読書日記: 『コンプルックス』
――なんて酷な造語だろう。
そう思ったのと、手に取ってレジに向かったのは
ほとんど同時のことだったと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーールッキズムに言及する記事になるので、
気になる方や気にしちゃうかもという方は
読むのをお控えいただくか、
別の機会にお読みください。
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今年も半ばのことである。
他者の「いいね欄」が閲覧不可になるという改変のネットニュースがX(旧twitter)上を駆け巡った。
「寂しい」「また改悪」「これで推しグラドルの投稿にもいいねできる」
記事詳細と指先を流れていく賛否様々なコメントを見送ったあと、私はスマホを手に浴槽の中で1人、「助かった」と天を仰いでいた。
めちゃくちゃ見ていたからである。
好きな人のいいね欄を。
なんなんだこの時間。
なにしてるの私。と思いながら。見ていた。
いい大人になって、本来であればそもそも「いいね欄」という言葉すら口に出したくない。
「そんなのあるんだ?」くらいの距離感でいたい。
若い子の文化ってすごいね、私たちのころはmixiでー、とか言って読みかけていた「美的」あたりに目線を戻したい。
でも見ていた。
全然。見まくっていた。
なんなら多分2時間おきくらいにみていた。
寝る前も、起き抜けも見ていた。
朝起きて、株価をチェックして、ニュースをみて
緊急の仕事のメールが来てないか見て
コーヒーを淹れて腰をおちつけて、一息ついてから、それを見ていた。
私がYouTuberだったらここでモーニングルーティン動画に「AM 8:30~ 10分ほどいいね欄をみます」と最悪のアフレコが入る。それくらい習慣であった。
見て、
――見て、落ち込む。
「こういう子が好きなのかー」
「みんなかわいいし綺麗だなーいいなぁ」
「世の中、綺麗な子が多すぎるよ」
持っている株の値動きより、他の国で起こる争いの報道よりずっと揺さぶられる。
世界のことより自分のことだなんて、薄情だなと思わないでもない。でも、そういうときがある。
「もしクレオパトラの鼻がもう少し低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう。」
とはパスカルの言葉だが、そこから歴史に想いを馳せる夜があれば
「そんなことは知ったことではない。私の顔が全体的にもう少しシュッとしていた方が私の世界は毎日は変わっていた。」そう思ってしまう朝もある。
2:8くらいの頻度で、ある。
頻度的にはたしかに薄情であった。
だから「その欄」が見られなくなるのは私にとっては朗報であったし、私がイーロンマスクでもおそらく同じことをしたかもしれない。と思う。自分と、自分と同じことをしてしまうすべての人達のために。
というかイーロンもこの仕様変更の決断、AM3時くらいに下したんじゃないのとすら思う。ベッドの中で気になる子のいいね欄みて、脚バタバタしながら決めたでしょ絶対?
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長らくそんないじけメンタルでいた私は書店でこのタイトルを見たとき、すぐに手に取った。
きっと自分に関係がある本だと思ったから。
「コンプルックス」
クノタチホ/サンマーク出版
こちらの小説の内容を一言で言うと
「自分の容姿に絶望した女性達が不思議な鏡の力で美女の人生を体験し、そのあと自分の人生に戻るかそのまま生きるかの決断をする」物語である。
誤解のないよう、念のため以下に公式のあらすじを引用する。
タイトルと、「ルッキズム小説」という帯の言葉を目にしたときには
「人は見た目じゃないよね」という慰めの物語だと思った。I was born this wayの物語だと。
だから表紙を開くまでは正直
自分の自信のなさをあわよくば肯定してくれないかな、
