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進化的視点からみる人間の「多様性の意味と尊重」

本論考は『東北大学教養教育院叢書「大学と教養」第4巻 多様性と異文化理解』  (東北大学教養教育院編/東北大学出版会/2021年)の第1章として寄稿したものを、東北大学出版会の許可を得て、web公開し、多くの方に読んで頂けるようオープンアクセスとしたものです。ここでは、本書原稿に追加・修正された文章を公開しています。引用は[河田雅圭 (2021) 進化的視点からみる人間の「多様性の意味と尊重」『東北大学教養教育院叢書「大学と教養」第4巻 多様性と異文化理解』 pp.3-28, 東北大学教養教育院編/東北大学出版会]でお願いします。
   本稿では、人間の進化史や、進化についての基本的な考え方を紹介した上で、現在の進化学や脳神経科学の進展をもとに、人間の多様性はどのように生じ、維持されているのか、また、人間は多様性をどのように認識し、区別あるいは差別するように進化したのか、という点を考察しています。また、近年、特に叫ばれるようになった「多様性の尊重」ということを進化的な観点からみたときの問題点について触れています。  (2021年3月31日公開)



はじめに:人間個人の間でみられる様々な性質の違い

  人の顔がスマートフォンを開くときのIDとして使えるのは、顔の形状が一人一人異なっているからである。また、顔の形や身長などといった外見だけでなく、性格やものの考え方、得意分野の違い、好きな食べ物や趣味、病気のかかりやすさや寿命の違いなど、様々な性質が異なっている。このような人間の性質の多様性は、同じ地域や場所に住む人の間にも違いがみられるし、地方、国、地域の間でもみられる。
  人間にみられる多様性は、社会で生活する上で、異なる才能をもった人が協力することで困難を乗り越えたり、様々な異なる文化的な産物を楽しむことが可能になったりするようにポジティブな側面があると同時に、自分と異なる性質をもつ人を区別し、差別するようなネガティブな面も存在する。このような人間の多様性の社会的価値や問題点は、文化的な違いが大きな要因を占めると考えられることから、社会学、倫理学や哲学の文脈で議論されることが多い。しかし、人間の様々な性質の違いを作り出す主要な原因の一つが、生物学的違いである。その大きな違いを作り出している要因の一つが遺伝的な違いであり、人間が過去から現在まで進化してきた結果である。また、人間が他人をどう認識し、どのような感情をいだくのかといった、人間の情動や認知機構も進化の結果として変化している。そのため、人間の「進化」を考慮せずに、多様性の本質を理解することができない。
  2003年に、一人の人間の全ゲノム配列(人間がもつ全てのDNA配列)、が明らかになって以降、ヨーロッパを中心に、日本を含めたアジアなど数十万人から数百万人規模でのゲノム配列が読まれ、DNA配列とともに様々な人の性質(病気や習慣、性格など)が、データベースに蓄積されている(図1参照)。また、現代人のゲノムデータだけでなく、数万年前に生息していた古代人の骨からもDNA配列を読むことが可能になり、ネアンデルタール人や縄文人など様々な古代人のゲノム配列のデータも蓄積されている。現在、人間の進化の過程や要因を、大量のゲノムデータを用いて実証することが可能になり、人間の様々な特性が明らかになりつつある。また、人間の情動や行動に関わる脳内や神経伝達のメカニズムの解明が進んでおり、人間の感情や行動の進化を議論することが可能になってきた。
  本稿では、人間の進化史や、進化についての基本的な考え方を紹介した上で、現在の進化学や脳神経科学の進展をもとに、人間の多様性はどのように生じ、維持されているのか、また、人間は多様性をどのように認識し、区別あるいは差別するように進化したのか、という点を考察したい。また、進化的な考察を踏まえて、近年、特に叫ばれるようになった「多様性の尊重」ということを進化的な観点からみたときの問題点について触れてみたい。

第一節 人間の多様性と進化

1.1 人間は誕生してから現在までどのような進化的歴史を経てきたのか

1.1.2 人間の進化史 
  人間がたどってきた歴史のなかで、どのような人間の特徴や性質が進化したかを理解することが必要である。そこで、人間の歴史の概略について触れてみよう(1)。人間(Homo sapiens)は、約30万年前にアフリカで誕生したと言われている。このころは、氷河期で、狩猟採集生活を送っていた。その後5,6万年前ころ、人類の一部はアフリカを出て、世界に拡散していく。そのころ、人間との共通祖先から別れて約60万年前に出現したネアンデルタール人がヨーロッパ大陸から中央アジアに、40万年前にネアンデルタール人と分岐したデニソア人がアジアに生活していた。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人が絶滅する4万年前まで人間と共存し、交雑したことが証明されている。現在のヨーロッパの人のゲノム(後述)にはネアンデルタール人のゲノム配列を2%持っている(2)。一方、デニソア人は、ネアンデルタール人が絶滅した後も生存していたと考えられ、デニソア人も人間と交雑したことが示されている。
  約1万年前に氷河期があけ、温暖な環境に移行したことも要因の一つとなり小麦、米などの栽培や牧畜が始まり、農耕生活に移行していく。農耕によって、人間を取り巻く環境は劇的に変化する。狩猟採集生活での食糧である野生の動植物から、栽培植物中心の食べ物に移行した。定住生活は農耕開始以前からも見られたが、定住により大きな村や町が形成され、大集団での生活が始まる。大集団での生活は、対人関係を大きく変化させるだけでなく、衛生面の悪化による伝染病の脅威にさらされやすくなる。それでも、定住生活の影響で出産間隔が短くなって約5000年前から人間の人口は増大し、さらに、産業革命以降の人口はさらに増大し、現在にいたっている。

人間の進化史については以下の記事を参照
[
ヒトはいつ出現し、どう進化をたどってきたのか]

1.1.3 日本人の起源
  日本人の起源についてみてみよう。アフリカを出て、生息範囲を広げていった人間は、約4万年前に当時は陸続きになっていた樺太北海道や朝鮮半島から、また、海をわたって沖縄西南諸島への日本列島に到達したと考えられている(3)。1万6千年前ころから始まった縄文時代では、狩猟でえた獲物や魚介類、栗などの多様な食べ物を食べて生活をしていたと考えられている。約3千年 前に朝鮮半島からの渡来人が稲作を伝来させながら、縄文人と交雑しながら、本州の北まで拡大していった。現在の日本列島人(アイヌや沖縄の人を除く)は、約10%の縄文人のゲノムを引き継いでいると考えられている(4)。このような日本人の歴史は、現代日本人の中にみられる多様性に影響している。

1.2遺伝的多様性が進化の源になる

1.2.1 進化とは
  進化とは何かを尋ねると、多くの人は「生物が周りの環境に適応して変化すること」と答えることが多い。しかし、これは進化現象の一部にすぎない。進化とは「世代を超えて生じる生物の性質の変化」である。次世代に伝えられない「生物が生まれてから死ぬまでに変化した性質」は進化ではない。多くの場合、生物のもつゲノムが変化し、その変化が集団中に頻度を変えることで進化が生じる。また、環境に適応するような「適応進化」ばかりではなく、生存や繁殖に関係のない性質(中立な性質)が進化する「中立進化」や、生存率を下げるなど病気の遺伝子が増加するような「有害進化」も進化である。

