やがて言葉になる。
文章を書こうとしていると、何を書けばいいのか、何のために書いているのか、ということを忘れそうになることがある。というか、忘れている。
--そういうとき、だいたい僕はありもしない思い込みを具現化し、「こんな内容がウケそうだ」と考えている。
「考えることだけは」立派で、その思考が自分にとっては間違っていることには気づいていない。自分が何かポジションを獲得したと勘違いしている。
「ただの僕」という人間を離れようとして、「原田透」のような、空想の誰かを作り出しているだけで、そこには誰も存在していない。
文章を読む人も空想で、文章を書く人も空想で、何もかもが頭の中にいる。
僕は焦る。
どうやったらいい文章が書けるんだろう。どうしたら誰かに認めてもらえるんだろう。面白くないテレビが流れて、すでに家族は寝静まっている。
ふいに思う。言葉がどうして存在したのか。
「分割」という意味において、言葉は力強く僕らに意味を与えた。
世界は最初、たぶんひとつだった。自分であるか、自分でないか、ということは、たぶんそこまで重要ではなかった。
例えば、言葉としての「ヒト」が生まれたとする。するとその瞬間、世界は「ヒト」と「ヒト以外」に分けられる。それから猫やきりんや、植物が生まれて、世界はどんどん細かくなっていった。母親の刻むキャベツの千切りよりもはるかに細かく、世界はどんどんカテゴライズされていく。
その一方で、当然コミュニケーションとしての「言葉」がある。
これがあるから、僕らはなんとか今日まで生きていけている。
言葉はコミュニケーションのためにもある。言葉が存在する。
小説だって、映画だって、日記だって、たぶんそれはコミュニケーションにちがいない。
だから、より多くの人に文章が届けばいい。
だから、よりわかりやすく、そして、より強烈な内容でもって描けばいい。
要はインパクトだ。
--そうかもしれない。僕はかつて、難しい言葉を使い、難しそうに、言葉を選んで文章を書いていたことがある。それでは文章は届かない。だからわかりやすくするべきだ、そして強烈なコンテンツを届けるんだ。
文章量を削り、なるべく簡潔に結論まで導こうとした。無駄を削ぎ落とした。無駄なものがあると、人はイライラする。僕もイライラする。
しかし一向に、「いい文章が書けた!」という実感はやってこない。というか、そんな実感など感じたことがない。どこに行けばその景色に出会えるのか、何をすればその鍵が手に入るのか、僕にはさっぱりわからなかった。
そもそも、「いい文章」ってなんだ?誰が決めるんだ?何をもって文章は成り立つんだ?
誰にもそれはわからないけれど、少なくとも僕は文章を書いているように見えて、実はただのゴミを生産しているだけなのかもしれない。
何かを考え、その代謝としてただ言葉が出ているだけで、実はそれ自体には意味はないのかもしれない。じゃあ、僕の周りに置いてある書籍や記事に書いてある、あの流麗で心を中から魅了していくような、あの言葉たちは一体なんなんだ?僕のゴミと何が違うんだ?
僕はしばらく、文章を書くのをやめた。僕が書きたいのは、そんな人の心を動かすものなのに、いつの間にか何か間違ったことを考えていることに気づいた。
--しばらく考えていた。かなり昔の話かもしれない。あまり細かいことは覚えていない。
どうにかしないと頭がおかしくなってしまいそうな、ムズムズとした感触が、生き物のようにそのまま心臓を通って頸椎を這い上がり、そして脳を侵食していく、そんな感覚がしばらくすると蘇ってくる。
僕が文章を書きたい時、それは確かにゴミを出すように、あるいは退廃しきった薬物中毒の患者のように、それをしていないと体が震えだす時なのかもしれない。
それはいたってシンプルで、そして実に動物的であり、当然理性的ではない。
僕が間違っていたのは、きっと人の心を動かそうとしている前に、
「本当にその人にとってよいことなのか?」
ということを考えていなかったことなのだと思う。
それはきっと、高速道路に乗っているときの、信号もなければ合流車線もなかなかなく、車間距離も万全であるがゆえの、油断しきった運転のような。まるで観察力を失っていたのだ。
世界と僕との違いを見つけられていなかった。
あるいは、微かにふれあう指先の感覚に、世界と僕との距離に気づけていなかった。
--扇情的な文章で、人を動かすことだってできる。
僕は臆病だからこそ、文章で全てを解放しているんじゃないのか?
文章くらい正直になれ、文章なんて誰も読まないだろう。誰も読まないくらいのつもりで、鮮烈に叩きこめ。
窓から外を見る。壊れかけた街灯に照らされて、途切れ途切れに景色が見える。たまに強い風が吹いて、隣の窓にかかる雨戸を叩きつける。激しくてうるさい音だった気がする。
それでも僕は、その途切れ途切れの景色から目が離せなかった。
文章を書きながら、あの人のことを思い浮かべる。
「あいつなら、読んでくれるかな。あいつなら、わかってくれるかな」
という、届くはずのない祈りが。
誰かに読んでもらいたいと強く思っていた。誰かというのは、不特定多数の「誰か」ということではない。僕が大切にしている「誰か」であって、それ以外の人に届くのは、目的にしてはいけないのかもしれない。
「あの子が読んでくれたらいいな。あの子がこれを読んで、安心してくれたらうれしいな」
その気持ちだけを文字に乗せて全力で放り投げる。頼む、届いてくれと祈る。届くために全力で考える。そうすると、言葉が生まれてくる。
言葉はコミュニケーションだ。だから僕は、あくまでメタフォリカルに、毎日のように誰かへラブレターを書いているのかもしれない。
まずは大切なあの人を思い浮かべる。その人に喜んでほしい、夢をつかんでほしい、願わくば、幸せになってほしい。そうして僕は目を閉じる。
--僕は誰かに認められたいだけだろう。寂しくて仕方がないんだろう、今までの自分のようにちやほやされて、なんとなく舞い上がっていたいだけなんだろう。
それだけを祈りとして、その浮かび上がる一筋の光へと手を伸ばす。
そして光が、たぶん届かないところにあるのだと伸ばしてはじめて気づく。
でも、それでも届くように手を伸ばす。それはもう、気がついてからやめられることではない。
気づいた時には、僕はもうそこにはいない。そして部屋を離れていく。悪魔のような強い風の音も、もう聞こえなくなった。僕はもう一度目を閉じる。
その祈りとともに、やがて僕は言葉になる。
2020年1月12日
オチのないショートショート.