公教育が間違える時、我々は学びをどこで得うるのか?
どうやら学校はもう、学びを得る場ではなくなったのかもしれない。
主体的に学ぶことについて書かれた学校からのお知らせに、主体性とはまったく真逆の事柄が書かれていて、驚いた。
子どもたちと話していた時は気づかなかったが、
改めて授業後に、坪郷博士と共にじっくり目を通すと、もはやただの徹底した管理統制についての文章が並んでいるではないか。
過剰な管理とルール化、評価や点数に縛られる子どもたちの勉学は、もはや本意を見失ったものとなる。
学びの意を少しでも知る者、もしくは、学びに身を投じ、深く学びながら生きる者からすれば、もはや完全に学びの本質から逸脱している。
少なくともそこに提示された厳密なルールや指示は、子どもたちを思考停止へと向かわせるには十分な内容と言えるだろう。
これを無自覚にかつ本気で書いているとしたら、もはや学校に行くと学びを得られない、賢くなれないことが確定するではないか。
国の方針とそこにある言葉は、県や市を経由して、各学校、各教師へと伝言ゲームのように伝わることで歪曲しているのかもしれない。
もしくはすでに現場は言語力や読解力を失っているのか。
がっかりを通り越して、地域の学校教育は終焉に向かうのかもしれない。
今や学校では、評価や点数にとらわれ、しかも管理統制をされ、やることがすべて決められてゆく。
公教育で子どもたちが学ぶことができないとすると、どこに希望があるのだろうのだろうか。
オワリノハジマリ、ヨアケマエ。
(おわり/FB投稿より転載)
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