『全体主義の克服』を読む
本日は、マルクス・ガブリエル、中島隆博『全体主義の克服』(集英社新書2020)の読書感想文です。
哲学者の対話
本書は、二人の哲学者の対話をまとめたものです。マルクス・ガブリエル氏(ボン大学教授)には、”『新実在論』の旗手”、中島隆博氏(東京大学東洋文化研究所 教授)には、”中国哲学の脱構築者”という紹介タグが付いています。副題には、”Towards a New Enlightenment”と書かれています。
1980年生まれのガブリエル氏は、今話題の哲学者です。私も個人的に興味を持ち、氏の著作にはこれまでも何冊か目を通しました。本書の中でも、氏が展開している『新実在論』『新実存主義』が解説されている部分があります。ただ、エッセンスはどうにかわかるものの、体系的にはまだ理解できていません。
1964年生まれの中島氏のことは、私がサブスク契約している「テン・ミニッツTV」の講義動画『グローバル時代の資本主義の精神(全6話)』で知りました。この講義は大変面白く、ノートを取りながら勉強しました。「テン・ミニッツTV」では、本書で扱っている「全体主義」に関連した講義動画(全7話)も現在公開中です。
ハーバーマス、ハイデガーへの批判
対話の主要テーマは、タイトルにもなっている「全体主義」です。
そして、哲学はアクチュアルな問題に迫る為に使われるべきである、という考えで両者の意見は一致しています。
ガブリエル氏は、ドイツの世界的に著名で影響力のある哲学者であるハーバーマス(Jürgen Habermas 1962/6/18-)、ハイデガー(Martin Heidegger, 1889/9/26-1976/5/26)に対して、批判的です。特にハイデガーについては、”筋金入りの反ユダヤ主義者”・”本物のナチ”と断言しており、現代に続くネオナチのネットワークを温存させた知的源流という評価をしています。
そもそも私は、ハーバーマス、ハイデガーという知的巨人について、「名前を聞いたことがある」という程度の状態です。それぞれが提唱した理論や思想について圧倒的に知識が不足しているので、ガブリエル氏の主張は正当なのか、判断のしようがありません。しかし、その批判の舌鋒が余りにも激烈で驚きました。
倫理的消費が資本主義を変える
各章がそれぞれに大変興味深いものの、私には難解と感じるところも多く、精緻な読書ノートにまとめあげる自信がありません。どこを掘り下げたらいいのかも困っています。その中で、比較的とっつき易かったのは、「第6章 倫理的消費が資本主義を変える(P183‐206)」でした。
中島氏は、資本主義を支えるのは、投資によって資本を回転させ続ける、というメカニズムである、「差異」が資本主義の基盤であり、差異を生み出して消費するサイクルを永遠に回し続けることが求められる、とし、
と総括しています。かなり納得感のある整理です。ガブリエル氏も同意し、差異の消費、という中身を変えていく必要があるという議論をします。人は差異にお金を払う訳ですが、実際にはそれほど大きな差異がある訳ではないことについて、ガブリエル教授は、
と言っています。
中島教授は、世の中にモノが溢れるようになってモノの機能や性能で差異を生み出すことが難しくなり、モノの資本主義が限界を迎えると、コトの資本主義 ~パッケージ化されプログラム化された出来事、違いがあるように見せる勝負~ にシフトしていったものの、それすら限界を迎えつつあるという評価をしており、倫理的な消費を考えないといけない、という提言をしています。倫理的な消費の対角は無自覚な消費です。このあたりの話は、先日購入したもののまだ読了できていない村上誠典『サステナブル資本主義 5%の「考える消費」が社会を変える』と相通じるものがありそうな気もします。
興味深かったのは、「花」ということばの概念で、中国語の「花」は動詞で「何かを消費する」という意味がある、という話でした。そこから発展して、近代文学の父と言われる魯迅が、資本主義のシステムに抵抗するために唱えた”速やかに朽ちる”という主張が紹介されます。「魯=遅い」「迅=速い」という名前も示唆的だと中島氏は書いています。
中島氏は、「人の資本主義」という研究プロジェクトを推進しています。礼としての消費、ともに人間的になること(human co-becoming)としての人間、といったことばを使っています。ガブリエル氏は、
と言い切っていて、これは個人的に賛成です。誰もが中産階級になれる世界はマルクスの目指した世界です。但し、ガブリエル氏の言っている中産階級は、倫理的な消費を行う中産階級であり、過剰に消費する中産階級を生み出すことには、否定的です。
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