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箱男は誰か、そんなことより見た方が早い〜映画「箱男」

前衛的、不条理的だからわからないと敬遠する人がいる。
それは多分、こいつはこの作品で何を言いたいのか見てやろうと思うからだ。
そんなはことを考えずに、自然に受け入れてその作品を楽しめばいいのにと思う。
作者に言いたいことがあるとすれば、その作品そのもののはずなのだから。

実際に僕たちは、普段から前衛的、不条理的な作品を楽しんでいる。
サザエさんだって、何十年経っても誰も歳を取らないなんて、どう考えても不条理だ。
でも、僕たちは、あれはアニメだと条件を付けてその不条理を受け入れている。
映画でも、小説でも、SFとかホラーと名が付けば、どんな有り得ない展開でも僕たちは楽しんでいる。
シュールな世界は、僕たちの日常に普段から溢れている。
その延長線として、楽しめばいいのだ。

でも、どうしても「この作者が言いたいことは何か」と考えてしまう人もいる。
そんな人は、こう考えてみてはどうだろうか。
「この作品に対して、自分は何が言えるか」

この「箱男」もそうだ。
難しく構えずに、元カメラマンの男、元モデルの偽看護師、軍医と呼ばれる変態男、その弟子の偽医者、この4人が繰り広げるドタバタ喜劇くらいのつもりで見れば、結構楽しめる。
この箱男、ふなっしー並に身体能力が高いのも面白い。

安部公房の「箱男」を踏まえてはいるが、原作にある「書いているのは誰か」「読んでいるのは誰か」目眩のしそうな、合わせ鏡のような構造は、この映画にはない。
僕の好きなショパンの話も出てこない。
それでも、この映画が原作とは独立した作品として楽しめるのは、脚本と映像と音楽の効果だろう。

何度も流れる言葉。
「箱男を意識するものは、箱男になる」
そう、「箱男とは誰だ」「箱とは何だ」そんな小難しいことを考えていると、自分も箱男になってしまう。
いや、この映画を見ること自体が、すでに箱男を意識している証拠かもしれない。
だから、映画は最後に言う。
「箱男は…」
いや、そこはわかっていても自分で確かめていただこう。
「箱男は〇〇だ」

そうだ、不条理と言うのなら、僕たちが生きていること自体が既に不条理なのだ。
別に、カミュとかを持ち出さなくてもいい。
本来なら、食べて、やって、子孫を残して死んでいくだけでいいはずの一生だ。
それなのに、僕たちは、必要以上に働いて、必要以上に食べて、必要以上にやって、さらには、本を読んだり、泣いたり、笑ったり、こんな映画を見たりしながら、膨大な時間の穴埋めをしていかなくてはならない。
その無駄?に長い時間を繋いでいくのが、言葉だ。
言葉こそが、僕たちがこの世界のどこかに身を潜めて、こっそりとつながり求めていくための覗き穴のようなものなのだ。
事実、この映画でも、箱男に必要なのは、箱ではなくて書くこと、最後はそんな展開になっていく。

そして、今、言葉がいちばん多く集まっているのはどこか。
それは、SNSかもしれない。
そう思って、スマートフォンを眺めてみよう。
このスマートフォンを僕たちは、外から指一本で操作しているが、もはや僕たちはこの薄っぺらい箱の内側から世界を眺めている、そんな気がしてこないだろうか。

映画のエンドロールでは、無数の呼び出し音が流れる。
やはり、箱男とは…。

いやいや、そんなことを考えるくらいなら、見た方が早い。

ところで、余談ですが、今年は安部公房生誕100年。
安部公房って、甲子園球場と同い年だったんですね。
安部公房と高校野球、正反対の匂いがしますけども、「時の崖」ってボクシングの小説もありますから、どうだったんでしょう。

※タイトル画像は「箱男」ホームページより

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