ひいては自ら傷をなぞって自己憐憫に浸ろうかな、
そして同じ悩みを持った子たちの成長を見て胸を打たれたいな、という期待、というかほぼ欲、のなかで読み始めた。
不意打ちでなく覚悟の上で腰を据えてシンパシーを強く覚える内容、自分にダメージがあるであろう文章を読むのはタイミングさえ間違えなければ荒療治的に、精神衛生にいいものである。と個人的には思っている。
ーーそんな気持ちを胸に開いた本であったが読み終わったあとの感情はしかし、
感動や納得というより「反省」に近く
打たれたのは私の胸ではなく、膝だった。
なかでも私にそう感じさせたのは
1人目の主人公、「祐子」についての物語である。
―—祐子。作中では「ゴリラ顔」と表わされる、容姿に自身のない30歳のネイリストの女性。
そんな祐子が合コンで出会ったのが結婚相手としても申し分ない、いち企業の営業職として真面目に勤める穏やかな好青年、友哉だった。
祐子と友哉の出会いは友達主催の合コン。
ご飯をおいしそうに食べる祐子に友哉が一目ぼれしたそうだ。
外見のせいで合コンをいつも負け戦、自分は引き立て役と決め込んでいる祐子はそこを食事を楽しむ場と割り切ることにしていた。それが功を奏した。
しかし外見に自身のない祐子は、友哉が嬉しそうに語るその理由や誉め言葉を素直に受け取れない。
「外見より中身が大事」という友哉の価値観に、
自分の容姿を否定されている気分になってしまうのだ。
こう悩み続ける祐子は、その気持ちや安心させてくれないことへの不満を彼にぶつける。
結果、結婚に向けて同棲の話まで進めていた友哉にまで「なんでそんなに見た目にこだわるのか」という理由で、愛想をつかされてしまう。
―—―また、愛されなかった。
ルックスで損をしてばかりの人生に、これまで無理やり折り合いをつけてきたはずの劣等感に改めて真正面から向き合わされ、やり場がなくなった祐子は「ブサイクはブサイクのままでは恋愛なんて、結婚なんてできないんだ」と最後の救いを求めて「ナルシスの鏡」の扉をたたく。
――しかし、美しくなった鏡の向こうの世界でも、祐子は同じ捨て台詞で男性に振られてしまう。
そんな彼女が
「綺麗事ではなく、本当に彼にとって外見より中身の方が大事だったのか知りたい。そんなことがあり得るのか。」と相手と正直に対話をすることを始め行きついた真実。それは――
※以下中央寄せ部分、ネタバレ要素ありなので気にならない方だけお読みください※
「友哉は、幼いころから(愛情がゆえの)
強迫性障害により食育に過剰なまでに厳しい
母親に育てられ、
時間、食材、咀嚼、すべてにおいて
がんじがらめの食事ばかりをしてきた。
その結果、自身も学生時代にストレス性の
摂食障害を発症。
だから“美味しくご飯を食べる人”というのが――
毎食、食事の機能的な側面ばかりでなく
“感動”を分かち合える人と居るということが
彼にとって、
なによりも大切であった。」
という、彼の生い立ちと気持ちであった。
「本当は可愛い子のほうがいい」「見た目が一番大事に決まっている」
そう思っているのは、ルッキズム:外見至上主義の差別思考側にいたのは、祐子の方だったのである。
むしろ、そんな一方的な思い込みでくさくさして不機嫌になり食事も楽しめず口をつくのもネガティブな言葉ばかり。思い込みによる不安は、彼女が本来持っていた魅力にまで影を落としていた。
一方の私はというと
序盤の祐子の、安心したい、恋人にだけは可愛いって言われたい、というところまでは
わかる女性はね言われたいよねわかるよ祐子 言ってあげなよ友哉もとビスコをかじりながら、ちょっと男子〜みたいな気持ちで読んでいたが
後半はその威勢のよさが、しりすぼみした。
いやこれ、友哉がかわいそうじゃないの、と。
そう言われてみたら、祐子(ニアイコール私)、テイカーじゃん、と。受け取ることばかり、満たされることばかり考えすぎていないか。
言ってほしい言ってくれないばかりで祐子は最近友哉のこと、褒めた?日常的に感謝は伝えてる?
