「真筆大和日記外題」を巡る冒険
大和日記は天誅組の実録です。
天誅組の中山忠光主従七人が、長州へ逃れる途中、船上で執筆されたと言われています。
土佐藩出身の土方久元・直行が編集した大和日記(以下、「土方版」と称します)には、こうあります。
右大和日記一巻ハ半田紋吉(門吉)ノ筆ナリ 君ラ諸士中山忠光朝臣ヲ奉ジ大和ヲ脱出シ大坂長州藩邸ニ入ル 幕吏之ヲ物色スルコト太急ナリ 乃チ潜ニ舩ニ乗シテ長州ニ奔ル 其舩中相謀リテ兵記ヲ作ル 君文ヲ善クスルノ故ヲ以テ其労ヲ執レリ
ちなみにこのとき船上にいたメンバーは以下の通りです。
中山 忠光 公家 主将
上田 宗児 土佐 槍一番組長
伊吹 周吉(石田 英吉) 土佐 伍長
嶋 浪間 土佐 砲一番組
半田 門吉 久留米 砲一番組長
山口松蔵(半田門吉家来)
万吉(安積五郎家来)
十津川郷を逃れ、北山郷をへて北上した天誅組。奈良県東吉野郡の鷲家口で最後の戦闘が行われ、壊滅しました。
主将中山忠光を含む七名は死地を脱出し、三日後、大阪の長州藩邸にたどりつきました。長州藩はその日のうちに彼らを船に乗せ国元に送ったのです。
大和日記には異本があります。
明治初年に長州松下村塾が出版した大和日記(「松下村塾版」)。作者は松本謙三郎とあります。すなわち天誅組の総裁の一人松本奎堂です。
しかし、「土方版」には以下の通りあり、作者が半田門吉であることが明記されています。
活字本(「松下村塾版」)ハ松本謙三郎著トアリ 傳寫本(「石田蔵」)は著者ノ名ナシ 之ヲ英吉氏ニ質スニ 謙三郎ハ著ニアラスシテ 全ク半田門吉ノ手記スル所と云フ
英吉氏とは天誅組の生き残りの石田英吉。天誅組当時は伊吹周吉と名乗っていました。
明治後、彼は一冊の大和日記を保有していました。これが文中の傳寫本(以下、「石田蔵」と称します)です。
数種の大和日記の中でも、河内長野市立図書館がホームページで公開しているバージョンは、半田門吉自筆とされています(以下、「半田本」と称します)。
この大和日記は、郷土史家である地元の方が図書館に寄贈したとのことです。
その方は、「偶然の機会に」この資料を入手し、巻物に装丁したうえで、「真筆大和日記外題」という文書を添えたそうです。
河内長野市立図書館のホームページには、その文書は「半田本」が半田門吉の自筆である旨を説明しているとありました。
私は大阪を訪れた機会に河内長野市立図書館を訪問し、「真筆大和日記外題」の閲覧を依頼しました。そのときには事情があり閲覧はかなわなかったのですが、後日、写しをご送付いただきました。
「真筆大和日記外題」は和紙に墨でかかれた立派な文書でした。
末尾に「昭和三十一年 河内郷土文庫 三浦玄良」と著者名の記載があります。
冒頭に、大和日記が書かれた経緯がかかれます。
そして、「半田本」と「松下村塾版」「土方版」との比較が書かれています。
半田門吉の自筆である根拠として以下の三点が挙げられ、「原著者半田門吉の自筆本と断定した。恐らく自筆の原本を自分のために作った副本であろう」としています。
① 末尾に記載のある元所有者と思われる人物(安谷某)の住所が、半田の出身地である久留米であること。
② 末尾の朱書き(備考)に山口庫太という人物が、この書は 半田門吉の自筆であると語ったとあること。
③ 筆勢が流暢、達筆であるうえ、運筆に遅疑がなく、他人のものを写し取ったという疑いを生じさせない。また、誤写も無いこと。
三浦氏は、半田が残した他の文書が存在するのであれば比較して、半田の自筆であることを確認しようとしたようです。
しかし、半田の筆跡が残る資料は残されておらず、比較対照はできなかったとのことです。
半田は、天誅組を逃れてから九か月後、禁門の変で戦死しています。
三十一歳の生涯でした。三浦氏は、「同氏(半田門吉)の筆蹟と本書の筆蹟を対照することは今のところ至難である」と結論づけています。
各種の大和日記を比較したことがあります。その際「半田本」と「石田蔵」との、ある相違点に注目していました。
挙兵直後、五條代官所を襲撃する場面です。
「半田本」の記述は以下の通りです。
