ワレワレのモロモロ〜誰のための舞台か〜
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先日,名古屋にて,臨床心理士でもある役者さん水谷悟子さんご出演の舞台「ワレワレのモロモロ」を観劇してきました。
脚本を書いた本人に起こった「ヒドイ目にあったんだ!聞いてくれ!」という出来事を,本人を含めた役者さんたちで上演するという試み。
舞台として,もちろん楽しめたのですが,途中何度か「私は何を見せられているのだろう?」という気持ちにもなる,非常に不思議な舞台でしたので,ここに感想を書いてみます。
内容は4部構成。
そのうち3作が虐待に関する話という,なかなかに重たい舞台でもあります。
一作目,「再々々々々々」は,非常に暴力的な父親に虐待されて育った宮璃アリさんのお話です。
この作品が非常に興味深かったのは,身体的,心理的虐待を受けて育った娘が,自分で描いた脚本の中で,「父親」役を演じていたこと。
つまり舞台の上で,被虐待サバイバーが,「自分」役に暴力を振るう様を演じているんですね。
なので,始まってすぐ,この作品は被虐待者が父の気持ちを知るために演じ,自分に起こった出来事を再解釈するための「赦し」の作品なのかと思ったのですが,全然違いました。
というのも,舞台の上で父の暴力が再現され,「父が娘に暴力を振るう」シーンにおいて,かつて被虐待者だった主役の役者さんは,虐待者である父の動きを演じながらもセリフはト書きのような,ストーリーテラーのようなセリフを述べるんです。他の場面では,父のセリフも言うけれど,暴力を振るう場面では,「父役」として「父のセリフ」や「父の気持ち」は言わないんです。
あくまで、外側から見た父を語りながら、父の動きを行う。
その姿が、非常に印象深く感じました。
つまり,父の気持ちを表現する「実は父も〜〜で辛かったのです」という物語ではない。
父の罪を糾弾する物語でもない(なんと宮璃さんは,年配になるまで父と暮らし,高齢になった父を助けていたようです)。
ただただ,この父に振り回され,大変だった「私たち(一家)」が描かれていくだけで、気持ちは描かれない。
宮璃さんは,結局,父のことをどう思うのか,今自分のことをどう思うのか,感情が見えにくい作品でしたが,おそらくそれはまだ宮璃さんが気持ちについて「考える準備ができていない」のではないかと思います。
ご自身の気持ちや感情を,自分で自分を演じて板に載せてしまったら,おそらく,宮璃さんは平常ではいられない。だからこのような描き方にしかできないのだと感じます。
この観点から「わかりやすかった」のは,2作目の「晴れ舞台」。こちらは,騙されて不倫をしていた女性が,自分を騙した既婚男性や,自分を追求してきたその男性の妻に向けて「復讐している」物語であることがひしひしと伝わってきました。本人が自分役を演じており,一人称視点で描かれた物語であったことも復讐だと感じた理由の一つです。
まさに「ヒドイ目にあったんだ!聞いてくれ!」ですね。
3作目,「身体よ,動け」は,最もセラピーとして機能しているように感じた作品でした。
こちらも親から心理的虐待を受けて育った少女の物語なのですが,主人公「野崎詩乃」さん役は他の役者さんが演じ,野崎さんご自身はその「自分」に語りかけるストーリーテラー,または妖精のような立ち位置で舞台に出演しておられました。
野崎さん役の主人公が,社会や家族に植え付けられた倫理・正しさのせいで,自分の自由な感情を表現できず,親を憎めず苦しんでいる隣で,本人である野崎さんが「私は親が憎い!」と叫ぶ。
それはまさに,過去の自分に起こった出来事を,外在化して,再解釈し,自分の感情に丁寧に気づいていく姿です。
そうして,最後の最後で,野崎さん自身が「今の自分」を演じることで,過去から「今」に繋げていく,そんな作品でした。
さて,4作目が我らが(?)水谷さん脚本,主演の「失恋からはじめるわたしのはじめかた」。
正直,1作目と3作目が,はっきりと分かりやすい虐待であったことに対し,水谷さんの経験は「家庭の親子関係の問題」で済まされてしまう可能性の高い,非常に曖昧な「こころ」の物語であったように感じます。
また,この作品も,2作目と同様水谷さん自身が「自分」を演じており,この作品を板の上に載せるということそのものがやや復讐の意味を持つのかもしれないと感じました。
物語の後半,水谷さんは,親と対峙し「謝ってくれ」と要求します。この時点で,多くの観客には,おそらく親が示すであろう反応はわかっていたのではないでしょうか?少なくとも,私の予想通りの反応ではありました。もう,父も母も予想通りの反応すぎて,やっぱりなという感じ。
この「やっぱり」の感じが,つまり、「本人が自分の視点から見ると大層なこと」が、「外側の他者から見るとある程度予想できること」である感じが、まさにセラピーそのものを見ているような感覚になりました。
加えて、各家庭でそれぞれ事情は異なれど,昔はよくあった教育の方法,親の気持ちという意味で,これは「よくある親子の物語」として,普遍的なテーマなのかもしれない,とも思いました。
これら,4つの作品で,一つの舞台だったのですが,このようにテーマが重たい重たい……観劇後の体感は,4ケースを2週間やった後のような感覚でした。
反面,「私は何を見せられているのだろう?」という感覚にもしばしば襲われました。
悪い意味で言っているのではないのですが,つまり,純粋に「ヒドイ目にあったんだ!聞いてくれ!」という感じが伝わったのは2作目だけで,1作目,3作目と4作目は,特に後半の二つはほとんどご本人のセラピーであるようにも感じたのです。
本来,セラピーは「受ける側」がお金を払いますね?
しかし脚本を書いたその人自身の,セラピーとして機能するものを,本人ではなく観客がお金を払って,見ることの意味はなんだろうか?
舞台の様子を,どうにか言葉に起こそうと思うのですが,どんな言葉を使っても「これだ」と当てはまる感じがしません。
「自分を慰める姿」を観客が見る……ちょっと違います。
「自分を癒す姿」を観客が見る……とも違うんです。
「加害者へは攻撃的な,しかし酷い目に遭った本人にとっては気持ちよさそうな,様子」を観客が見る……言葉を選ぶとこの感じが最も近いように思います。そして,各作品によって,その様子を「観客に伝わるように客観的な描き方をしているもの」と,「一人称視点でとにかく演じている本人が気持ち良さそうなもの」に分かれている……そんな感じでしょうか。
*関係者の方,お読みになってご気分を害されたら大変申し訳ございません。非常に興味深く,人に勧めたいと思う,好きな舞台作品でした。ありがとうございました*
ちなみに観劇後,こちらへ行ってきました。
そう,名古屋といえばこの方。
ご挨拶にうかがったので,もちろんお土産持参。
お会いしたにも関わらず,前日の下山・東畑対談のことと,舞台の感想をちょろっと話し合ったのみという,訳のわからないお時間でしたが,ご挨拶できて本当によかったです。
ありがとうございました!
写真を,二人の共通師匠に送ったら「楽しそうで何より」と返ってきました。
また再会できる日を願って。私ももっと,研鑽に励みます。
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