきましょう。


特に、昨今起こりやすいことでもありますが、ここで挙げているのは、数学や算数で「式を教えてもらい、足せば良い、引けば良い」というだけで、理解したことになっているという現象です。


なぜ、足すのか、なぜ引くのか、はわかっていない。
ただその問題が解けるだけ、式として数字を並べられるだけ。

ただ本人は、言われた通りにやれば解けるわけですし、解けていることへの満足もあり、もうこれで勉強した気になるのです。

小学段階だと特に問題が簡単すぎて、同じパターンで解けるようになっているものが多いですから、特に注意の必要なことでもあります。

この数字とこの数字を足すという作業、この数字を引くという作業を知っていて、それを繰り返すことで解ける、そういうことが今、頻繁に起こっているのです。(もちろん、これは実際に現場で子どもたちを直接指導しているからこそ言えることです)


加えて、四則自体の意味がそもそもわかっていない子もいくらか存在するので、その点にも注意が必要です。


じゃあこの時、レクチャーする側には、一体、何が必要なのか?という話になって来ます。

子どもたちに、ある問題を質問された時、本質的に必要なことは、その問題を解くに至るまでの全知識です。

しかもその知識は、つながりあい、かつ、きちんと構造化されていなければならず、切れ切れに単語や用語を覚えていることとは異なります。

そうではなくて、全ての知識が「有機的に立体的に構造化されている」ことが重要なのです。


レクチャー、講義型授業で目指すのは、実のところそれで、
一つ一つの知識を単に伝達したり、説明したりすれば良いというような安直なものではありません。

むしろ、知識を伝達しつつも、
その知識が全体の中でどのような位置取りで、どのような意味を持っているのか、どんな役割を果たしているのか、の方が重要なのです。

単に、知識だけを学ぶのなら、生身の人間がリアルでレクチャーする必要はないとも言えます。


この話をすると、映像授業はどうだろうと思い浮かぶ方もおられるはずですね。鋭い。実は映像授業は、判断が難しいのです。
現在は、映像を見る側の特性を考慮して、5分程度の細切れの映像授業集になることが多くなります。
そう、映像授業は細切れの知識になる危険性を秘めています。
ですから、全体の構成・構造を理解しようとする時、受講する側の力を問われる場合が多くなるので、ここで述べている構造、全体像が掴めるかどうかは判断が難しくなってきます。

長くなるのでここでは、この程度に留めておくことにします。


話を戻しましょう。

ここで述べてきた個別でレクチャーするいわゆる個別型の指導は、「それ」しか経験のない先生があたる場合、相当に力を要すものだと言えます。

この点については、全体像をみて行える一斉指導型、講義スタイルの授業をある程度経験してみてはどうか、と暫定的に提案することとしておきます。(暫定的に、と書くのは、講義型自体が今後、見られなくなるスタイルであることによります。

先生の側は全体像を見る必要があるのに、それを養う場面が今後なくなっていくことになるからです。ここは非常に大きなねじれだと感じますし、課題だとも思います。)

やってみると分かりますが、講義形式をやるとなると、授業準備の内容が大きく様変わりします。

先生としては、自分が真に、生徒個々の、全体像の構築に寄与しているかどうか、それを見える形で提示できるかどうか、そこに注視してもらいたいと思います。


授業構成は、一回の講義分だけでなく、複数回に渡ることがほとんどです。
学校の授業を考えてみれば想像はしやすいでしょう。
一つの単元が1回の授業で終わることはほとんどありません。
複数回にわたって講義内容の構造を組み立てておく必要があるのですね。

その上で、各回の授業があるのです。なぜ講師に経験値が必要かというのはこの点だけ見てもお分かりになるはずです。

一回きり、何かを教えれば良いというようなスポット講義は案外、楽なのです。

講義が複数回に渡ると、どの回も、別の回の学習内容をよく吟味し、どう繋がりどう関連づけるかを把握した上で、行う必要があります。


つまるところ、先生の側にも全体像を構築し把握する能力が問われることとなります。



また、ここではあえて一斉へのレクチャーを提案しましたが、もう一点大事なポイントがあります。

これも実際にやると分かりますが、1人用に話すのと、5人、10人に話すのでは、明らかに技術が異なります。
相手が複数人になった途端に、一対一とは別の技術が必要になるのです。

これも非常に肝心な点で、より高い抽象度を要すると言っても良いでしょう。相手一人の思考を包括することと複数人の思考を包括することはやはり別次元なのです。


まとめます。

この記事の要旨は、
ものを教える立場の先生には、全体像の把握とそれを伝達する(見せる)力が重要であるというところにあります。


個別形式のレクチャーだけでは養えない力がある。
個別形式のレクチャーは表面的で小手先な解法に終始することも可能であるからです。

そういう危険性を孕んでいるのです。


今、全体像を構築する力が、子どもたちから急速に失われている現状があります。

勝手に、全体を把握しなさい、構築しなさい、または、自然にそうなるだろう、と安易に考えることのできない時代が来ているのです。

それを踏まえ、知識の繋がりと全体像の構築は、今後、物事を学ぶ場面において、大きな鍵を握ることになるはずです。


なお、生徒向けに講義形式をするチャンスがない方は、大人向けで良いので、ひとり向けではなく、複数人に対しての、プレゼンや講義などを試みてみると良いと思います。

ここで書いていることの意味をお分かりいただけるのではないかと思います。


(終わり)




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本田篤嗣(Master Honda)
記事を気に入っていただけると幸いです。NPOまなびデザンラボの活動の支援に活用させていただきます。不登校および発達障害支援、学習支援など、教育を通じたまちづくりを行っています。