1.2.2 進化に必要な集団内での遺伝的多様性
  進化が起こるためには、生物個体の間で遺伝的な違い、つまり遺伝的多様性がなければならない。進化のプロセスについて説明する前に、進化に必要な、生物個体の間でみられる遺伝的な違い(変異)について具体例を挙げてみていこう。
 様々な性質の個人間の違いは、遺伝子による違いと環境による違いによって生じる。人間には、約30億のDNAの塩基配列からなるゲノムを持っている。ゲノムとは一つの生物を構成するDNAの塩基配列の全体のことで、人間一人の場合、父親と母親からそれぞれ受け継いだ1セットのゲノムをもっている(図1)。この塩基配列の一部は、タンパク質をつくる約2万の遺伝子となる配列である。このゲノム塩基配列の違いが、個人個人によって異なっている。たとえば、人間の111803962番目の塩基配列は、G(グアニン)の場合とA(アデニン)の場合がある。したがって、1人の人はGG,GA,AAの遺伝子型どれかを持つことになる。このようにゲノムの1つの塩基に違い(変異)がみられることを一塩基多型(SNP)という(図2)。この違いは、アセトアルデヒド分解酵素を作る遺伝子(ALDH2)の中にあり、AAの人は、この酵素が働かない。お酒を飲むと、アルコールは体内でアセトアルデヒドに分解される。アセトアルデヒドは有害で癌の原因になったりするが、アセトアルデヒド分解酵素によって酢酸に分解され、さらに水と二酸化炭素になる。AA型の遺伝子をもっている人は、アセトアルデヒドを分解できないので、お酒が飲めない。AG型の人間は分解する活性能力がGG型の人の6%しかなく、お酒を飲むと顔が赤くなる(5)。
  SNPのような変異はゲノム中にどの程度あるだろうか。たとえば東アジアの500人程度でみてみると約350万の塩基にSNP変異が見つかる(6)。これは全ゲノム配列の0.1%を占める。変異には、1塩基の違いだけでなく、数塩基から数千の塩基が挿入されていたり、欠失していたりする違い(indel変異,図2)、ゲノムによって遺伝子の数が違う場合など、様々な形の変異が存在している。これらの個人間のゲノム中の変異が、個人間の遺伝的違いを創り出している。人間とチンパンジの遺伝的な違いは1%しかない、という表現がつかわれる。しかし、仮に1%しか違わないとしても、30億のDNA配列の1%は3000万になり、かなりの数の違いがあることになる(様々な違いを含めると実際は4から5%違っている)。人間の中で見られる0.1%のゲノム配列の違いは、個人間の様々な性質の違いの原因となるのに充分である。なお、チンパンジーの遺伝的変異の程度は、人間よりもずっと大きいことが知られている(7)。
  近年の研究において、約4万人のヒトのゲノム配列をより精度を高めた解析で変異が調べられ、約4億1千万箇所に変異(SNPとindel変異)が同定されている(70)。これは実にゲノム配列(約30億)の10%を超える値である。しかし、その約半分は、約4万人中1人しか持っていない変異など、多くの変異は希にしかみつからない変異である。また、これらの希な変異のうち80%以上は、ヒトの特定の集団でしかみつからないものである(71)。

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図1. ヒトの染色体とDNA塩基配列。ヒトのゲノムとは、ヒト染色体の24種類(1番から22番の常染色体とX、Y染色体)と、ミトコンドリア内にあるミトコンドリアDNAを加えたもので約3億1千万塩基からなる。DNAメチル化やヒストン修飾といったエピジェネティックな変化は、遺伝子の発現などに影響する。

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図2 ゲノム中の変異。1つの塩基に違い(図ではAかG)がみられることを一塩基多型(SNP)という。数塩基から数千の塩基が挿入されていたり、欠失していたりする違いをindel変異(図ではGCが挿入されている場合と欠失している場合の変異)という。図の例では、AかGのSNP変異は、アミノ酸ではリシンかグリシンの変異になる。

1.2.3 人間の身長の違いに関わる要因  
人間の身長の個体差について考えてみよう。人間の身長の差がどの程度遺伝子の違いによるものかをみるとき、遺伝率という指標がある。親の身長と子どもの身長との相関が高くなるほど遺伝率は高くなる。遺伝率に影響するのは、すべての遺伝的違いのうち、相加的効果のある遺伝的変異である(一つ一つの遺伝子が身長に与える効果が足し算で計算できる)。身長の遺伝率は高く80%と言われている(8)。現在、多くの人のゲノム配列とその人のもつ様々な特徴を解析して、人の性質の違いに関わるゲノム上の配列の違いを検出するゲノム関連解析(GWAS)が実施されている。数十万人のヨーロッパ人の身長とゲノム配列を用いたGWASでは、身長の違いに影響する697箇所のSNPが検出された(8)。日本人でも同様の研究が実施され、609のSNPが検出され、そのうちの40は、東アジア人独自の変異であった(9)。これらSNPにおいて、一つ一つの塩基の違いは、わずかな身長の違いにしか影響しない。さらに、これらの研究では検出することの出来ない、ほんのわずかにしか身長に影響していないSNPなどの変異があると考えられている。
  食べ物、運動、生活様式などの個人が育った環境の違いによっても身長の差が生じる。身長の遺伝率から計算すると、環境の違いによる影響は約20%であるといえる。日本人の身長が明治以降高くなっていることは知られている。これは食べ物などの環境の影響で増加したと思われる。しかし、現代の集団ではこれ以上環境の影響で大きくなるということはなく、身長の差の大部分は遺伝的な違いであるため、遺伝率が高い値を示しているのだと考えられる。
  さらに、個人の差を創り出している要因として、エピジェネティックな変異がある。エピジェネティク変異とは、ゲノムDNA(CG配列のメチル化)やヒストン(DNAに巻付いて細胞核内に納めているタンパク質のメチル化やアセチル化)といった物理化学的な変化が生じて、遺伝子の発現の調節などが変化することである(図1)。身長の違いにも、このエピジェネティクな変異が影響することが知られている(10)。一般的に、エピジェネティックな変化は、子どもに遺伝するときもあれば、遺伝しない時もある。遺伝するときは遺伝的変異となり、そうでないときは環境変異として考えることができる。

1.2.4 性格の違いに関わる遺伝的変異
  外見として認識できる身長のような特徴だけでなく、行動や性格などの精神的特徴においても遺伝子の違いが個人の違いに影響している。たとえば、個人の行動、感情、思考のパターンによる特徴「個性」は、しばしば性格とよばれる。性格を分類するとき使われるのが、神経質性、外向性、開放性、誠実性、調和性に区別する性格5因子である(11)。この5つの特性は、多くの国や民族など異なる集団でも安定して示される。たとえば、外向性はポジティブなことに対する反応の違いを示しており、外向性の高い人は、対人関係、仕事など様々な達成感や快楽をもとめることにより積極的である。また、調和性の高い人は、他人の心に注意を払い、共感し、向社会的性格(他人や社会に対しての援助的行動をとる性格)がつよい。性格の違いの約4割は遺伝子による違いである。GWASを用いた研究では、性格の違いに大きく影響するSNPや、小さな影響しか与えないSNPが多数検出されている。また、この性格の違いは、様々な精神的特性の違いとの関連性がみられる。たとえば、主観的幸福感と神経質性・外向性は相関し、宗教など神秘的現象を信じるかどうかは調和性や誠実性と正の関係正を示し、右翼的あるいは権威的であるかという傾向と開放性は負の関係を示す(12)。
  性格や精神的特性などの個人的特徴と同様に、個人がどのような行動をとる傾向があるか、と言う点についても遺伝的な違いが関与する。たとえば、CD38という遺伝子にある一つのSNPには、CC型、AC型、AA型の変異がある。CC型の人は、AC,AA型の人に比べて恋愛パートナーへの伝達行動がより積極的であり、恋愛での愛情表現の差に遺伝子が影響していることを示している(13)。また、同性間性行動の傾向に関しては、生まれてからの環境が影響するが、その一部は遺伝子によるものである(遺伝率は約20%)。GWASによる同性間の性行動に関わる遺伝子の検出が行われ、そこでは、一つの遺伝子の違いで性行動に大きな効果を及ぼすような「同性愛遺伝子」は検出されなかったが、一つ一つが小さな効果をもつ多くのの遺伝子の違いが影響していることが示されている(14)。
[日本人の〈個性〉について考える―人類進化に基づく日本社会とは(2020年3月)―YouTube]

