『誰にも言わない』
変わり始めた時のことはもう思い出せない。
物事の始まりは、いつだってそうだ。
少しずつ、誰にもわからないレースのそよぎから始まっていく。
妻がリビングに隣り合ったキッチンから声をかけてきた。
今から思えば、そのあたりがレースのそよぎだったのかもしれない。
何気ない問いに、当たり障りのない返事を返す。
ついさっき、ほんの数秒前に洗濯物を取り入れてくると2階に上がって行った妻に対して。
もしかすると、2階から降りてきた妻に気づかなかったのだろうか。
多分、そうだ。
そう思っていた。
中二の娘が風呂から出た音が聞こえた。
脱衣場と洗面所が一緒になっている。
娘が洗面所を出れば、歯を磨きに行こうと思っていた。
階段を降りる音がして、娘がリビングに入ってくる。
その時にも、洗面所を出るのに気がつかなかったのだろう。
そう思っていた。
もし誰かに話していたとしても、同じことを言われるのがオチだ。
「お前がぼうっとしていただけじゃないのか」
「そんなことは、よくあるよ、僕にだってさ」
しかし、人に話すのならそれくらいの時に限る。
目に見えないほどのよそぎが、カーテンの大きなはためきになると、もう誰にも話せなくなってしまう。
珍しく平日に休みが取れたので、妻と久しぶりにドライブにでも行こうとなった。
娘が帰ってくるまでに戻れば大丈夫だろう。
娘にそのことを話すと、快く「ごゆっくり」と言ってくれた。
普段は娘よりも早く出勤するので、その日は新鮮だった。
玄関で娘を見送り、手を振ってドアを閉める。
振り向くと、廊下に娘が立っていた。
「忘れ物しちゃって」
娘は、慌てて玄関を出て行った。
車をガレージから出して、妻を呼びに行く。
「もう少しだから」
出かける時は、いつもこうだ。
ため息をついて、車に戻る。
助手席から妻が手を振っている。
この家に何かが起こっているのだろうか。
それとも、何かが起こっているのは、こちらだろうか。
あるいは、妻か娘。
とにかく、このままでも困ることはない。
日常生活を送るのに支障はない。
まだ、誰かに言うほどのことではない。
誰にも言わない。
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