『MIDSOMMER』『沈黙/遠藤周作』『THE MASTER/ポールトーマスアンダーソン』宗教の意義は何だろう。
宗教との付き合い方について考える。
自粛明け、話題のミッドサマーを観た。
LSD的な映像とそのストーリーののっぺり感は常に歯の間に何かが挟まっているような感覚で、ホラー?スリラー?寧ろコメディ?な展開。
A24らしく色彩豊かな映像のホラーで、流行ったのは頷けるが丁度自分が映画に求めている体験とは異なるそれだった。
まあワンスアポンアタイムインハリウッドのリックダルトンばりの炎上とともに迎えるラストは爽快と言え、精神的苦痛から解放されて幸せそうな主人公の笑顔によかったよかった〜とも言えた…
その折、ふと宗教の意義について考えた。
本作での村のしきたりを宗教(カルト)的であると捉えるならば、その役割は"救い"だった。主人公は結果的に、身内の不幸や唯一の拠り所である恋人の裏切りといった精神的苦痛の連続から(不本意ながら?)解放された。裏切り者は慣習に従って処分されたし、不幸な記憶は今後のクイーンとしての村での毎日で不可視化が進むのだろう。
その解放に、他作品と一種の共通点を見出した。
やんわりと頭に浮かんだのが、
ポール・トーマス・アンダーソン監督『THE MASTER』(2012)
(見返したらラミ・マレックがチョイ役で出てた💓)
二次大戦後、精神障害に苦しむフレディは、孤独で空っぽだった。何の仕事をしても何処にいても上手くやれず、迫害された。
(オープニング、砂浜で女体作って皆ふざけてるのに1人ガチマスターベーションしてドン引きしてるシーンでクソ笑う)
そんな中、胡散臭くもカリスマ性を持つカリスマ的理論学者(兼教祖?)のランカスターとひょんなことから出会う。
ランカスターは出版した独自の理論(字幕では逆催眠術と表現されていた。人間は皆未覚醒状態であり、この手法により覚醒状態となり自らの前世を認識できるようになるというデタラメである。)でヒットしているようで、各地を訪れて講演し、若い妻を取っ替え引っ替え、財・富にも満たされている。
だが、事実彼の家族でさえ逆催眠術を信じている者はおらず、彼自身と向き合っている者はいなかった。彼もまた孤独だったのだ。
空っぽなフレディに逆催眠術はよく効いた。結果的に、ランカスターとの親子のごとく絆のきっかけは宗教であった。
"救い"としてのカルトが、ここにもあったのだ。
この映画の本質はフレディが他者に受け入れられ、受け入れるようになる様をPTA監督とレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドのコンビによる映像×音楽の美しさで展開されていく点であるが、そこにカルト的要素が異質に漂っているため、全体として神秘的な作品に仕上がっている。カルト要素は借りてきたようなものではあるのだが、きっかけとなったのには違いない。
『沈黙』著:遠藤周作
2015年に、巨匠マーティン・スコセッシ監督によって公開された『沈黙-サイレンス-』の原作。
天草一揆の後、秀吉統治下におけるキリスト教迫害が浸透する九州にて、師匠フェレイラが廃教したという知らせを受け、ポルトガルの宣教師ロドリゴが布教と師匠廃教の理由の追求を試みる。その中で、宗教全般の永遠のテーマである「神の沈黙」と向き合う。
原作は、宣教師ロドリゴの葛藤が中心となっており、テーマの重厚さが一層際立っている。
また、作中では日本人の性質についても言及されている。(遠藤周作は『海と毒薬』でもこのテーマに触れていたし、関心を寄せていたのだろう。)フェレイラは、当時の日本人の教徒はキリスト教そのものを真に理解していない、理解しようとしていないと批判しており、ここはキリスト教が根付かない沼地だとも述べている。現に、彼等は都合のいい様に徐々に変容させた、"キリスト教のような何か"を信仰していたという。
これは何を意味するのか。彼等が必要としていたのは、キリスト教の教えではなく、日々を生き抜くための希望、"行動の規範"となる教えだったのではないだろうか。
百姓たちは日々働き、貧しい食事を済ませ、眠りにつき、再び働き、何か成し遂げる訳でもなくいつかくたびれて死ぬ。そんな未来を見据えていた者たちにとって、"華々しい殉教"の機会は希望、憧れとして彼等の脳裏をちらついたのかもしれない。(厳しい生活故に、死後の世界に救いを求める所謂"極楽浄土"は流行したと聞いたことがある。)
教徒だけでなく、宣教師ロドリゴは次のように述べる。
『どんな人間でもいい、それが人間であれば追いつきたいという欲望と、それがもたらす危険さとが、しばらくの間、心をくるしめ、結局、誘惑に負けてしまいました。基督(キリスト)でさえ、この誘惑に抗することはできなかった。なぜなら彼は山をおりて人間をもとめられたのだからと私は自分に言いきかせました。』
このように、答え合わせするかのようにロドリゴが自らの行動をイエスと重ねる場面が随所に散りばめられているのである。これではまるでおもちゃを買っていいか母親に確認する幼児ではないか。
「形式上でも、踏めばいいのだ。」
踏絵を拒んだ結果、多くの教徒が残酷な死を遂げる。神の沈黙を嘆いてはならない。自らの行動規範を宗教に一任していることがやはりまずいのだ。自らが下す決定を、どれだけ宗教に委ねるのか、その範囲こそが重要である。
私が好きなSF作家の発言に、次のようなものがある。
『人類の一番の悲劇は、道徳が宗教にハイジャックされたことだ』ーアーサー・C・クラーク(『幼年期の終わり』,『2001年宇宙の旅』原作者)
宗教はやはり人の幸福の救けのために在るべきで、人としての道徳を侵してはならないし、人の死の上に成り立つべきではない。結果ロドリゴは、形式上では廃教したとしてもイエスは許容してくれると解釈し、今後もキリストを胸に秘めるのだろう。
多様な宗教があり解釈も人それぞれだが、それが意識を豊かにし、道徳をハイジャックしていないことを祈る。