ゲベル乃隊の長土州池田蔵太(正しくは、池内蔵太)其組引連、表門より右之手へ廻りて砲発、何れも空砲にして~
これに対して、「石田蔵」では、
銃隊長土州池内蔵太ハ其組引連レ、表門ヨリ左手ノ裏へ廻リテ砲発、和砲隊長ノ半田門吉ハ其組引連レ表門ヨリ右手ノ裏ニ廻リテ砲発ス、何レモ空砲ニシテ~
池隊の「砲発」の後に、半田の和砲隊の活躍が入っています。
文の続きは「何れも空砲にして」とあるので、半田部隊の記述がある方が自然です。
「半田本」を清書する際に、書き洩らしたことが推察されます。
が、半田が自身でこれを筆写したとすると、ここを書き洩らすだろうかという疑問が生じます。まさに自らの活躍の場面です。
残念ながら「真筆大和日記外題」に、そこについての答えはありませんでした。
が、急いで書写したためにうっかり書き損じたのかもしれません。それを完全に否定することはできないのかも知れません。
また、よく見ると右左の表示が逆であるなど細部に違いもあります。原本は別にあって、「石田蔵」の方にあとから半田隊の活躍が補記されえられたことも考えられます。
いずれにしても、筆跡を鑑定したわけではないことも踏まえ、「半田本」の作者について、まだ完全に半田門吉と決めつけることも出来ないように思いました。
「真筆大和日記外題」を読んだ後、もういちど、「半田本」を見てみました。
特に、末尾にかかれた二つの名前。
山口庫太。そして、もう一人の人物。
すると、ある種の啓示が舞い降りてきました。
朱書きで書かれた、山口庫太という名前。
「(備考)山口庫太氏曰ク 此書ハ 半田門吉氏ノ筆ニ成レルモノナラント」
中山忠光を守って大阪に脱出した天誅組のメンバーに山口という名前の者がいました。
山口松蔵。半田門吉の家来とされている人物です。
大和日記の冒頭には、なぜか山口が「丹後田辺の出生なり」とあります。
久留米藩の半田の家来が何故「丹後田辺」なのか。事情は、わかりません。
庫と蔵の違いはあるものの、「くら」の字が「松蔵」と重なっています。
そして、「くらた」と読むのであれば、天誅組の「池内蔵太(いけくらた)」が想起されます。
半田も池も、主将中山忠光の側近です。
ひょっとするとではありますが、明治後、山口松蔵は山口庫太として生存していたのではないか。
天誅組の池内蔵太をイメージして庫太と改名していたのではないかと。
そして、彼こそが、この文書が半田の自筆であることを証言したのではないだろうか。
朱書きを書いた人物は、当時、山口庫太が天誅組の生き残りであることを知っていたので、あえてここに名前を記したとも考えられます。
半田が書いたことを証明するに足る人物として。
そして、半田本の末尾に書かれたもう一つの名前。
「真筆大和日記外題」筆者が、元の所有者ではないかと書いた人物。
荢扱川町三丁目 安永亥吉
この人物についても気になるところがあります。
名前の上の「荢扱川町」。「荢扱川」は「おこんご」と読むようですが、久留米市内の、現在は池町川と呼ばれている川、ないしは地名のようです。
名前は、安永亥吉とあります。「亥」の部分は筆記体で読みにくい。
河内長野市立図書館のホームページでは、「亥」と読んでいます。
確かに「亥」だろう。
が、最後の画が大きく左に曲がっているのが気になります。「万」あるいは「萬」と読めないだろうか。
中山忠光を守って、脱出した七人の中に「万吉」あるいは「萬吉」がいました。
名字は残されていません。「安積五郎家来」とされている人物です。
ついでに言うと、安谷という名字。安積五郎の「安」が重なります。
明治になってからの久留米。
生き残って、半田の故郷に住んでいた万吉。
彼は、故あって「半田本」を所有していた。
万吉が亡くなり、遺族がそれを換金する必要があった。
葬儀の際にでも、山口庫太がそれを聞きつけ、これは半田の自筆であるとでも証言したのかも知れません。
そして、貴重な資料として、本書は高値で引き取られていった・・・。
妄想かもしれません。が、そんな風景が目に浮かびました。
いずれも家来として記されている山口松蔵と万吉。
長州へ脱出して以降の彼らの記録は、これまで見たことがありません。贈位など顕彰もされていないようです。彼らの家来という身分のせいなのかも知れません。