1.2.5 人間の表現型の地域間の違いと人種について
  人間は、地域ごとに外見など特徴的な性質をもっており、集団間の違いも顕著である。このような違いは、それぞれの集団で独立に進化が生じた結果といえる。また、人間がアフリカをでて、世界の各地に分布を拡大している過程で生じた遺伝的変異の変化の可能性もある。また人間が別の集団に移動し、そこで繁殖をすることで変異が増大する場合もある。
  地域間でみられる人間の特徴の違いのうち、特に骨格、皮膚の色、毛髪など身体的な特徴によって「人種」として区別されることがある。人種は、社会的に創られた区分で、生物学的に意味のある区分ではない(72)。生物学的に意味のあるとは、集団の祖先-子孫関係(系統関係)をみたときに共通の祖先をもつ集団のあつまりや、相互作用や交配が行われ遺伝子の交流が特に生じていて他の集団として区別できる繁殖集団などである。
  ゲノムの配列を使って全世界の人々の遺伝的な類似度を推定した研究では、祖先ー子孫関係で区別したとき、21の祖先グループに分けることが示された(73)。人種、民族-言語集団、同じ大陸に住む集団は、どれも複数の異なる祖先グループから構成されていて、様々な系統が混じり合った結果と考えられる。地域や国といった任意にきめた集団間では様々な遺伝的な性質に違いがみられるが、その違いは、異なる系統の遺伝子の混合具合が異なっているためだと考えられる。また、「人種」が生物学的に意味のある集団でない、ということは、人間の間に集団として区別できる特徴の違いがない、ということではない。後述するように、「人種」という区別は、人間の様々な性質の違いをもとに、人間が区別できるカテゴリーとして認識されるものである。

1.3 進化はどのように生じるか

1.3.1 飲酒に関わる遺伝子の自然選択による進化
  ここまで、人間の様々な性質の違いの多くが遺伝子の違いによるものであることを述べてきた。進化は、この遺伝子の変異の集団での頻度が変化することで生じる。前述したアセトアルデヒド分解酵素遺伝子(ALDH2)を例にもう少し詳しくみてみよう。
  ALDH2によって作られるアセトアルデヒド分解酵素の活性に関係するGあるいはAの一塩基多型があることは前述した。日本人での集団中のGの頻度は0.65で、GG, GA, AAの割合は、約31%,49%, 19%となる。この頻度が世代をへて変化していくことが進化である。この遺伝子は日本人でどのように進化してきたのだろうか。1万6千年前から3000年前まで日本に住んでいた縄文人は、調べられている限りGG型で、お酒には強かったとみられる(15)。その頃、東アジアでは、Aの頻度の増加がみられ(16)、約3000年前に大陸から移住した弥生系渡来人は、GAあるいはAA型の人がいた推定される。縄文人は、渡来人との交雑によって、Aの頻度が増加したとみられる。さらにその後徐々にAの頻度は増大したと推定されている(17)。ゲノム配列の解析からこの増加には自然選択が働いたと推定される。すなわち、AA型あるいはGA型の人は、GG型の人に比べて、適応度(一生に残せる子どもの数)が高かったと考えられる。この例のような遺伝子頻度の変化が、自然選択による進化である。
 飲酒に関しては、さらに興味深いことがある。アセトアルデヒドはアルコールが分解されることで生成され、有害であることは述べた。このアルコールを分解してアセトアルデヒドを生成する酵素がアルコール分解酵素(ADH)である。このADHには異なる種類の複数の遺伝子があるが、その一つであるADH1Bの変異(48番目のアミノ酸がヒスチジンかアルギニン、AかGかのSNP)があり、アルギニン型は高活性、つまりより効率よくアルコールを分解できる。日本人を含め、東アジアの人々では、この高活性型の変異に有利な自然選択が働き頻度を増加させていることが示されている(74,75)。
  つまり、お酒を飲むとアルコールは効率良く分解されるが、その結果生成されるアセトアルデヒドが分解しづらいので、より有毒のアセトアルデヒドが体内に蓄積されることになる。このような性質をもつ人の適応度がなぜ日本人やアジア人で高くなるのかについては、まだよくわかっていない。ADH1Bの高活性型の変異、およびALDH2の不活性型の変異が高頻度でみられる地域と米栽培地域とが重なっているようにみえることから、稲作と関係しているとする説がだされている。ひとつは、分解されずに体内に残るアセトアルデヒドが水田から感染する原虫などの病原体に効果があったとする説(18,19)や米から作ったお酒を飲み過ぎると様々な健康被害を受けるので、飲酒を制限させるための性質が進化したという説(76)などがあるが、詳細はまだ解明されていない。
 ALHD2やADH1Bの例は、一つあるいは少数の遺伝子の頻度が増大する自然選択の例である。前述した身長のように多数の遺伝子が関与する場合でも自然選択の検出は可能である。ゲノムを用いた解析から、過去数千年の間で、ヨーロッパ人では、身長の高い人が有利に働く自然選択によって身長は高く進化しているのに対し(8) 、日本人では、身長の低い人が有利になり、低い方向への進化が生じていると推定されている(9) 。

1.3.2 中立な進化と有害な進化
 適応度の高い遺伝子型がより次世代への子どもを残すことによって遺伝子の頻度が変化することが自然選択による進化である。自然選択によって、結果的に特定の環境で高い適応度に貢献する性質が進化することを適応進化とよぶ。ここで、注意すべきは、自然選択は、集団の中の個体間で、適応度の高い個体が選択されることから、結果的に「個体にとって有利な性質が進化する」と比喩的に表せる。一方、個体にとっては不利な場合でも集団にとって有利な性質(たとえば集団の絶滅を防ぐ)が進化するかどうかの可能性については、古くから議論されてきた。この点については、ここでは深く触れないが、結論からいうと集団にとって有利な性質が進化する場合は限定的である。しかし、後述するように、人間の場合、文化の異なる集団間で選択が起こる可能性が示唆されている。一方、個体にとって有利なために進化した遺伝子が、結果的に種の存続や維持に寄与することは可能である。しかし、ある遺伝子が種を存続させることが原因で進化することはない。
 進化は自然選択によって生じるだけではない。遺伝子が子どもに伝わるとき、ランダムに遺伝子が選ばれることによって遺伝子の頻度は変化する。これを遺伝的浮動という。ALHD2のA型は、東アジアおよび日本において自然選択を受け頻度を増大させたと考えられるが、縄文人と渡来人との交雑によって、日本でAの頻度が増えたのは、自然選択ではなく、交雑によるランダムな遺伝子の変化といえる。
 人間は、地域によって様々な集団(人種や民族など)が存在し、その性質は異なっている。その違いのいくつかは自然選択によるものである。たとえば、肌の色、身長、乳糖耐性、脂肪酸合成など、人間の異なる集団で独自に自然選択をうけ進化した多くの例が示されている(20)。しかし、その他の違いの多くは、生存や繁殖の差に寄与しない中立な違いであると考えられる。たとえば、前述したように、アジアの500人では350万箇所のSNPがあるが、これをアフリカの500人の集団でみてみると430万箇所にSNPがみられる(6)。アフリカの人が他の地域の人よりも遺伝的変異が高い原因の一つは、出アフリカを果たした人は、アフリカのごく一部の人であり、アフリカの集団の一部の多様性しか引き継いでいないからだと考えられている(21)。また人間はアフリカから世界各地に広がっていくなかで、ゲノム中の多くの変異はランダムに変化したと考えられる。
 さらに有害な遺伝子の頻度が増大する進化もある。遺伝子がランダムに選ばれて頻度を変化させる遺伝的浮動の効果は、集団のサイズが小さくなると大きくなる。サイコロを投げて、2と1がでる回数は、1000回投げると1/3回くらいになるが、5回しか投げないと、たまたま、5回とも1か2だけしかでないということもありえる。これは、生存率が低下して、遺伝子が引き継がれる確率が低下しても、個体数が小さいとたまたま有害な遺伝子が選ばれるということを示している。このようなメカニズムで有害な遺伝子がたまたま増えることがある。人がアフリカを出て分布を拡大していくなかで有害な遺伝子がたまたま蓄積していったと推定されている(これについては論争がある)。これは、人間が分布を拡大するとき、その分布の最先端で拡大をこころみている集団のサイズは小さいと考えられ、そこで有害な遺伝子が蓄積したのではないかという説もある(22)。また、現在、医療などの発達で、有害な遺伝子を保持している人でも通常の生活が可能になり、子どもを残している。このことは、本来医療のない世界や厳しい環境では有害みなされる遺伝子が、中立となって人間集団に次第に蓄積していると考えられる(79)。

