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『この子』

私は夫と犬の、二人と一匹暮らしだ。
これを三人暮らしと言う人もいるし、犬を「この子」と呼ぶ飼い主もいる。
私にはまだ子供はいないが、それを慰めるために飼っているのではない。
犬は犬だ。
そして、ペットはあくまでもペットであって、大体は飼い主よりも先に死に、死ねば新しいペットと取り替えられる。
もちろん可愛いが、それは自分に子供ができて思う可愛いとは違うはずだ。
犬は豆柴だと言われて買って来たが、雑種も結構売られているらしい。
でも、ペットに純血を求める気持ちがわからない。
育てて売り払うつもりならともかく。

犬はどちらか言えば夫に懐いている。
私に歯を剥くようなことはないが、二人並んでいれば夫の膝の上に乗る。
単に大きくて居心地がいいだけかもしれないけれど。
でも、私だけのときにも、呼べば近くに来るが、それ以外は勝手に遊んでいる。
だから、多分夫の方に懐いているのだ。

夫の変化に気がついたのはその時だが、実際にはもっと前からだったのかもしれない。
とにかくその時、その時と言うのは、夕食の後にりんごを剥いて二人で食べていた時、私は夫の異変に気がついた。
夫は、りんごをしゃくしゃくと咀嚼しながら、時々、顎を突き出して口の中のものを、かっかっと移動させているようだった。
それは、犬が、噛み切れないものを食べている時の様子にそっくりだった。
最初は気がつくかどうかくらいの頻度だったが、次第に毎回、朝夕を問わず目につくようになった。

言うべきかどうか、迷いはした。
もし職場で誰かに指摘されるくらいなら、私が言ってやるべきだろう。
でも、なんとなく口にはできなかった。
多分、夫にそれを話した途端に、私は笑い出してしまう。
もっと深刻な話の筈なのに。

それからは早かった。
食卓に私が料理を並べるのを待つ間、後ろ足でぴょんぴょん飛び跳ねた。
もちろん、後ろ足ではなくて、普通の足だが、食卓に手をついて飛び跳ねる姿は、後ろ足と言った方がぴったりだ。
お茶の時間に、冷蔵庫から用意していたショートケーキを出すと、舌を伸ばして、くるくると同じところを回った。
私に呼ばれると上目遣いでこちらを見る。
一緒に散歩に行っても、人がいると近付いて行こうとした。
呼び止めるとすぐに戻ってはくるのだが。

夫の異変に少し遅れて、もうひとつ気がついたことがある。
犬のことだ。
何となく、犬らしさがなくなってきた。
夫の膝に乗ることもなくなった。
餌を出すと以前は、飛んできたものだが、今はそんなことはない。
わかっているのかいないのか、多分わかってはいないのだろうけれどもテレビを真剣に見つめていることもある。
夫の膝に乗ることはなくなったが、夫の椅子に座ることは多くなった。

ある日、私が閉め忘れていた玄関のドアから、夫はするりと外に出て行った。
それっきり、連絡はない。
私は思わず保健所に連絡をしかけていた。
十ヶ月後、私は犬の赤ちゃんを三匹、産んだ。
今は「この子」たちのことで手いっぱいだ。

※この掌編は、実際に僕が妻から言われた「あんたこの頃食べるとき、犬みたいになってるで」と言われたことが元になっています。
もうすぐ僕も、ドアの隙間からするりといなくなるかもしれません。
フィクションがノンフィクションに変わる時です。

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