山口庫太と安谷亥吉の、その後の消息を探ってみました。
すると、安谷の情報は見つかりませんでしたが、山口庫太について、いくつか見つけることができました。
「人事興信録第十二版下」(昭和十四年)に彼の孫と思われる人物が記載されています。
この資料によると、蔵太の長男「荒太」は、慶応元年に生まれています。天誅組の挙兵と壊滅の二年後です。どのような事情かは、さだかではありませんが、長男は後に、中村と改姓しています。
そして、荒太の長男、即ち庫太の孫は明治二十三年に生まれ、大正四年東京帝国大学法学部を卒業。その後、内務、警察官僚として全国各地に赴任し、昭和十四年当時、北海道庁の土木部長となっています。
注目すべきは、孫の名前です。山口庫太の孫の姓名は、中村忠充と出ていました。
名前は、「ただみつ」と読むのでしょう。
「みつ」の字は異なるものの、天誅組主将中山忠光と同名です。
この資料を見たとき、私は「山口庫太は、山口松蔵に違いない」と思いました。
少なくとも、妄想が仮説ぐらいにはなったように感じました。
初孫が生まれた際、命名を考えた山口庫太は「ただみつ」を、自ら選んだのでしょう。
元天誅組としての履歴は封印していたのかもしれません。ごくわずかの親しい者にしか伝えていなかったのかもしれません。
しかし、山口自身は、天誅組での経験を自身のかけがえのない体験としてあたためていたのでしょう。
何しろ、彼は中山忠光を守って激戦地の鷲家口から三輪、大和高田そして大坂への脱出行をともにしていたのです。
天誅組の経験は、忘れることのできない青春の記憶として鮮やかに彼の脳裏に染み付いていたに違いありません。
その思いが、彼をして孫の名前を「ただみつ」とさせたのでしょう。
山口庫太自身は、福岡県の官吏となっていたようです。
「改正官員録(明治二十一年乙十二月)」では、「判任十等」として記載があります。
「職員録(明治三十九年乙)」では、鳥飼村長と記載されています。
その働きぶりも、「鳥飼村耕地整理」の際に「村長山口庫太氏の功勞も亦少なからさりき」と評価されています(「耕地整理事例 第二輯」)。
地方官吏としては順当な生涯であったようです。
「筑後名鑑 久留米市之巻」には彼のもう一人の息子山口三之助が紹介されています。
明治四年生まれ。苦学して米国に留学し、哲学博士としてニューヨーク在住とあります。
彼もまた明治人の典型のような人生を送っていたようです。
以上の山口庫太の消息は、国会図書館デジタルコレクションで追うことが出来ました。
しかし、彼の没年は見つけることが出来ませんでした。
ある天誅組資料(「天誅組の研究」田村吉永 大正九年)では、天誅組当時の彼の年齢は二十八歳。
明治末年には七十六歳となっていたはずです。市井の一市民として晩年を過ごし、亡くなったのでしょう。
「真筆大和日記外題」。
「半田本」が半田門吉の自筆かどうかの確証は得られませんでした。
しかし、この文書をきっかけに、「それからの天誅組」を巡って素晴らしい旅ができたように思いました。
各種の「大和日記」の違いや変遷については、「天誅組討幕考~その他の論考」をご参照いただければ幸いです。
(「真筆大和日記外題」を巡る冒険 終)
河内長野市立図書館蔵「大和日記(大和日記大略/半田本)」
河内長野市立図書館蔵「真筆大和日記外題」
大和日記(石田蔵) 国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11444007
人事興信所 編『人事興信録』第12版下,人事興信所,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3430446 (参照 2024-10-28)
『職員録』明治39年現在(乙),印刷局,明治39. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/779791 (参照 2024-10-28)
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