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サッカーのサポーター論と「7つの習慣」(1)「はじめに」。
こんにちは。先日「ぼくとパパ、約束の週末」を見てきました。実話を元に製作されたサッカー映画。どこでも誰にでも愛され続けるサッカー、そしてサッカーにまつわるファンの本質が見えてとても感動してしまいました。
親子ご本人のメッセージ付きティザーを見つけた。
サポーターという生き方。
最近ではなかなかスタジアム観戦ができていないが若い頃からかなりのサッカー狂でした。愛するクラブのためにホーム・アウェイ問わずスタジアムを巡る日々。選手たちと共に泣き、選手たちと共に笑い、心の底から信頼し合える仲間と歌い続ける日常が懐かしい。彼らとは今も同じ志を持っている。
映画の中でも数多く描写されているサッカーのサポーターという生き方は、まさに人間の本性を映し出す鏡のようにも思える。今回から7つの習慣をベースにサポーターという人種が何を考えどう行動しているのか、を明確にしていきたい。なかなか良い表現を見つけられないかもだがご容赦願いたい。
サポーターライフについてはこちらで自伝的小説風に書いているので、理解し難いと思いますが、是非とも読んでいただけたら幸いです。
↓ ここからだと順に読めると思います。
20241205追記
上記の記事は出版に向けて編集中のため非公開といたしました。
自己超越した愛。
さて7つの習慣である。はじめに、から始めてみよう。人が母親の胎内から生まれてくるように、サッカークラブを愛する思いにもスタート地点が必ず存在する。前述の「ぼくパパ」のようなきっかけであっても良いかもしれないし、クラブを愛するという唐突な想いであっても全く構わないだろう。
いずれにせよ、キーワードは愛だ。スティーブン・R・コヴィー博士の言葉を引用するとすればここに集約される。
答えは簡単だ。一人としているわけがない。死の床にあって思うのは、家族や愛する者のことである。人は誰かのために生き、最期はその人たちのことを思うのだ。
「はじめに」私的停滞感 より引用
向き先が人であれサッカークラブであれ、その感情は愛から生まれる。勿論愛の形はそれぞれで、劇中のジェイソンが持つ愛のイメージと、自分自身が持つそれとは違っていてもよい。死の直前にその愛を確かめられるように生きていけるかどうかだ。自己超越した愛あってこそサポーターなのである。
スタート時点の気持ちを思い出す。
例えば自分が持っている仕事という観点に置き換えてみよう。今、その仕事に対し愛をイメージできるか否か。販売しているサービスを愛せているのか否か。そこでまずスタート地点を思い出してみてはどうだろうか。何がきっかけでこの仕事を愛することにしたのか。何がきっかけで愛を失ったのか。
コヴィー博士は7つの習慣の実践を「冒険」と位置づけている。間違いなく仕事におけるスタート地点でもそんな気持ちを全員が等しく持っていたに違いない。例えばサポーターとしての自分自身のスタート地点は、父親の「それでええんか?」だった。まさしく聖書同様に、はじめに、は重要なのだ。
7つの習慣の1ページ目をめくる感覚。
愛は苦しみも生む。娯楽に溢れる現代において、スタジアムでの2時間という拘束時間(移動を含めると更に)は苦痛にも等しい。だけど90分プラスアディショナルタイムの先に見える景色のためにサポーターはスタンドに足を運ぶ。仲間が増え、歌声も上達し、人生の中身が劇的に変わることを望んで。
7つの習慣の1ページ目をめくる感覚に似ている。はじめに、の序文を読んで気持ちの葛藤にも気づくだろう。だがそれがいい。愛があるからこそ人は苦しくなる。それでも前を向いて進めるのは、愛があるからこそとも言える。もし「ぼくパパ」を見る機会があったら、そんなことを思い出してほしい。
最後に。
今回サッカーのサポーター論と7つの習慣を結びつけて考えていくマガジンを作りました。これから少しずつでも書いていければと思っておりますので是非御覧くださいませ。そして、少しでもサポーターに興味を持ってもらって、試合会場に足を運んでみようかなと思ってもらえるとこれ幸いです。
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