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【それが正しいと思い込むために「型」という言葉が濫用されている/先生、今、あなたの欲に問う】

【それが正しいと思い込むために「型」という言葉が濫用されている/先生、今、あなたの欲に問う】


型を大事に、みたいな思い込みがあるとしたら、そもそも、それは型じゃない、ということを自覚されたし。


型とは何かをちゃんと勉強した方がいい。


それをやると、賢さを失う、賢くなれない、それは学習の型とは呼べない。


先生も生徒もやり方ばかりを追う。やり方を追うあまり、本質が失われていく。表面的にそれができても、何にもならないのに・・・、そういうものを、型だと思い込み、正しい方法と思い込み、指導が継続されていく。
弊害が思う以上に大きい。


特に、小学段階は、補助輪が多く、やらせる、形を守らせる、が強い。
(威圧、高圧、強制、内申点人質は、中学の方が上ですが)


思い込みを一度外さなければ。


賢くならない勉強、それって、なんか意味ありますか?
自己満足ですか?思い込みですか?

学校に埋め込まれてきた価値観や考え方を、小さい頃から信じ込んできた人が就きやすい職が先生職であることは否めず。優秀だから先生になったわけではないことも否めず。(この点で、国レベルでいかに優秀な人材を教職に持ってこれるかは鍵。今必死になっているところでもある)。


万が一いるかもしれない、天才みたいな人を除いては、まずは、一度手放してみる。これが必要なのだと思う。


カラフルで綺麗な自学ノート。賢さとは関係ないですよね?


空きスペースが大きいと叱られる自学ノート。これも。
(叱られない場合も、印象は悪く内申点は下げられてますよ)


定規で書かれる筆算の線。知らんがな。
僕はダントツに勉強できたけど、筆算を定規で書いたことはないですよ、多分一度も。


完全にルールが決められている赤・青鉛筆の使用ルール。
僕ならやり直しは赤で書かないけどねえ。また間違えたら消せないやん。
2回目の丸には青えんぴつ?とか。だから、何、の世界。


本当にこれが型なら、先生ごとに指示が違うのがおかしいはずですしね。


多くの人たちが、現代、表層的な「やり方」を追い求めることに必死になっている。だから我々は本質を見失い、劣化してきた。
何か、簡単に、魔法のように、完全なレシピのように、正しいやり方がある。正しい答えがある。しかも限りなく、時間をかけずに。


そうやって、ひたすらに、安易な「やり方」を追い求める。青い鳥。


学校の先生は、従来、そこから最も遠いはずの存在で、私たちの世界のバランス取りをしてくれていたのだと思う。


テストが全てじゃない、点数が全てじゃない。無駄に思える時間だってあるだろう。そういうキャパシティーがあったし、それで済んでいたとも言える。
しかし時代は変わった。


いつの間にか、親、子、先生、三位一体で、表層的で安易な「やり方」を追い求める時代になりつつある。



さて、誰か、これが「教育」であることを、覚えていますか?
思いこまれた「型」は、誰かに思い込まされた「これは正しい」ではないのか?
そのことを疑った経験は?学び直してみた経験は?


もし、それが、先生自身のただのエゴ、欲、だとしたら?
さてそれは、自我を満たすための欲ですか?


はたまた、親御さんへの(指導・管理を頑張ってる)アピール?

さらには、みんなで一緒に、が正しいと思っている?

もしくは、そもそも、賢くない?


びっくりするような状態が続く、ある地方のある地域。
同じような場所は全国でも多くあるようです。


先生の思い込みを一度、外す必要がありますし、すでに手遅れの方々も少なからずおられるはずで、これは仕方のないこと。どんな仕事でも、向いてない人は降りるべきです。責任が重すぎる。そして、まだまだあなたに合う職は世に山ほどある。



忘れてはならないことがあります。

異常な状況は、私たち地域に住む大人皆の責任であるということ。


必要に応じて、意見し、議論し、必要に応じて、NOと言わなければなりません。それが市民の役割です。誰がみても明らか、専門家が見ても明らか、な、まずいことがそのまま平気で行われるまちを作ったその責任は、私たち大人が引き受ける必要がある。
そのことを付け加えておくこととします。


(おわり)



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本田篤嗣(Master Honda)
記事を気に入っていただけると幸いです。NPOまなびデザンラボの活動の支援に活用させていただきます。不登校および発達障害支援、学習支援など、教育を通じたまちづくりを行っています。