第二節 人間の多様性の維持機構とその意義


2.1 人間の多様性はどのように生成・維持されているのか

2.1.1 突然変異によって生じる遺伝的多様性
 人間の様々な性質の違いは、遺伝的な差異だけでなく、人間が生殖・授精で誕生し、発生、発達、成長していくなかで経験する様々な要因に影響され、それにより多様な個性をもった人間が形成される。しかし、多くの人間の性質の違いに遺伝的変異が関与しているということは、その関与の程度は性質によって異なるにしても、人間集団内での多様性は、進化の影響を受けて変化し、維持されているといえる。
 それでは、なぜ人間の集団の間には、これほどたくさんの遺伝的な差が存在しているのだろうか? 変異が存在している機構としては、以下の要因が考えられる。ゲノム中には突然変異が常に生じ、新たな変異が生まれている。一つのDNAの塩基あたり10のマイナス9乗の確率で突然変異が生じるとすると、ゲノムの約30億のDNA配列なかで、1世代あたり3箇所で突然変異が生じることになる。10000人の集団であれば、3万個の突然変異が集団の中に出現する。仮にこの突然変異が有害であり、自然選択によって除去されるにしても、すぐには消失せずに集団中にある程度維持される。また、突然変異で生存や繁殖に影響しない中立な、あるいはほぼ中立な変異であれば、偶然に消失することもあれば、偶然に頻度を増大させていくこともある。人間の集団中にある遺伝的変異の多くはこのように突然変異で集団中に現れる新しい変異が自然選択や遺伝的浮動によって消失するまで維持されている状態であると考えられている(選択-突然変異平衡あるいは浮動ー突然変異平衡という)(23)。特に、人間の集団中に希にしか検出できない変異の多くは、病気に関連する有害な遺伝子であると考えられている。

2.1.2 自然選択によって維持される遺伝的変異
 一方、自然選択によって積極的に変異が維持される場合もある(平衡選択という)。たとえば、ヘモグロビンの遺伝子にある変異(β鎖の6番目のアミノ酸が通常はGluグルタミンだが、Valバリンになっている変異)は、ホモ接合Val/Val型になると重度の貧血を発症する。しかし、ヘテロ接合(Glu/Val型)だと、マラリアのある地域では、マラリア耐性になり適応度が高くなる(24)。これによりGluもValの遺伝子も両方が集団の中で消えないで維持される。負の頻度依存選択というメカニズムもある、これは、頻度の少ない遺伝子が自然選択で有利になるので、変異が消失しないという機構である。また、その他環境や時間によって、変異が有利になったり、不利になったりする場合も、条件によっては変異が維持されることがある。
 遺伝的多様性が積極的に維持されている例として、人間の顔の多様性に関わる遺伝子がある。後述するように、人間は、他個体を識別し、その人間に対する感情や行動を変化させる。このことは、識別する側だけではなく、識別される側もメリットがあると考えられる。人の識別に必要な人間の顔は多様である。人間の顔の違いに関わる50の遺伝子を用いた研究では、それらの遺伝子的変異は、負の頻度依存選択によって変異が維持されていることを示している(25)。人間社会の中で、顔は、誰に協力して、誰を排除するかといった識別の鍵となるもので、多様性が積極的に維持されているといえる。
 私たちの研究では、不安などの感情に関係するというセロトニンなどの神経伝達物質を神経シナプスに取り込みことに関係するVMAT1という遺伝子の一部に変異があり、現在の人間の集団でその変異が平衡選択で維持されていることを示した(26)。この変異の一つThr型は、より不安傾向を示す変異であることが知られ、人間への進化過程の中で、自然選択に有利に進化したことが推定された。しかし、人間がアフリカからでる直前くらいに、Ile型が出現した。Ile型は抗不安傾向をしめす変異であり(27)、次第に頻度を増加させたが、Thr型に置き換わることなく、2つのタイプが平衡選択で維持されている(佐藤大気君による紹介記事)。
 このように、積極的に変異が維持されている遺伝子もあるが、ゲノム全体の変異をみたとき、多くは中立か有害であると考えられている。平衡選択で維持されている変異は多くないと思われる。平衡選択で積極的に維持されている変異はゲノム全体の2%未満であると推定されている(28,78)。

2.2人間にみられる多様性の生物学的意義とは

2.2.1 遺伝的多様性のポジティブな側面
 人間の集団中に存在する遺伝的多様性の生物学的な意義について考えてみよう。これまで述べてきたように、生物が進化するためには、集団内の遺伝的変異が必要である。また、集団内の遺伝的な多様性は、集団のサイズの増加や存続にプラスの効果があるという研究もある。たとえば、生物は常に、細菌、ウィルス、寄生虫など様々な病原体の感染にさらされている。それに対抗して、生物は抵抗性をもつ新たな遺伝的変異を維持あるいは創出することで対抗している。実際に、人間でも平衡選択をうけている遺伝子の多くが免疫に関する遺伝子であると推定されている。また、顔の多様性が遺伝的多様性で維持されていることで、人間社会において個人の識別が可能になり、後述するように誰に協力すればよいか、といった協力行動の進化を助ける。

2.2.2 集団を存続させるために遺伝的多様性があるのではない
 しかし、ここで注意すべき点は、集団内の遺伝的多様性が作り出されているのは、「集団を存続させる」あるいは「集団の絶滅回避」の「ため」ではない。たとえば、集団中に出現した新しい遺伝子は、頻度が少ないために、蔓延している病原体に感染されにくく、そのために頻度を増加させていく。結果として集団内の遺伝的多様性が維持され、結果的に集団の存続を向上させることはあるが、そのような遺伝的多様性が進化するのは、感染されにくい変異が選択される結果である。多くの場合、集団をより長く存続させることが原因で、集団内の多様性が出現したわけではない。この点は、一般の人だけでなく、生物学の専門家もしばしば犯す誤りである。
 一方で、前述したように集団中に維持されている遺伝的多様性の多くは有害である。また、生物が生息する環境に最も有利な遺伝的変異が集団中を占めているとき、新しく生じた遺伝子や異なる環境で生息していた個体がもたらす遺伝子は、環境に不適応であり、遺伝的な多様性が増加するほど、不適応な遺伝子が増大することになる。つまり遺伝的多様性の増大は、集団中に保有する有害あるいは不適応な遺伝的変異を増大していることにもなる。進化学においては、遺伝的変異は、適応進化を促進する側面がある一方で、適応進化を妨げる要因となって働くという側面もあるということを理解することが重要である。

2.3 人間の多様性の社会にとっての価値とは

2.3.1 人間の多様性の社会での役割
 ユネスコの「文化的多様性に関する世界宣言」の第一条に「生物的多様性が自然にとって必要であるのと同様に、文化的多様性は、交流、革新 、創造の源として、人類に必要なものである。」とある。この一文は、文化的多様性の尊重を謳うものである。「生物多様性が自然にとって必要」な理由と、文化的多様性が人類に必要な理由を同列にあつかっている点は違和感を感じるが、この宣言が主張することは以下の点である。「社会がますます多様性を増しているなか、多様な文化や人々が互いに共生しようという意志をもち、調和のとれた形で相互作用することで、社会的結束、市民社会の活力、そして平和な社会が実現できる」、というものである。
 実際に、多様な性格、考え方、能力などをもつ人たちが社会にいることで、新しい発見がうまれたり、経済的あるいは科学的な発展をとげたり、多くの人の幸福感をみたす多様な文化が生まれたりする。たとえば、先進的な企業では、多様な人材を生かすことで、業績の向上を試みたりしている。チームをつくって問題解決を試みるとき、多彩な人材が共同で取り組むほど成績があがる場合がある(29)。ニューロ・ダイバーシティという考えでは、自閉症などの非定型的発達者は、特定の能力に優れており、これらの人々を企業の様々な場面でその能力を生かしてもらうことで、企業の利益を上げていくという取り組みが行われている(30)。また、異なる好みや趣味に合わせて、多様な娯楽や文化などがあるために、多様な産業が発展すると同時に、多くの人が精神的な楽しみや満足を得ている。

