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本居宣長~大和心と漢意、物のあはれ、真心

本居宣長は「日本人の心の探求」では避けられない人物です。ただ少々掴み難くて難儀しています。
宣長は「今の(当時)の日本語や日本人の思考様式や発想は、オリジナルの日本の心ではなく、漢意(からごころ:例えば儒仏)に汚染されたものなので、その汚れを取り除くとオリジナルな日本が現れる」と考え、それを探求しました。
私の投稿は現在の(宣長流に言えば漢意で汚染された)日本人の心の源流を辿るというものですので、本居宣長の議論はある意味当てはまるのですが、正直言うと、議論の構造は判るが、具体的な中身に関して、つまり「これが大和心で、これが漢意」と明快に分離するには『古事記伝』を読み込む必要がありそうなのですが、あまりの膨大な内容でまだ読み込みは出来てはいません。一応最後にまとめてはみましたが、十分自信があるわけでもなく、今後も続けていこうとは思ってます。そういう意味でとりあえず本投稿は中間まとめ的なものです。

本居宣長と言えば、まずは「国学」ですので、国学について簡単に触れてみます。

(1)国学と学者の系譜:

・国学は「儒教や仏教の影響を受ける前の古代日本にあった独自文化や思想(=道)を、日本の古典研究を通じて明らかにしようとするもの。」で、具体的には日本の古代の文献を正確に(外国の影響を排除した形の)「オリジナル日本語」として読み解こうとするもの。

・国学の流れは江戸初期から始まり、元禄時代の契沖あたりから「国学」という領域が見えてきたらしい。山崎闇斎に代表されるコチコチ厳格な儒教の反動もあるかもしれませんね。
国学者の主な系譜は、

①契沖(1640~1701):真言宗系僧侶
・契沖はまず国学の研究方法を確立した。用例をかき集め、それらを公開し客観的に分析し、それらに一貫して流れる原理原則を見つけるという、今でいう科学的実証に近い客観的な研究方法を確立した。それまでの研究者は無原則的・恣意的に資料を組合わせて、一種の観念操作のような形で説明をしてきたので極めて主観的であった。

②荷田春満(かだのあずままろ)(1669~1736):神職の家柄
・元々が神職の家柄で、長い戦乱で神社も困窮していたことに心を痛めていたと思われる。
・当時の将軍吉宗に国学の学校開設を訴えていた。

③賀茂真淵(1697~1769):神職の一族
・荷田春満を師として国学を学ぶ。
・「古語を学び、古義を知りて、古心を知る」という研究方法で、まず「古事記」の読解をいったん目標に据えたが、その前段階として多くの古語を含む「万葉集」の読解にまず取り組んだ。
・多くの著作の1つである『冠辞考』に本居宣長が出会ったことが賀茂真淵と本居宣長を結びつけることになった。
・賀茂真淵がたまたま松阪に泊まっていたところを聞きつけた本居宣長が弟子入りを志願しに賀茂真淵のもとを訪れた。両者が面会したのは、この一度きりであったが、その時に賀茂真淵は本居宣長に古事記の解読の重要性を確信させた。この話は戦前の国民学校の国語の教科書にも「松阪の一夜」として掲載されるほどの日本史上の重要事件として扱われていた。

④本居宣長(1730~1801):豪商の出身、仏教徒、医者
(後述)

⑤平田篤胤(1776~1852):武士
・平田篤胤が本居宣長を知ったのは、本居宣長の没後であった。しかし、本居宣長の著作に感銘を受けた平田篤胤は夢の中で弟子入りを許されたとして「没後の門人」を自称していた。
・事実を明らかにした本居宣長に対して、活動的な平田篤胤はそれでは満足せず、実生活や政治までもその方向動かそうとし始め、儒教のみならず仏教までも攻撃の対象とした。それが復古神道につながっていく。(復古神道については以前の投稿を参照ください)

(2)本居宣長

以前の投稿で少し触れましたが、今回はもう少し深堀したいと思います。

■本居宣長という人物:

