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『鳴きにこい』 # シロクマ文芸部

紅葉鳥とだけ、彼女らしい小さく丁寧な文字で書かれていた。
テーブルの上の紙切れに、掠れた文字で。
「そろそろ新しいのを買わないとね」
そう彼女と話していたサインペンが、その横に転がっている。
キャップを開けたままにしちゃ駄目じゃないか。
その愚痴の届く先はない。
それに、そのサインペンはもう捨ててしまうのに。
紙切れを手に取りもう一度読む。
たった3文字だ。
読まなくても見える。
こんな紙切れ一枚、風でどこかに飛んで行っていたら、どうするつもりだったんだ。

ワンルームの部屋の風景はあまり変わっていない。
どこかしら地味に感じるのは、彼女の物が無くなった証だろうか。
それでも、お揃いのマグカップや皿はそのままだ。
キッチンの上に申し訳程度に作られた棚に伏せられている。
それは、忘れて行かれたのか、それとも、置いていかれたのか。
彼女が置いて行ったのなら、もう目にしたくはないのだろう。
それとも、それを見て自分の不在を噛み締めろということなのか。
携帯に彼女からのメッセージの知らせ。
開かない。
この部屋の様子以上のメッセージはないだろう。
急に故郷に帰らなくてはならなくなった彼女を理解してやることができなかった。
理解できないままに、その日を迎えた。
これを後悔と言うのだろうか。

夕食をこの部屋でひとりでとるのは何日ぶりだろう。
彼女が帰れない時には、すべて外食で済ませていた。
ひとりで缶ビールを開けるのも久しぶりだ。
そんな久しぶりのことが、これからひとつずつ現れてきて、そのひとつひとつがずっと続いていくのだ。
そして、今感じていることなどは、心に堆積していくものの底深く埋もれてしまう。
紅葉鳥という、彼女らしい言葉もやがて、紅葉の衣装にくるまるようにして、声になることもなく、消えていくに違いない。
どこから。
僕の、そして彼女の記憶から。

ふとクローゼットを開けてみる。
もちろん彼女の衣服はもうない。
それほど多くの服は持っていなかった。
それでも、その空白の部分は大きい。
その空白の中に、何かがぶら下がっている。
忘れられたト音記号のように。
耳当てだ。
しかし、彼女がそんなものを身につけているのは見たことがない。
手に取ると、まだ新しい。
戯れに、頭の後ろから耳に当ててみる。
クローゼットの扉の裏にある小さな鏡を見た。
頭の上に突き出たふたつの小さな、それは耳なのか角なのか。
鹿。
紅葉鳥。
携帯を手に取り、彼女のメッセージを開く。
そこにはたった一行、彼女の故郷の住所。
鹿。
紅葉鳥。
鳴きにこい。
部屋を飛び出した。


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