2.3.2 人間の多様性にはなぜネガティブな側面があるのか
 しかし、多様性のポジティブな点のみをとらえ、多様性の尊重を謳うことは、逆に、多様性のネガティブな点を浮き彫りにしてしまう可能性もある。前節でも述べたように、人間の多様性をつくる主要な要因の一つは、集団中に出現する有害突然変異が維持されていることによる。つまり人間の多様性の原因の一つは、生存率を下げるような有害あるいは病気に関する遺伝子である可能性が高い。また、病気だけでなく、様々な人の特性は遺伝子によって影響されている。たとえば、人間の攻撃性の違いは遺伝子の違いである可能性が高いことが知られている。極端な攻撃性の違いも人の多様性の一形態であるが、このような多様性をどうポジティブにとらえることができるのか難しい問題である。このように、あらゆる人間にみられる多様性を社会の活力を上げることに貢献する、とポジティブに主張することも可能であるが、多様性の維持のロジックとしては矛盾が生じることもある。
 進化論が人間社会に悪用された例としてよく挙がるのが、社会ダーウィニズムである。ゴルトンは、人為選択によって民族の退化を防ぐために劣った遺伝子を持つものを減らし、優れた遺伝子を持つものを増やそうという優生学を提唱した。ヒトラーは、これを利用し、ユダヤ人の迫害を行ったことは有名である。短絡的に生物学的理論を応用して、もし有用な多様性が人類にとって必要である、という考えを主張すると、人類が生き延びるためには、有害な遺伝子を持つ人は犠牲になってもよい、という考えにつながるかもしれない。
 もし、私たちが「多様性の尊重」という規範を受け入れるとするならば、人間が進化したなかで、人間の多様性がなぜ進化的に生じ、維持されているのかということを正しく理解した上で、人間の社会にとってはいい面も悪い面もあるということを認識することが重要であると思われる。その上で、どのように人間の多様性を受け入れる社会を実現していくことが可能かを考える必要がある。
 人の多様性を尊重し、意義をみとめようと、いう動きがでてきたのは、グローバル化の中で、人種差別、性差別、マイノリティの迫害とった、これまでも問題になっていた差別が、特に先進国の中で顕在化してきた背景もある。人間は、特に、農耕開始以降、多くの人たちが定住し、巨大な都市や国家が形成されていくなかで、様々な差別が行われるようになったと思われる。人間の様々な性質の多様性は、そのような差別を引き起こす原因の一つともなっていると思われ、多様性の尊重を議論するには、人がなぜ差別をするのか、という生物学的な問題について考える必要がある。

第三節 多様性をどう認知するように人間は進化してきたのか


3.1 差別は集団内の協力行動の結果として進化した

3.1.1 生物における協力行動の進化
 人間はなぜ差別をするのかという問題は、協力行動の進化と関連している。生物の協力行動の進化は、進化学の主要なテーマの一つである。生物の利他行動あるいは協力行動が進化する原因の一つとして、血縁選択とよばれる理論がある。たとえば、プレリードッグは、捕食者などの危険が迫ったときに警戒音を発する(31)。警戒音を発することで、捕食者への危険は増大するが、周りにいる兄弟や子どもが危険を避ける。これは、警戒音を発するという性質に関わる遺伝子が、血縁者も同様に共有しているので、自分が捕食される可能性を高めるというコストをはらっても、代わりに血縁者がより多くの子どもを残してくれることで、警戒音を発することに関わる遺伝子の頻度が増加するというものである。もう一つは、互恵利他とよばれる理論で、助けた相手から助けられることを期待するという考えである。吸血コウモリは、血縁関係のない個体に血を分け与える。これは、自分の血を分け与えた個体が、次回は自分に血を分けてくれることで、助けるという行動は自分の利益につながる (32)。この互恵利他行動が進化するためには、誰が自分を助けてくれて、誰が助けてくれなかったか、を識別し記憶しておく必要がある。

ヒト特異的な向社会行動(利他行動・協力行動)の進化については、以下を参照してください。

3.1.2 大規模集団での協力行動の進化
 血縁選択による利他行動の進化は、お互い近くにいる血縁者の間でのみ可能であるし、互恵利他行動は、個体がお互いに顔見知りである集団内でのみ可能である。人が安定な社会の中でお互い認知して関係をもつことのできる上限が150人と言われている (33)。その上限を超えた集団の中で、血縁選択あるいは互恵利他行動によって、お互いに協力行動を維持することは難しいことになる。また、互恵利他行動の進化を妨げる要因の一つが、フリーライダー(ただ乗り)と呼ばれる行動である。協力行動による利益だけを得て、ただ乗りする個体は、協力行動をするコストを払わずに利益だけをえるので進化しやすい。個人をお互い特定し認知できる状況では、このようなフリーライダーを検知し、排除する、あるいは、協力行動をしない個体に制裁や罰を与えることで、協力行動が進化することが可能になると考えられている。
 人間は狩猟採集で生活をしていたころ、小さな集団で生活をし、狩猟などで得た獲物を分け与えていた。現在の狩猟採集民の調査などからも、集団内では相互に協力的であり、直接的な利益を得ていたといわれている。しかし、人が定住生活をはじめ、農耕が始まり、大規模な集団で協力行動が行われるようになる。人間のこのような大規模な集団での協力行動がなぜ生まれたのかについては、多くの議論があり、まだ確実な説があるわけではない(34-38)。
 人間の協力行動は、血縁選択による利他行動、そして互恵利他行動からはじまり、言葉や独自の認知機構を獲得したことで、共通の目標を共有し、過去に出会った人との相互作用や共同活動における個人の貢献を記憶あるいは追跡し、これらの情報を他者に伝達することが可能になった(34)。これにより、面識のない個人の評判をもとに協力行動をするかどうかの是非を判断し、無関係な個体間の協力的な相互作用を維持したと考えられる(間接的互恵利他, 80)。しかし、協力する人数が、さらに大きくなると、評判による他者の評価は困難になり、大きな規模では、このメカニズムだけでは、協力の維持は難しいことも指摘されている(37)。
 大規模集団で協力行動が維持できるしくみとして文化的集団選択説がある(39)。集団内で、個人が社会的学習や模倣を行うことで、協力に関する「規範」をもとに協力行動がなされるようになる。集団間では、協力行動規範の文化的な差が生じ、協力行動により利益をうける集団が拡大し、協力行動の成功しない集団は消失するという集団間選択が生じ、協力行動が進化したという説である。この考えでは、協力によって個人は必ずしも利益を得なくても、集団が利益を得るというシナリオである。実際のケニアの部族を対象とした研究での実証研究があり、その可能性が支持されている(40)。また、人間の社会が大きくなるにつれて支配者階級が形成され、集団内での強制的な協力が生じたという説もある(39)。

3.1.3 共感能力によって信じられる宗教や規範が大規模集団の協力を可能にした
 有力な説と考えられるのが、宗教などのような、人が協力のために共感できるような概念や規範が考え出されたという説である(42)。世界最古(おおよそ1万年前)の宗教施設であったと思われる遺跡にギョベックリ・ペテがある。このころ、まだ農耕が始まっておらず、定住生活が始まっていたか確かでないが、この施設を作るのには最低でも500人以上の協力がなければ完成しなかったといわれている(43)。なんらかの共通の宗教を信じている人の間で協力行動が行われたと考えられる。その後、人間が農耕を開始し、多くの人が定住生活をおくり、共通の宗教を信じるようになる。向社会行動(他の人や社会のために行う利他行動)などを説く宗教的規範のもとに、同じ宗教規範を信じているかどうかが他個体の評価となり、また規範を共有しない非協力者に対しては、超自然的な制裁となる。心理学的実験では、神を意識させることで、利他的行動が高まることが示されている(42)。単に共通の規範を目標にし、評判をもとに協力するかどうかを個人の利益をもとに判断する場合とは異なり、費用便益を抜きにして、規範(宗教)に対して多くの人が強い共感を示したものと考えられる。この共感能力には、情動・認知の進化が関係していたと思われる。人間が獲得したこの認知能力によって、宗教のような架空の概念を作り出すだけでなく、その概念を信じ強く共感する能力が出現したと考えられる。このような規範となる概念は、宗教だけとは限らない。多くの人が共感し、同じ規範を共有することで、特定の集団の帰属意識をたかめるものであればよいと思われる。ハラリは、著書『サピエンス全史』のなかで、人間は認知機能の進化により、帰属意識をもてる架空の概念(共同主観的虚構)をつくりだすことが可能になったと考察している。その概念で規定される偏狭的な規範に従うことで、協力行動を行い、規範に従わない人を罰することで、大規模な集団で協力行動が可能になったと考えられる(44)。この架空の概念は、宗教だけでなく、民族主義、国家主義などの他、共産主義や人間主義まで含まれるとした。