・仏教・儒教以前の日本のオリジナルな姿を明らかにしたいという国学は、      
   契沖による客観的演繹的な研究方法を確立し、
   賀茂真淵が研究対象を定め、
   本居宣長が『古事記伝』を完成させる
ことで、1つの学問領域を構築させたといえる。
それは万葉仮名の1つ1つの音や使われている対象などを分析し、研究の基礎に置くことであり、気の遠くなるような作業だったと思われます。
・そのオリジナルな姿を「やまとごころ(大和心)」、そして仏教・儒教による影響を「からごころ(漢意)」と呼びますが、宣長の活動は、両者の合わさってしまった日本語や日本人の思考様式や発想から、両者を分離しようという活動とも言えます。
・また、若いころの文学論では特に短歌について『排蘆小船』の冒頭で、こう断言しました。「歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふことをいうふより外なし」と。その後の著作『石上私淑言』では、「歌とはいかなる物をいふぞや」という問いから始まっているが、その答えは「物のあはれをしるよりいでくるもの也」と言っている。詳細は後述します。以下、いくつかの著作内容を紹介しつつ、宣長が解明した事実をご紹介します。

■『直毘霊(なおびのみたま)』

まず『直毘霊』をのぞいてみましょう。ここは主に神道についての話です。

①神道と儒教
元々敬虔な仏教徒でしたので、仏教に対する批判はそれほどでもないですが、儒教に対しては筆鋒が鋭い。例えば、

・「結局、支那で言う道は、『人の国を奪う方法』と『一度奪った国を略取されない方法』の研究に過ぎない。表面をいかに取り繕おうとも、聖人は善人とは言えまい。むしろ大悪人と呼ぶ方が適切であろう。出発点からこのように汚い道ならば、誰も心から守ろうとはしないだろう。」
・「支那に『道』を作ってわざわざ議論するのは、その道が正しくなかったという証拠。支那の史書を見ても、誰もそんな道を守っていないのは明白。舜は尭から奪い、禹も舜から奪ったのだろう。禅定の跡は見えない。王莽や曹操もやったことは賢人と同じだが、世の人々が賢くなったので騙せなくなったに過ぎない。とはいえ、最初は夷狄と軽蔑していた連中に祖国が奪われると、今度は彼らを天子として尊敬しなければならないとは、何と情けないことだろう。これでも儒者はまだ支那を理想的な国だと思っているのだろうか。国王の系統が変わると下々まで影響を受ける。全ての貴賤の別が一定しないのは鳥獣と何等違わない。」
・「しかもその道たるや仁義・礼譲・孝悌・忠信と、もっともらしく由緒ありげな言葉を使って上から目線で人に説教を垂れようとするが、そんなものは欺瞞に過ぎず、自分の支配を永続させようと目論んでいるだけ。」
「天地の原理というなら、それはあくまでも神の御神慮であって、人智で測り知れるものではない。ましてや『易』などまやかしに過ぎない。支那では聖人に倣うふりをして、後の人間が独裁するのであり、日本とは全く相容れない。こんなデタラメに惑わされてはならない。」
・「日本は、言挙げはしない。そんな利口ぶった教えは存在しなかったが、そんなものが無くても、最下層の人間まで乱れることはなく、なんだかんだ言って天下は治まり、皇室はこれまで繁栄してきたのである。
・「猿に『人間は毛がないぞ』と小馬鹿にされて、それを残念がって『毛ぐらいあるわい!』とただでさえ薄い毛を探して争うのと変わらない。毛は少ない方が良いということを知らないバカ者の行為である。」

⇒このあたりの議論は既に山鹿素行(1622~1685)が『中朝事実』で既に表わしている。この本の主題は「実は日本こそが『中国』だ」という一見わかりにくい話なのですが、当時の大秀才である山鹿素行は中国をリアルの国ではなく、理想化された国と概念的に捉えていたと考えれば分かりやすい。つまり当時の日本では儒学が流行し、中国を絶対化し、中国のものは何でも優れ、それ以外の地域のものは何でも劣るという思想(山本七平流に言えば慕夏思想)があったのですが、山鹿素行は、支那では易姓革命で王朝が何度も替わり(異民族に乗っ取られ)、簒臣が君主を弑して国を乗っ取ることが何回も行われているなど、支那の歴史を見ると、儒教が悪とする「夷狄」「簒臣」「女后」のオンパレードであった。中国では君臣の義が守られてもいないのに対して、日本は外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られているので、日本こそが中国であると主張した。

