短編小説|うましか
十五歳、高校一年生。一年五組。彼とわたしは一年間、この教室で共に過ごした。出席番号が近く、同じ班でもあった。
班での活動は、授業のあとの掃除と、たまに総合学習の時間にグループでの調べものや発表があるときだけで、そこまで接点があるわけではなかった。
それでもわたしは、彼に恋をした。
四月の末の、体育館掃除のときだったと思う。出入り口の階段で足を引っ掻けて転んで、膝を擦りむいたとき。前方を歩いていた彼が振り向き、すぐにポケットから絆創膏を出して「大丈夫?」と声をかけてくれた。
ただ、それだけ。たったそれだけのことだったけれど、わたしはこの、些細なことをごく自然にできる優しい彼に、恋をしたのだ。
それからはこっそり彼を盗み見て、話すタイミングを計った。けれど情けないことに、話題が見つからない。
恋とはなんて厄介なのだろう。
彼のくっきりとした二重まぶたや、それを隠す黒縁眼鏡や、ちょっと小さな鼻や、穏やかで落ち着いた声にもどんどん惹かれていくというのに、気持ちが大きくなればなるほど、会話が弾まず悪い印象を与えてしまったら、と臆病になり、気軽に接することができないのだ。
情けないわたしができたことといえば、クラスメイトとしての最低限の挨拶や会話くらいだった。
そうやって情けないまま、高校生活の大イベントである体育祭も夏休みも、文化祭ですらも。何もできないまま、過ぎ去ってしまった。
冬になり、定期考査前の部活動停止期間が始まり、わたしは友だちと一緒に、交流センターで勉強することにした。
学校前の坂を下り切ったところにある交流センターには、いつでも誰でも予約なしで利用できる多目的室があり、学生だけではなく、時にはバスを待つお年寄りや、絵本を音読する親子がいたりもする。うちの生徒が向かい合って座って必死に勉強していることも、ディベートが始まっていることもあった。
わたしはここの程よい賑やかさが気に入っていた。
交流センターの一階。清潔感のある白い廊下を進んだ、西奥の部屋。教室より少しだけ狭い部屋には長机が三列等間隔に並んでおり、すでにうちの生徒たちが教科書を開いていた。
わたしたちは入り口近くの壁際の席を選んで、コートを脱ぎながらパイプ椅子に着席し「数A教えてほしい」「無理、数Aは捨ててる」と何気ない会話をしながら教科書を取り出す。
そして何気なく顔を上げ、真ん中の列にいる人物を視界に入れ、硬直した。
それはうちの高校の男子生徒と女子生徒だった。ふたりは肩が触れ合うほどパイプ椅子を近付けて座って、一冊の教科書を間に置いて勉強していた。
男子生徒は穏やかな声で丁寧に、公式の当てはめ方と解き方を教え、女子生徒はこげ茶色の長い髪を指でくるくると弄びながら悩ましい声を出し、問題を解いている。
少しすると、ふたりは寄せた顔を見合わせ、笑い合う。どこからどう見ても、幸せそうな恋人同士。
どこからどう見ても、彼と、同じクラスの女の子だった。
いつから付き合っていたのかは分からない。ただひとつはっきりしていることは、わたしがぐずぐずしている間に、彼らはちゃんと友情や愛情を育んでいたということだ。
身体中の血が冷え、全ての細胞が活動を止めてしまったのかと錯覚するくらい寒くって、脱いだばかりのコートを着直した。指先が震え、何度もペンを取り落とすほど動揺した。
開いた教科書の字が一文字も理解できず、早々に勉強を切り上げ、交流センターを後にした。
色々なことがはっきり分かった。
ただのクラスメイトでしかなくても、彼のことが、本気で好きだった。でも終わりだ。彼はもう恋人がいる。終わりなのだ。
幸いにも、彼とあの子を避けることは簡単だった。
部活も委員会も、仲の良いグループも違う。春から同じ教室で日々を過ごしていても、数えるほどの会話しかしたことがない。彼とは同じ班だったけれど、ただ同じ掃除場所に行くだけだ。
彼とあの子を視界に入れないまま、高校一年生の残りの日々が過ぎていく。わたしの日常は、平穏そのものだった。
友だちもたくさんできた。部活も楽しい。わたしは毎日、笑って過ごした。
