70年代女性デュオでもどうぞ
はーぼさんの下の記事がなければ思い出さなかった名前、ベッツィ&クリス。
ベッツィさんとクリスさん、ふたりとも生粋のアメリカ人。
そんな彼女たちが、どうして異国の地日本で、しかも日本語でデビューしたのか。
もしや、影の組織に脅されでもしたのか。
そんな興味を抱いて調べてみたが、たいしたことはわからなかった。
サウンズ・オブ・ヤング・ハワイのメンバーとして来日した際にスカウトされたとしか。
サウンズ・オブ・ヤング・ハワイについても、17歳くらいの若者たちの音楽使節団としかわからない。
クリスさんは、2021年に68歳で亡くなられている。
このままでは記事にならないので、せっかくだから1970年台の女性デュオを追ってみよう。
あくまでも僕の記憶に出てくる範囲で。
まずは、シモンズ。
2人とも、サイモン&ガーファンクルのファンで、Simonのローマ字読みにsをつけてグループ名にした。
1971年に「恋人もいないのに」がヒット。
懐かしいチェルシーのCMソングでもお馴染み。
続いて、ピンク・ピクルス。
同志社女子大学出身の2人で結成された。
グループ名は京都の柴漬けにちなんでとか。
1972年の「一人の道」が有名。
1964年の東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得し、その後1968年に自殺した円谷幸吉の遺書をもとに作られた曲。
元々一年限定の予定で、1972年に解散。
その後、ソロになった茶木みやこさんがリリースした「泪橋」は僕の好きな曲。
そして、ザ・リリーズ。
1975年に「好きよキャプテン」が大ヒット。
全国のキャプテンはドキドキした。
同級生に大ファンがいて、たまたま僕の持っていたザ・リリーズのポスターと、当時僕がファンだった林寛子のポスターを交換したことがあった。
今年1月に妹の燕真由美さんが脳腫瘍のため62歳で亡くなられている。
次は、リンリン・ランラン。
香港出身の双子姉妹。
アグネス・チャンに続けということだったのだろうか。
1974に「恋のインディアン人形」がヒット。
そして、お待たせしました。
お待たせしすぎたかもしれません。
ピンクレディー。
1976年の「ペッパー警部」以降、ヒット曲を連発する。
あの欽ちゃん司会のスター誕生出身の2人。
最初はフォークデュオでデビューの予定だったが、おりからのディスコブームにあやかりアップビートの楽曲へと大きくシフト変更。
儲かりさえすれば何でもいいという事務所の姿勢も、ここまで来ると気持ちいいが、それに乗り切った2人もすごい。
もし、そのままフォークデュオでデビューしていたら、あの国民的ヒット曲の「UFO」もなかったのだ。
このピンクレディーをもって、1970年台の女性デュオは頂点を極める。
1980年代は、あみんの登場で幕が開けるのだろうけれども、そこから先はまた今度。
この「また今度」は「また今度、飯でも行きましょう」の「また今度」
察せよ。
この記事を書いた後で、はーぼさんがまたあげられている。
チューインガム。
言われれば、聞いたことがあるなあ。