⇒本居宣長は西洋を知らなかったが、「それは神の御神慮であって、人智で測り知れるものではない。」という辺りは啓蒙論・理性を否定しているようである。やはり日本史を経験論で見ている。

②神道とその盛衰:

・「日本の『神の道』という名は、支那の道と区別する為に名付けられた。」
・「しかし時代が経つにつれ(孝徳天皇(36)や天智天皇(38)の時代に至っては)、支那の風俗を慕い学ぶことが流行し、朝廷の方針ですら儒教の上に立つようになった。これ以降、日本固有の古の風俗は神事に用いられるのみであった。そして一般の人々までそうした傾向となり、天皇の大御心を尊重せず各自の独断に従うようになった。これは支那の模倣が原因である。その後、平和だった日本にもあまり感心しない事件が続出し、支那とあまり変わらなくなってしまった。」

⇒聖武天皇(45)に至っては自らを「三宝の奴」と呼ぶ始末であった。これ以降、江戸末期まで神儒仏習合の時代が続く。

・「吉凶の万事を仏教では『因果の理』、儒教では『天命』と考えるが、どちらも誤り。仏教の方は簡単にその誤りがバレるが、儒教の方は上手くできているので誤魔化されやすい。『天命』などというのは、昔に国を奪った支那の『聖人』が自分の罪を免れる為に作ったもっともらしい言い訳に過ぎない。天地には意思も心もないのだから、命など存在する筈がない。周公や孔子の道が完全だったなら、何故孔子は重用されず、国々が何故乱れたのか。」

⇒この辺りは以前ご紹介したイエズス会が日本で布教した時の苦労話を彷彿させる。

③神道とその源流

・「日本の『道』は天地の間に自然に存在している道ではない。高皇産霊神の御霊によりお生まれになった神祖たる伊邪那岐・伊邪那美が始められ、天照大神が受け継がれ、瓊瓊杵尊によって伝えられ、さらに天皇によって後世まで伝えられている道であるので『神の道』という。」

⇒この辺りになるとやや形而上学的(=彼岸の話)になるが、本居宣長は古事記を実話と「信じて」いたきらいがある。つまり神代から今までは連続してるという意識なのであくまでも形而下(=此岸)のイメージではある。次も参照。

・「『書経』に『聖人は神道を設(ま)く』とあるのを見て『支那にも神道があるではないか』という戯言を吐く者がいるが、支那と日本では『神』が異なる。支那では『天地陰陽の原理』(キリスト教信者の中の汎神論者的)のようなもので、実在性のない空理(つまり観念論)に過ぎないが、日本では天皇のご先祖を指し、支那のような無内容のものではない。

⇒やはり観念論を否定している。

・「日本の道の内容は古事記はじめその他の古文献を丁寧に読めば簡単に知知ることが出来る。しかし多くの人は禍津日神(=悪い神様)と一緒になって、漢籍に惑わされ、悉く仏教や儒教の立ち位置からしか、物事を見ないし思わない。」
・「森羅万象全てが産霊神の御霊に従っていて、人間は特に優れた存在として生まれた以上は、すぐれた程度に応じて知る事は知り為すことは為すのが当然であり、他人からゴチャゴチャ言われる筋合いはない。仁義・礼譲・孝悌・忠信」などは誰にでも備わっている。

⇒王陽明的な人間モデル

・「聖人の道など、治まりがたい国を強いて治めようとして作られたものに過ぎない。すでに備わっているものを強制するので、(日本のような)真の自然の道とは合致しない。支那では同姓は結婚させないという規定があり、日本にはないとを儒者は嘯くが、元はと言えばそんな規定を作らなければならないほど、その国は風俗が淫靡だったということなのだろう。いつの世でも厳しい法律を制定するのは、その当時それを犯すものが多かったからに違いない。」