3.2 人間にみられる集団内と集団外メンバーの認知傾向

3.2.1 集団外メンバーへのバイアスのかかった認知傾向
 概念規範を共有する集団に属する人を識別し、向社会的行動や協力行動をとる一方、同じ集団に属さない人を区別し、差別的な扱いをする。われわれ人間は、脳内でおこる様々な神経活動によって、このようなバイアスのかかった認知や行動傾向を示す(45)。
 人間は他個体の感情を理解し、共有する共感能力をもつ。たとえば、人間は、他人が痛みを感じていると、自分もその痛みを想像し、共感する(45)。さらに、そのような共感は、他個体を助けたり、はげましたり、寄附をしたり、といった利他行動あるいは向社会行動を引き起こすことが実験的にも示されて、それに伴う脳内の神経活動も示されている。たとえば、他人の痛みに共感すると、自分が痛みを感じるときと同様の脳内部位が反応する(45)。
 人間は、同じ集団に属するかどうかを素早く判断し、同じ集団内のメンバーに対して協力するという「内集団ひいき」が生じる。同じメンバーとは、たとえば、同じ地域に住む住人であったり、同じ民族であったり、同じサッカーチームの応援団だったりする。また、実験的に、集団のメンバーをランダムに割り当てられた場合でも、その集団内の人々は自分の集団のメンバーシップに応じて異なる扱いをし、向社会的な好みや協力的な信念における集団内のバイアスを示す。人々は集団外のメンバーよりも集団内のメンバーを評価し、信頼する傾向にある(45)。
 顔見知りで、お互い安心できる人の間の強い絆で結束した集団に属するほど、「内集団ひいき」が強まる(46)。しかし、「内集団ひいき」が生じる集団は、かならずしも顔見知りである必要はない。たとえば、「同じ宗教を信じている集団」、同じ村に住んでいる集団、「同じ言葉を話す集団」など、お互いに顔見知りでなくても「内集団ひいき」と外集団への差別は生じる。山岸は(46)は、相手が利己的に振る舞うと自分がひどい目にあう状況を「社会的不確実性」の状況とし、そこでは、集団内のメンバーを越えて、意識的に自分の利害にこだわらず相手を高く信頼することが、結果的に大きな利益につながることがあるとしている。また、人を信頼する傾向のある高信頼者と低信頼者がおり、社会的知性がその差を生み出していると議論している。しかし、ある人にとって「信頼できる人達」と「信頼できない人達」の集団が認知され、信頼できる人の集団内メンバーへの「内集団ひいき」と信頼できない人達への「差別」が生じるかもしれないし、高信頼者と低信頼者の間の対立がうまれるかもしれない。

3.2.2 偏見をもたらす認知機構
 特に、「人種」 (ここでは、白人、黒人、アジア人といった人間の集団)に対する共感と差別に関しての研究は多く、人間は同じ人種に共感をしめすことが実験的にも明らかになっている(47-49)。神経画像研究では、異なる人種の人より同じ人種の人に対して共感性を示していないとする自己評価であっても、脳活動では人種内バイアスが示されている(47)。このことは、人種差別は無意識に行われることを示している(47)。
 人間は、様々な特徴に基づいて、すばやくカテゴリーに分類する(47)。また、経験あるいは見聞きした事例をもとに、他者を「集団内」または「集団外」に分類し、一般化した手がかりをもとにステレオタイプ化をする傾向がある(47)。たとえば、「黒人は野蛮である」という一部の誤った認識が、黒人というカテゴリーを表す特徴としてステレオタイプとなる。このような、認知バイアスが、人間を区別する差別となって表れる。神経科学の分野では、偏見やステレオタイプの認知機構を解明し、どのような介入を行うと、差別が軽減するかという研究が行われている(47)。
  集団外のメンバーに対する差別的な扱いは、集団内のメンバーへのバイアスのかかった協力関係に基づいている。個人は、集団外のパートナーよりも集団内のパートナーの方が、より多くの協力を期待するという[47] 。人間は、集団外の自分と類似しない他者の行動を、集団のステレオタイプを用いて想像する傾向がある(50) 。このような認知機能により、人間は内集団への共感と利他行動と同時に外部への偏見、対立、攻撃性へとつながっている。人間の様々な性質の多様性は、協力行動をおこなう人を選好し、他者を差別するしくみとして使われている。
 人間の集団内メンバーへの認知と協力に最も関係していると考えられる神経ホルモンがオキシトシンである。オキシトシンは(45)、集団内メンバーへの共感や向社会性にかかわるだけでなく、集団に属するメンバーかどうかを迅速かつ正確に認識し、集団内の偏った選好と信念に関わる。さらに、集団内の利益となる集団外への攻撃の行動を増加させる。一方でテストステロンは、テリトリーをめぐる競争の激化や、集団外メンバーを個人的な犠牲を払って罰する行動に関与するらしい(45) 。

3.3 人間の認知機構はどのように進化してきたか

3.3.1 進化過程で獲得した複数の認知能力の進化
 「集団内」メンバーへの選好・識別、共感、協力行動と集団外メンバーの差別」という人間の認知行動機構は、どのように進化したのだろうか?人間が誕生して農耕が開始されるまで、狩猟採集生活をおくっていた。その間、人間は集団で協力して狩りをし、平等に獲物をわけあったと考えられている。グループ内のメンバーを識別し、協力行動をするという認知行動機構は、この間に進化的に獲得したのかもしれない。しかし、協力、共感、集団認識といった人間の性質は、一度に獲得されたものではなく、それらを可能にする複数の情動・認知機構の進化の組合わせによって可能になったと思われる(51)。
 他者が何を考えたり、感じたりするのか知る能力を「心の理論」とよぶ(52,53)。人間が、他人に共感したり、助けたりするのに、他者が助けを必要としているかを感じとる必要がある。このような能力は、古代人(ネアンデルタール人など)も持っていた可能性がある。また、他の霊長類も他者の知識や意図に関する情報を利用していることが明らかになっている。しかし、霊長類(特に大型霊長類)では、他者の理解は、他者を欺いたりすることに使われるのに対し、人間では、協力的あるいは向社会的状況でその認知能力が使われるという(54)。つまり、人間はすでに獲得していた「他者の考えを知る能力」をもとに、協力行動を進化させたと考えられる。
 さらに、約10万年前の人間の遺骨といっしょに、装飾品など体に身につけるものが見つかることから、このころから他者から自分がどう思われているか、という自分をみつめる自分(内省的自己意識)が生じたと指摘されている(52)。内省的自己意識は、自分の内面に気づき、他者に伝える能力と関連して、言語の獲得にも影響したと主張する研究者もいる(55)。
 また、人間は約4万年前から1万年前にかけて、それまでない道具や武器の発明、道具の改良、装飾品、死者への副葬品、絵画、楽器、など様々な人間の創作物が出現した。このような出来事が、この期間におこった「人間の認知革命」と呼ぶ研究者もいる。一方で、これらは内省的自己意識の獲得によって生じたものであるかもしれない。トリー(52)は、自伝的記憶(生活の中で経験した,様々な出来事に関する記憶の総体)を獲得し、それにより、過去の経験を生かして、将来の計画をたてる能力が生じ、それにより、人間は他人の死が自分に訪れることを理解したのではないかという。それにより超自然的な存在やアニミズムなどの宗教のもとになったのではないかという。
 進化の過程でいくつかの異なる認知能力の獲得は、脳の拡大や構造的変化、神経ネットワークや伝達経路の変化とそれに伴う神経伝達物質の質的・量的変化によっている。人間の認知能力の様々な側面は、一度に獲得されたわけではなく、徐々に変化しており、現在も進化していると考えられる。人間は、「他人の心を類推する能力」「内省的自己意識」「自伝的記憶」などがそれぞれ独自に獲得し、それらの認知能力が集団内の協力という動機付けと重なることにより、内集団メンバーの協力、宗教や虚構への共感性、集団外メンバーへの差別という認知機構を獲得したのかもしれない。

