『自由と成長の経済学』を読む❶
本日は、柿埜真吾『自由と成長の経済学』(PHP新書2021)の序章・第1章の読書ノートです。大ベストセラーとなっており、私も大いに共感している斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書2020)と対極の立場から批判する本も読んでおこうという趣旨で手にした本です。
脱成長+コミュニズム と 経済成長+競争的資本主義
斎藤幸平氏が2020年に発表した話題の書『人新世の「資本論」』で提示されている『環境問題への視座=SDGsの嘘』『マルクス主義』『脱成長コミュニズム』に各所から共感と称賛の声が集まっています。斎藤氏のメディアへの露出も増えています。経済成長を進歩の唯一の指標として崇める態度に懐疑の目を向けよ、というメッセージは、私にも深く刺さるものがあります。
本書の著者の柿埜真吾氏は、1987年生まれ(斎藤氏と同い年)で、学習院大学哲学科で学士、同経済学研究科で修士を取得。現在は高崎経済大学非常勤講師の職にあります(本書の著者紹介より)。前日銀副総裁の岩田規久男氏に師事したことが、”おわりに”で示唆されています。
筆者は斎藤氏の本を読んだとき、斎藤氏のご意見には一つとして同意することはできなかった。(P30)
と、『脱成長コミュニズム』に真っ向から反対の立場を採る論者です。
本書は、ある資本主義者による斎藤氏に対する回答である。(P30)
と挑戦状を叩きつけた野心的な本であり、その内容は、私が現時点で未読の『第7章 新しい隷従への道ー『人新世の「資本論」』批判』で存分に展開されているものと推測致します。
現時点の私は、『脱成長』の価値観を好感しているし、『人新世の「資本論」』は、物議を醸す過激な内容を含みながらも、理論的にはよく練られており、予想される批判もあらかた潰しているという印象を持っています。
なので、本書読了前の現段階では、資本主義擁護の立場から、読者に刺さる説得力ある反論を提示するのは難しいのではないか…… 社会主義・共産主義への根強い忌避感や負のレッテルをベースにした情緒的批判になるのではないか…… という先入観・偏見を持っています。
そこで、自分自身で確認・検証をすべく、普段の読み方以上に、丁寧に読み込んでいき、何回かに分けて読書の軌跡をノートに残すことに決めました。柿埜氏は何に批判を加えているのか興味深いです。果たして読了した後に、現在の自分が持っている価値観が覆るのか、楽しみながら読み進めたいと思います。
序章:脱成長というおとぎ話(P11-30)
序章の冒頭には、カール・ポパー(Sir Karl Raimund Popper 1902/7/28-1994/9/17)のことばが引用されています。
柿埜氏は、グローバル化と自由主義経済への不当な弾圧は間違い、という立場であり、
資本主義文明が達成したこれまでの成果は想像もしなかったような素晴らしいものだった。よりよい未来を目指して、資本主義文明のもたらした、開かれた社会への道を引き返すのではなく、さらに進むべきである。(P29)
経済成長を放棄したところで、理想的な状態など決して訪れるはずがない。斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』が提唱するような「脱成長コミュニズム」では、現状の文明を守っていくことは到底できない。(P30)
かつて、オーストリアの経済思想家フリードリッヒ・ハイエク(1889-1992)は、『隷従への道』(1944年)において、社会主義計画経済は必然的に全体主義体制を招くと警告したが、昨今流行している「脱成長コミュニズム」がもたらすものは、その意図に反して、まさしく新たなる隷従への道に他ならない。(P30)
といった主張を唱えておられます。
この序章の中でも、資本主義がこれまでに人類の繁栄に貢献してきた実績データが幾つか提示されてはいるものの、上記のように主張する十分な論証を示していると納得することはできません。私は、柿埜氏が示された成果は肯定するものの、それが「全て資本主義や経済成長という土台のお陰」であるという結論には賛成できません。
以降の章で、「なぜ経済成長・資本主義なのか?」という強力な根拠が示されていくものと期待して読み進めていくことにします。
第一章 経済成長の軌跡(P33-50)
本章で主に語られているのは、経済成長のこれまでの人類の進歩への貢献の証明とそれを可能にした競争的資本主義の礼賛・擁護です。
貧困をなくし、世界を豊かにしてきたのは経済成長であり、経済成長を可能にした資本主義である。(P24)
経済成長が、技術への持続的投資を可能にし、(主に先進諸国に生きる)人類の生活の質向上に寄与してきた、という柿埜氏の主張はおそらく正しいし、斎藤氏も否定しているとは思いません。
ただ、私は「脱成長のコミュニズム」が突き付けている議論はその先にあると思っています。「脱成長コミュニズム」は、資本主義下の経済成長で実現したのと同じ成果が、他の仕組みで、よりよく代替実現できるのではないか? という方向に議論を開こうとしているものだと考えています。
これしかない!的な自信たっぷりな断定調が随所にあります。結論に至るまでの説明をすっ飛ばして、唐突感のある表現があります。
豊かになることは営み、自由なライフスタイルを楽しみたいと考えるのは人間の自然な本性である。(P24)
”豊か”とは?
”自由なライフスタイル”とは?
それは、経済成長や資本主義でないと絶対に実現できないものか?
自然な本性なのか(人工的に生まれたものではないか)?
逆に、経済成長の呪縛と資本主義のルールに縛られて、”豊か”や”自由なライフスタイル”から遠ざかっていないか?
人類のかけがえのない自由、民主主義、人権は、資本主義文明の産物である。(P25)
”自由”とは何か? 自由は広い概念です。自由の呪縛に苦しんでいる人々もいます。20世紀のある時期、民主主義と資本主義双方のプラス面が共鳴し、Win-Winでいられた時代背景があったことを否定したい訳ではありません。それは、現代でも果たして本当に通用するのか? と疑問を感じる人々が「脱成長コミュニズム」という考え方に共感を示しているのだと思います。
経済成長はよいものだ……
技術革新はよいものだ……
民主主義はよいものだ……
自由はよいものだ……
豊かさはいいものだ……
豊かさとはGDPの多寡で計測可能だ……
といったことを当たり前の前提として、主張が展開されていないか? という疑念がわきました。
「脱成長コミュニズムとは、経済成長とそれに連なる副次的効果を、過去をひっくるめて【全否定】する考え方なんだろう」という先入観があり、表層での反論・攻撃になっていないか? 違う土俵で相撲を取ろうとしている感じがしてきます。
思うに「脱成長コミュニズム」の問題意識は、
制限なき経済成長は許容できるのか? ➡ No ➡ どう制限する?
制限なき技術革新は許容できるのか? ➡ No ➡ どう制限する?
果実の分配はフェアか? ➡ No ➡ 果実の適正な分配・共有方法は?
あたりかと思います。
過去の人類の叡智ーそこには、グローバリゼーション・資本主義が貢献したことも否定せずーを、全否定する意図はないです。未来を見据えた場合、今から行動を変える必要がある。現状社会を動かす元凶が、資本主義、グローバリゼーション、経済成長、といった価値観なので、一旦破壊してゼロベースで構築し直そうが、『脱成長コミュニズム』の主張と理解しています。
この章で柿埜氏の強調する経済成長、競争的資本主義のメリットは、肌感覚で理解できます。ただ、『それが「脱成長コミュニズム」が否定される論拠だ、以上。』とされると、釈然とせず、腹落ちまではしなかった、というのが率直な意見です。