とりあえず『直毘霊』はこの辺りで止めておきましょう。

■『石上私淑言』

本居宣長には文学論もあり、『石上私淑言』有名な「物のあはれ」について論じています。

①「物のあはれを知る」とは

・「物のあはれを知る」という心は、「石上私淑言」(本居宣長著)で、こう述べています。

「さてその物のあはれを知るといひ、知らぬといふけぢめ(=違い)は、たとへばめでたき花を見、さやかなる月に向ひて、あはれと情の感(うご)く、すなはちこれ、物のあはれを知るなり。」
「うれしかるべきことはうれしく、をかしかるべきことはをかしく、悲しかるべきことは悲しく、恋しかるべきことは恋しく、それぞれに情の感くが、物のあわれを知るなり」

⇒もう少し具体的に言えば、恋心であったり死別の場面であったり、それぞれの場面で「恋しい」とか「悲しい」とか、心に感じたことを素直に感じるのが人間の「真実の姿」であって、そんな感情に女々しさや愚かさを感じて恥ずかしがるのはおかしいということ。それは他人の切実な感情に共鳴することであるが、そんな場面で「恋しさや悲しみを感じさせないことが立派である」という気持ちがあるなら、それは儒教のような外国の思想の影響を受けているからであると喝破した。

⇒外来の思想の影響を受けていない『万葉集』の奔放な歌を見れば、宣長の言いたいことは分かる。『万葉集』では一番最初の歌で天皇が村娘をナンパしている。

「篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも」(雄略天皇:第一巻一番)

・但し、一方でこうも言っている。
「とまれかくまれ(とにかく)歌は物のあはれと思ふにしたがひて、よきことも悪しきことも、ただその心のままによみ出づるわざにて、これは道ならぬこと、それはあるまじきことと、心に択りととのふるは本意にあらず。すべてよかなることを禁めとどむるは、国を治め人を教ふる道のつとめなれば、よこさま(=邪)なる」恋などはもとより深く戒むべきことなり。さはあれど、歌はその教への方にはさらにあづからず(=関わらない)、物のあはれをむねとして、筋異なる道なれば、いかにもあれそのことのよき悪しきをはうち棄てて、とかくいうべきにあらず。さりとてそのあしきふるまひをよきこととてもてはやすにはあらず。ただそのよみ出ずる歌のあはれなるをいみじきものにはするなり。」

⇒ちょっと難しいですが、政治秩序的には不義の恋はアカンが、歌の世界は公的秩序とは違う。文学はそんな政治秩序的価値基準で良いとか悪いとか判断するものではなく、物のあはれを素直に表現するものであるということを言っている。

⇒要は文学の役割は公共体における価値判断(=道徳や善悪)とは無関係に、人間の心を素直に表現することであるということである。そして、「物のあはれを知る」心はあくまでも文学論に限定していることになる。つまり文学は道徳的である必要はないとも言っている。

⇒この「物のあはれを知る」という意識は、当時の多くの演劇・文学もで見受けられることから考えると、当時は広く受け入れられていた精神なのだろうとは思われるし、古来からの日本人の感性ではないかと推測される。

⇒しかし一方で人口が増え、社会・共同体が大きく複雑に構成されるとそれを維持する「秩序」が必要となる。しかしそのような秩序を作り維持するような仕組は古来からの日本にはなかった(=不要だった)為、外来の思想を借りてくるしかなかったのでしょう。その借りてきた外来の思想と日本の古来からの感との間でコンフリクトを起こし、共同体の構成員としては外来思想を使って「恥ずかしい」とうわべで取り繕いながら、心の中では古来の「物のあはれ」を感じているという葛藤を生じさせているのではないかと考えられる。

・そして、ここから話は文学論から飛び出してしていく。

②文学論を越えて

・「そもそも神は、人の国の仏・聖人などのたぐひにあらねば、世の常に思ふ道理をもてとかく思ひかかるべきにあらず。神の御心はよきも悪しきも人の心にてはうかがひがたきことにて、この天地の内のあらゆることは、みなその神の御心より出でて、神のしたまふことなれば、人の思ふとは違ひ、かの唐書の道理とははるかに異なることも多きぞかし。さればわが御門(=天皇)にはさらにさやうの理りがましき心をまじへず、賢しだちたる教へを設けず、ただ何ごとも神の御心にうちまかせて、万をまつりごち給ひ、また天の下の青人草(=臣民)もただその大御心を心として、なびきしたがひまつる、これを神の道といふなり。」