3.3.2 進化し続ける認知傾向
 人間が誕生してから現在にいたるまで、このような新たな認知機構の獲得だけでなく、たとえば共感性の程度や共感をむける相手の変化といった定量的変化も常に生じている。たとえば、人間の脳の形態は、農耕が開始された以降、頭蓋顔面の女性化(眉間突起の減少と顔面上部骨格の短縮)が起こっており、これは血中テストステロン濃度の低下を反映し、社会的寛容の進化を反映するとする研究がある(56)。脳の形態の女性化は社会生活のなかでのアンドロゲンの減少と社会的抵抗性に対応しているのではないか考察されている。また、前述した向社会性や共感性の関与するオキシトシンの作用の個人差に影響する遺伝的変異がいくつか知られている。特にオキシトシン受容体遺伝子にある一つのSNP(rs5357)は、GとAの変異があり、G型はA型の人に比べてより共感性が高く、向社会行動をとり、集団主義的傾向が高い(45)。これらの変異は、人間の集団で異なる頻度を示し、変異の一つは集団間で異なる自然選択を受け、異なる頻度に進化した可能性が指摘されている(57)。この変異の影響は、たとえばヨーロッパ系アメリカ人と韓国人では異なっており、文化的背景をうけて遺伝子の効果が変化しているようである(58)。また、別のオキシトシン受容体遺伝子の変異SNP(rs237887)は、社会的認識(たとえば顔をどれくらい覚えているか)に関連している(59)。
 人間の行動や認知機構を変化させてきた進化が、どのような要因によって引き起こされてきたのかを特定するのは難しい問題である。進化心理学者の中には、「約250万年前に人間の祖先となるHomo属が誕生してから、氷河期のあける約1万年前まで狩猟採集生活を送ってきた。従って、現代の人間は、「狩猟採集生活に適応した進化の結果である」と仮定する人もいる(60)。しかし、現在でも進化は生じているし、農耕以降植物食中心の食べものに変化したことに対応して約5000年前からFADS遺伝子という脂肪酸の合成に関わる遺伝子が進化したという例(61,62)でも示唆されるように、1万年という期間は進化的変化を経験するのに充分な時間である(数千年でも可能である)[「食生活の変化による脂肪酸代謝の進化」を参照)。
 また、過去の狩猟採集生活という長く続いた期間における人間の行動や認知機構の進化がすべて自然選択によってもたらされた適応的な性質であるとみなすことも適切でない。たとえば、大規模な集団での協力行動に関係していると思われる国家や民族などの集団規範への偏狭的な共感性能力は個人の適応度(生存率や繁殖力)を上げるために進化したわけではではないかもしれない。宗教に対する信仰については、宗教を信じる人の方がそうでない人に比べて、うつ病の罹患率が低かったり(63)、寿命が長いという報告(64)はあるが、宗教を信じる心が適応的かどうかは確かでない。常に論理的な思考や自分の利益になる費用便益的な思考で、人間の行動は支配されているよりも、情動的な反応によって引き起こされている。たとえば、心理実験において、積極的に費用便益的に有利かどううかの判断を促さないと、偏狭的な意志決定がされてしまうという証拠がいくつかある(47)。情動的な反応は、人間同士の相互作用や社会関係の中での適応的な反応として進化した可能性が高いが、その反応は人が様々な場面で非適応的な行動として表れるのかもしれない。
 現在、現世の人間や古代人のゲノム配列を用いることで、数万年前から現在にいたる過程で、自然選択によって頻度を増大あるいは減少させている遺伝子を検出することが可能である。さらにそれ以前では、人間と近縁の霊長類のゲノム配列を比べることで、自然選択を受けた遺伝子を検出できる。しかし、現在の手法では、非常に強い自然選択をうけて進化した遺伝子の検出は可能であるが、弱い選択をうけた遺伝子を検出することは困難である。また、検出された遺伝子の変異の多くは、どのように人間行動や認知機構に関係しているかは解明されていない。今後、選択の検出法の改良や遺伝子が表現型におよぼす効果が解明されることで、過去の人間にどのような自然選択をうけて進化したのかが明らかになると期待できる。

第四節 進化的視点からみた多様性の尊重

4.1.社会を支配する感情と共感性

 ハラリは著書『ホモ・デウス』(65)の中で、2012年の全世界で暴力が原因で死亡したのは62万人(全人口の1%)で 自殺者80万人よりも少なく、殺人は人類に残された主要な問題ではないとしている。殺人が主要な問題でないかどうかは別として、人類の長い歴史からみて殺人が減少していることは確かである。ハラリは、人類が暴力を減らすことができたのは、「人間の内命」を尊重する人間至上主義(ヒューマニズム)によって人間が動かされているからであるとしている。人間至上主義には、自由主義、共産主義、(社会)進化論的人間至上主義の分派があるとしている。ハラリのいう自由主義とは、人間の個人の感情をよりどころにして、判断するというものである。たとえば、殺人がよくないのは、犠牲者やその家族、友人、知人にひどい苦しみを与えることによって、個人の感情を害するからである。個人の感情をもとに「人を殺してはいけない」という規範やルールを設定する。同性愛は当事者の個人的な感情に基づいて行動している結果であり、それを禁止することで、その人の感情は傷ついてしまう。つまり個人の自由を尊重し、権利を保障するという立場につながる。個人の感情や受け止め方が異なり、対立する場合は、より多くの人が共感する方の立場を優先する、いわゆる民主主義の手順を踏む(意見や感情は多様であるため、民主主義の制度は常に問題をはらむことになる)。共産主義によると、個人の意志に従っていたのでは不平等が生じる。そこで、自分の感情に依存するのではなく、自分の行動が他者の経験にどう影響するかに注意を向ける。そのために、社会主義政党や組合といった集団的組織の意見にしたがう。進化論的人間主義は、自然選択の理論に基づいて人間は進化していくのだから、優秀な人間の意見にしたがい、優秀な人間が生き残っていくべきであるとする。
 現在、進化論的人間主義や共産主義、全体主義は脱落し、自由主義が多くの国で基本的な考方となっている(65)。もっとも、最近は、たとえば、トランプ元大統領の主張にみられるように、国や民族のなかだけでの自由主義的理念を享受しようとするポピュリズムの動きなど、自由主義は再び混迷の時代を迎えている(77)。
 ところで、進化論的人間主義は、ダーウィンの自然選択説を人間社会に当てはめたことで、「進化論的」と呼ばれる。しかし、進化がこれら主義思想の形成に関わっているかどうかという観点からすると、自由主義が最も生物進化の結果に依存している。自由主義は、進化の結果として獲得してきた脳神経システムによって生み出された感情に左右されて、人間社会の規範をつくりだしているからである。進化理論や現象から人間社会の「善いか悪いか」という倫理的判断を導くことは間違いであるとする意見がある(私の過去の著書でもそのように記載した[66])。しかし、進化論的人間主義が誤りであるのは、進化理論を人間社会に応用したからではなく、優秀な人や人種を選抜するという考えを多くの人が受け入れ難いからである。
 現在の自由主義は、個人の感情や意志を尊重し、「個人がどう感じるか」という感情を拠り所にしている(65)。殺人は罰するというルールは、多くの人が殺された人に共感できるからである。他人の痛みや感情を予測し、自分の痛みとして共感できる能力が進化してきたことが、自由主義による規範の設定を成り立たせている。現在の人間社会は、生物学的現象から独立したものではなく、進化によって生じてきた感情認知システムがつくりだしたものといえる。一方で、本稿でみてきたように、人間には、感情や性格、考え方に違い(多様性)があり、その違いの少なかなる部分は進化によって生じている。この違いは、他人に対する共感性にも違いがあり、人間共通の規範を設定することの難しさにもつながっていると思われる。