それでもたまに、一瞬だけ、胸に鋭い痛みが走る。まるで心臓の奥に氷の破片でも突き刺さっているかのように。そしてたまに、胸の奥に、なんとも形容し難い違和感があるのに気付く。心の中の柔らかい部分を、とても大きな分銅でゆっくりと押しつぶしているような。そんな違和感だった。
どうしてそんなことになっているのか。原因ははっきりと分かっている。彼とあの子だ。ふたりが楽しげに話す様子を見たとき。いつの間にか名前で呼び合っていることに気付いたとき。
放課後の教室であの子が友人たちと、彼への侮辱の言葉で笑っているのを聞いてしまったとき。
彼と話したい。彼に話さなければ。伝えなければ。教えなければ。
そう思っても、ただのクラスメイトでしかない臆病なわたしは、身動きが取れず、落胆する。これだから……これだから恋というやつは……。
二月の凍りついた空の下、一頻り嘆息したあと、踵を返して走り出した。
冬の夕暮れは短い。校舎に生徒はほとんど残っておらず、わたしは誰にも会わないまま四階にある一年五組の教室に辿り着き、鞄からペンケースを取り出しながら、一番後ろの彼の席の前に立つ。
約一年、彼が勉強し、お弁当を食べ、クラスメイトと雑談し、たまにうたた寝した机だ。
その机の天板を指でそっとなぞったあと、床に膝を付き、4Bの鉛筆で、そこに大きな字を書いた。「馬」と。
それは、心も身体も幼いわたしがこのときにできた、精一杯の感情表現だった。
お願い、気付いて。あなたが傷つく前に、どうか。あの子の口からあなたへの侮辱の言葉は聞きたくない。
人は恋をすると馬鹿になってしまうらしいの。どんなに頭の良い人でも、恋をしたら冷静な判断ができなくなってしまうんだって。恋は盲目なの。だからお願い、どうか、どうか……。
わたしも馬鹿になってしまっていたことに気付いたのは、四階奥のトイレに駆け込んでからだった。
個室に籠り、手にしたままの4Bの鉛筆をぎゅうっと握る。
あの子の口から彼への侮辱の言葉は聞きたくない、なんて。偽善だ。わたしはただ悔しかったのだ。わたしがぐずぐずしている間、彼はあの子と交流し、恋人になって、手を繋ぎ、抱き合い、キスをして、愛の言葉を囁いているのだ。
あの子が陰で侮辱しているとも知らず、変わらずあの子を好きでいる彼は馬鹿だ。でも、わたしはそれ以上の大馬鹿だ。
一年近い時間があっても彼と仲良くなれなかったのは、わたしに意気地がないせいなのに。ふたりが付き合い始めたのは、ふたりの勝手なのに。
平気な顔で平穏な日常を過ごすふりをして、嫉妬で心を焦がし続けていた。
彼が好きだった。大人になってから思い出したら、笑ってしまうくらい幼稚な恋だったかもしれないけれど、精一杯恋をしていたのだ。
そして今日、その恋を終わらせた。俯いて、手にしていたままの4Bの鉛筆を見つめていたら、その横を、透明の液体が通り過ぎていくのに気付いた。液体はぱたぱたと足下に落ちていたが、次第に視界が霞んで見えなくなった。
鼻の奥がツンとして、喉から「う、う」と声が漏れだした頃になって、ようやく分かった。平気な顔で平穏な日常を過ごしながら、わたしはずっと、泣きたかったのだ。始まらないまま終わってしまった恋を嘆いて、泣いてしまいたかったのだ。
その証拠に、頬が濡れていくにつれ、肩がすうっと軽くなっていき、外がすっかり暗くなる頃には、背筋をしゃんと伸ばして立つことができた。
翌日、背後から、彼が一生懸命「馬」の字を消しているのをからかう、男子たちの賑やかな声が聞こえた。わたしは前を向いたまま心の中で「ごめんね」と呟きながら、静かに本を開く。
そのあと、彼らの関係がどうなったのかは知らない。休み時間も放課後も、できるだけ教室にいないよう、雑談が耳に入らないよう、努力したからだ。
幸いにも、休み時間や放課後に一緒に過ごせる友人たちはどのクラスにもいた。あんな幼稚な恋しかできなかったわたしは、その分友だちに恵まれたのだ。
そうやって、高校一年生が終わっていった。
これが、この教室で起きた、全てのことだ。
(了)