欲しい言葉をくれないからって拗ねるのも幼い、いやでも、祐子のこの感情には悲しみには確かに覚えがある。
そう戸惑いながらいったん本を置き、自分のこれまでを振り返る。
私は自分に好きと言ってくれた、伝えてくれたひとのその言葉の背景を、想像したことがあったか。
相手がどういうものを美しいと感じるかに、そしてその価値観に至る過去や生い立ちに想いを馳せたことがあったか。
言葉だけではなく相手が自分に向けてくれる表情や声色に、どこまで気を払ったことがあったのか。
思い返していく過程で、これまで人に褒められても「自分はそうは思わないからきっとお世辞だ」と卑屈に受け取ってきた自分のこれまでを恥じた。くれたプレゼントを「私が欲しいのはこれじゃないから」と突っ返すことと同じだ。申し訳なかった。
相手は本当にそう思った、思っていてくれていたかもしれないのに。そうじゃなくても言う、伝えるということは「喜ばせたい」「そう思ってると思っててほしい」という気持ちを含むことがある。
そういうものを、自分にとって真実じゃないから間に受けて違ったら傷つくからと信じないのはあまりに自分本意で排他的だった。
祐子と友哉のやりとりを見て、これからは褒め言葉を素直に「ありがとうございます、嬉しいです!」ってちゃんと、両手を広げて大切に受け取っていきたいと思った。
終盤、そう語る祐子が自分から想いを伝えるため友哉を呼び出した際、久しぶりに会って開口一番、放つ言葉は「お腹すいた」である。
かわいいねーー祐子、あなたはかわいいよ。自信持ってください。
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最後に、
祐子の物語を読んで思い出した女性の話をひとつ。
美女と恋愛と言えばの「源氏物語」に
末摘花という姫君が出てくる。
私は彼女が好きだ。
知る限りの「源氏物語」に登場する女性のなかで
一番好きかも知れない。
「源氏物語で最も醜い恋の相手」とも評される末摘花は、器量が良くないだけでなく、無粋で服装も野暮ったく和歌も苦手である。
夕顔という、理想の容姿で大好きだった女性を失った悲しみの最中にいる光源氏が、その「没落した貴族の娘」という肩書の哀れさに
自分のこと癒してくれそう、今はそういう女性が気分だなあ、
みたいな気持ちで好奇心と興味を引かれた女性。それが彼女。
入りからして既にちょっと、かわいそうである。
それ以上の素性がわからず光源氏が送った和歌にも返事をくれない末摘花。その対応が気に障ったこともあり会いに行くも、彼女の容貌を見て光源氏は落胆する。
「さればよ」(やっぱりそうか)じゃないんだよ。
ひどいよ光源氏。薄々不美人そうだなーから確信に至るの、酷で胸がギュとなる。
そんな末摘花、
和歌を返さなかったのも、才能の不足のせいであった。そでにしたのでも駆け引きでもなく
下手だから、その自覚があるから、「返せなかった」のだ。エーン末摘花。いじらしい。好きだよ。
あまりにもかわいそうな末摘花をみて光源氏はいたたまれなくなり、支援を申し出る。「こんなに見た目も才も悪ければ、自分以外に面倒をみてくれる男がいないだろう。」と。
あまりにかわいそうだから。同情で。憐れみで。そばに居られた。
――しかしこの末摘花、最終的には光源氏の希望により、美女才女に交じり二条東院に招き入れられる。
その決定打となったのが時がたって光源氏が末摘花の面倒を見なくなったあと、存在も忘れかけていた頃のことである。
須磨から京に戻った光源氏が末摘花の住まいに立ち寄ると――これも「近くまで来たから寄ってくか」のテンションであるが――
訪れた先で光源氏は、末摘花が侘しい暮らしのなかまだ光源氏を信じ、待ち続けている姿を目にする。
あんなにも数多の美女達と浮き名を流し思いつく限りのロマンチックな恋愛をしてきた光源氏の胸を、
彼女はどんな裏技も手練手管も巧みな言葉も使わずそのまっすぐなけなげさ、それのみで打ったのだ。
二条東院に入ったあと末摘花は生涯、優雅で幸せな暮らしを送る。
鼻が赤い彼女を少し揶揄して付けた「末摘花」、=「紅花※赤鼻」の名。
しかしまさに万緑叢中紅一点、彼女は彼女にしかない魅力で、光源氏の心を潤びる。
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2024年6月13日以降、果たしてXのいいね欄のタブは予告通り完全に閉鎖された。
ただ自分についたものについては、これまでと変わらず見られるままだ。
どんな投稿にそれが付くか。
それは人によって違う。文章であったり風景の写真であったり、料理であったり深夜の独白であったり映画の感想であったり。
この人は私のここに興味を持ってくれている。
ここは私の魅力である。
自分につくそれが、どういうときは多いのか
ーーSNS上でのそういった反応というのは
あくまで基準のひとつでしかないが
それをわかっておくのは、いいかもしれない。
というかその、タップひとつでできる評価からわかっておくのは、それだけで、そのくらいでいいと思う。
ひとの魅力というのは本人の気づかないところ、あえて投稿しようなんて思いも至らないところに
きっと堂々と、あったりするものだから。