4.2.現代社会が抱える多様性の問題

4.2.1 多様性の尊重と共通の目標
 「多様性の尊重」というスローガンには、様々な人の個性や多様性を生かして社会をよくするという側面と様々な人(人種、民族、移民、障害者、ジェンダー、など)を差別しないという規範がセットになっている。現在、移民の増大による民族主義や国家主義の台頭による人種差別などの問題が顕在化している。実際に、ヨーロッパと北アメリカを対象とした研究では、民族的多様性と、市民参加・公共財供給・信頼などの望まれる方向性とに負の関係があり(67)、また、87の研究結果を総合的に解析した研究(メタ解析)では民族の多様性が高まるほど社会的信頼性は下がることが示されている(68)。一方で、covid-19などの世界的感染症対策や、温暖化や開発による環境問題などを克服し地球規模で持続可能な社会をめざそうとするSDGs(持続可能な開発目標)など、人類全体としての目標を達成する必要が生じてきた。SDGsの目標は、地球上のすべての人が食糧、文化的性格、健康などを享受できるという平等の理念のもと、目標5ではジェンダー平等を目標10では、国内・国外間の不平等をなくす、というゴールが掲げられている。そのような中で国家レベルや地球全体の規模で「多様性の尊重」という規範が必要になってきた。多様性の尊重、差別をなくすという規範の達成には、大多数の人がこの規範に共感し、個人の利益を削っても、達成するという意思が生まれなければならない。
 本稿で議論したように、人間は、元来、協力すべき集団内メンバーを識別する認知行動様式を進化させ、集団外の人を区別し、敵対的に行動することが示されている。現在、集団間の対立状況におかれている人々は、現実的に「差別はよくない」という規範に共感できたとしても、自分の属する集団外の人々を同等に扱うという規範には共感するのは難しいかもしれない。また、差別しないという規範には同意していたとしても、無意識に差別してしまう認知傾向を人間はもっている。また、共感性や協力行動に関わる性質にも遺伝的変異があり、すべての人が共感できるような規範を策定する上での困難さがともなうかもしれない。
 内集団と外集団を区別し、外集団への批判や敵対心をあおることで、集団内メンバーの協力や結束を強めるという人間の性質は、古くから政治的に利用されてきた。ポピュリズムとよばれる政治的立場はその典型である。既存の体制や知識人、異民族や外国人などを敵対することで、民衆という集団に属する人に対して共感を呼びかけるという立場である。特に、理論的な正当性よりも、感情的な共感と敵対を強調することで多くの人を引きつけるとうい手法である。このような政治的手法は、人間の心理的特性をうまく利用しているために、政治的主張が不合理で事実をもとにしていなくても支持されやすくなる。
 国家、民族、あるいは同一宗教を信じている集団の中でも、平等が達成されてきていないことも明白である。多くの人が宗教や民族主義などの「共同主観的虚構」のもとに協力を達成するとき、一部の支配層は利益を独占し、他の大多数の人は、協力しないことへの厳罰と協力したときの精神的報酬(宗教なら神からの救済など)によって集団内の体制を維持してきた。このような不平等に対しては、近代の民主主義国家における法的整備である程度解消できてきたかもしれない。

4.2.2. 多様性をいかす社会をどのように実現するのか
 様々なレベルでの集団内および集団間での多様性を尊重し、差別をなくす、という規範を達成することは、外集団への差別という認知バイアスをどう顕在化させないか、という点を克服しなければいけない。本稿でみたように、人間には、様々な性質に関して違いがある。また、その違いは、人間個々人や集団にとって利益をもたらすような違いとは限らない。そのような多様な違いに関して、人は任意に自分と同じ集団に属する人、属さない人という区別をしてしまう。
 「集団内ひいきと集団外差別」という認知バイアスを軽減して、多様な社会での向社会性の向上や差別の減少を試みる施策が提案されている。神経心理科学的な分析から、外集団のメンバーと常時コンタクトをとれるような状況をつくることで、偏見が減ることが示されている(69)。多様な社会として機能させるためには、向社会的行動が向けられる特定の集団への依存を抑制し、集団に対するアイデンティティを弱める必要性があり、その対策として社会的分化と経済的相互依存が提案さている(67)。社会的分化とは、個人が様々なアイデンティティと役割をもつことで個人化(individualization)を促すことである。前述したように、強い絆で結束した集団に属するほど、「内集団ひいき」が強まり、集団外に対する信頼性が低下する(46)。そのため、親密な関係のある集団を越えて、異なる集団に属する人との接触を促進させる必要がある。生活の様々な機会で、異なる集団に属する人達との接触が増えるような社会システムが重要であるとしている。たとえば、学校や職場、さらには、相互に利益を追求するような経済的場面で、異なる集団のメンバーとの接触を増やすことを提案している(67)。
 このような対策や処置は、ある程度有効な手段かもしれないが、その効果は限定的であるかもしれない。個人が複数の異なる集団へのアイデンティティを持つように促したとき、その複数集団の間で互いに利益が対立しない場合は、差別や多様性の許容につながるかもしれない。しかし、人間は、特定の集団内で深い結束のもと利益を追求しがちである。そのために、自分の属する集団の間で利益が対立した場合、特定の集団への帰属心が高まり、他の集団に対してのアイデンティティが低下し、そのメンバーに対して敵対する可能性は高い。
 これまで人類は、他の生物では不可能な大規模な集団で協力するという能力を獲得したことで、様々な文化、技術や科学的成果を生み出し、文明を発展させてきた。このような科学的成果をもたらした知性や合理的な考え自体も、進化の過程で獲得してきた情動や認知システムに常に影響され続けている。たとえば、現在でも人間は、共感性を高め、幸福感を得ようとする欲求に突き動かされている。SDGsにおいても、持続的な経済発展による幸福感の向上 – これ自体が進化の結果獲得された情動であるが – という人間の欲求を、人類共通に(誰ひとり取り残さないで)享受できることをめざすものである。人間は様々な性質において多様な遺伝的変異を保有し、現在でも変化させている。共感性、協力傾向、幸福感、他人への信頼傾向などの精神的特性も多様性であり、人間共通の目標に対する捉え方は個人によって多様である可能性がある。SDGsの目標の達成を目指すとすれば、このような多様な精神的特性が存在する中で、ヒトのもつ多様性を許容し、共存できる社会を築き、人間共通の目標の達成を目指さなければいけない。
 各地域や地方で、人間の作り出した文化や環境と自然環境の影響を受けながらヒトは進化をしてきた。そのため、人間の様々な性質は、地域や集団間、そして集団内でも多様であり、それは文化的な違いのみならず、遺伝的な違いの反映でもある。地域やローカルな生物多様性を含め、文化や人の考え方を生かした社会を築いていこうとする動きは、その点で理にかなっている。一方で、ローカルを強調しすぎることは、偏狭的な国家主義、保護主義、民族主義と結びつきやすくなる。
  人間のもつ多様性はプラスの面だけではなく、差別や区別を助長し、平等性を困難にしているということも人間の進化の結果であり、避けては通れない問題である。そのような問題を抱えながらも、地球規模の気候変動への対処や、情報・もの・人の国際的な移動によるグローバル化などの世界情勢への対応として、地球全体や人類全体としての解決策の検討が迫られている。しかし、人類全体という集団のすべての人のために行動するという指針は、進化により獲得してきた精神的特性やその多様性とは相容れないものかもしれない。そのような進化の結果として獲得してきた性質に抗って、人間の多様性を許容し、活かせる社会を築いていくためのルールづくりが可能であろうか。非常に困難な課題であるが、できるだけ多くの人が人類共通の課題に向けて、協力的になるような「仕掛け」が必要である。人間に残された時間はあまりないのかもしれない。

おわりに


本稿を執筆するにあたり、田村光平氏、内田亮子氏、長谷川寿一氏に原稿を読んでご意見を頂き、修正点などを指摘していただいた。また、東北大学出版会刊『多様性と異文化理解』の原稿の拡大・修正版のweb上への掲載を許可していただいた、東北大出版会に感謝する。



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