⇒そもそも神は人間(含、仏や聖人)とは違うので、人間のロジックで神の意思を判断できない。ましてや中国の書物に書いてある道理(=価値判断基準)と神のそれとは大きく異なるだろう。従って、わが国ではこれまで天皇は変な理屈をこねることなく、特別な教えやもいらず、「物のあはれを知る」という素直な心で万事を神のはからいで治め、臣民も天皇のはからい従ってきたと歴史を語る。ここまで来ると、「物のあはれを知る」という個人の文学的意識から、一種の政治思想として儒教対抗していきそうな萌芽が感じられる。

⇒本居宣長は「やまとごころ」の探求の中で、このあたりを「漢意」による汚染の例として考えているようだが、実際にはどうだろう。
「物のあはれを知る」ことは、感情をそのまま受け入れるこことに過ぎない。そこには価値判断や批判はない。小規模の共同体ならそれで済んでも、人口や富が増えてくればどうだろうか。何らかのルールつまり価値判断を持ち込まなければ、「やまとごころ」だけでは共同体を治めるのは難しいだけでなく、共同体自体が崩壊してしまうのではないでしょうか。宣長は本来は「儒教的価値観」の方を漢意として否定したかったのでしょうが、それに代わる「日本古来の価値観」がなかったので、いきおい「全ての価値感」を否定するハメになったのだろうと思われる。ここまで否定してしまったら、何が残っているのだろうか?この辺りがちょっとわかりにくいでしょうか。

■『古事記伝』

古事記伝はあまりにも膨大な著作で、いろいろな解説本もありそうなので、この投稿ではほんの少し触れさせては戴きますが、割愛させて戴きます(^^;)

・宣長にとって「古事記」とは、あの漢字の原著のことではなく、漢文の原著以前に「やまとことば」での口誦があったと考えているので、漢文を読み下すだけでは不十分。更に漢字は意味も含んでいるので、それに惑わされないようにしなければならないと説く。漢字からは「音」を借りてきただけとみなすべきということ。
・従って「神」は「かみ」であって「神」という漢字が持つイメ―ジのものではない。では「かみ」は何であるか?それをイメージさせる記述が古事記になければ、こんな議論は無意味だが『古事記伝』によればどうか。
「さて凡て迦微(かみ)とは、古の御典等にみえたる天地の諸の神たちを始めて、それを祀れる社に坐ます御霊をも申し、また人はさらにも云はず、鳥獣木草のたぐひ海山など、その余(ほか)何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云ふなり」
とある。「可畏き物」とは人間にとって良き事ばかりではなく悪しき事をする存在も含まれている。以前に投稿したように「おもてなし」が十分でないという理由で怒るのも「迦微」である。

・「真心とは、産巣日神の御霊によりて備へ持て生れつるままの心をいふ。さてこの真心には、知なるもあり愚なるもあり、巧なるもあり拙きもあり、善きもあり悪きもあり、さまざまにて、天下の人ことごとく同じき物にあらざれば、神代の神たちも善事にまれ、悪事にまれ、おのおのその真心によりて行ひ給へる也。」

⇒つまり宣長の言う「真心」と言うのは、人間がもっている素直な心のこと。偽りのない真実の心。おおらかな心情である。「まごころとは、よくもあしくも生まれたるままの心をいう」と説かれ、儒教・仏教由来の価値観(善悪とか)を離れた、美しいものを美しいと思い、欲しいものを欲しいと思う素直で自然な心である。しかし、価値を含まない心では、残念ながら社会の秩序は維持できない。

(3)最後に:

最後に少しまとめてみます。
・本居宣長は当時の日本語や思考様式から外国の影響(=漢意)を排除して「大和心」を突き止めた。
・それは価値が排除され、心に思った感情(=物のあはれ)を素直に表現するものであった。
・人口が増え共同体が大きくなると、共同体を維持するためのルールが必要になるが、価値を排除した「真心」ではその役割を果たせない。
・従って、外国の思想を借りてこざるを得ないが、仏教にしろ儒教にしろ、そのまま使ったわけではなく、可能かぎり日本流に消化して変質させたものであった。
・それらが漢意であるが、既に日本ではもう必要不可欠なものであり、日本文化の一部となっていると思われる。

こんな感じで、とりあえずここまで。