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言葉は運命になり、引き際に真価が問われる

 口にする言葉のひとつひとつが運命を決めていってしまう。
 受け取る言葉についても同じで、ことに親しい人との関係において、そう切に思う。 

 どんなときも礼儀や愛をもって言葉を選べる人でありたいと思うとき、衿という人を決まって思い出す。決意が揺らいでしまったときも、必ず。

 繰り返し読んで、頁をめくるときのかんじがやわらかくなってしまった「薔薇の木 琵琶の木 檸檬の木」という本の中に衿がいて、私は彼女を心底好きだと思う。その本には11人の女性が登場し、うち4人を特に好きで、その中に衿がいる。

 衿は、潔さと愛らしさを兼ねそなえる稀有な女性で、奔放なようにも見えるが、その軽やかさは習慣と意思によるものだ。彼女は明るく美しく生きるためにとても努力しているのだと思う。

 恋愛においても、潔く愛する。土屋という男に心底惚れ込んで、「一緒にいまここでこうしているということのほかは、なに一つたいして重要ではない」という。
 土屋が他の人と結婚しているとかそんなことは、衿にとってとるに足りないのだろうと思う。「目に見えるもの、発音された言葉、そういうものだけを信じ」ているから。

 衿の言葉のすべてには、儚さや憂いが含まれないので、土屋は衿の「風通しのよさ」を評価している。でもそれは衿の信念によるものだ。

「夜の雨って大好き」
 土屋は苦笑する。
「大好きなものが多いんだな」
(中略)
 土屋はまるでわかっていない、と衿は思う。大好きなものが多いわけではなく、大好きなものだけを言葉にするように気をつけているのに。

薔薇の木 琵琶の木 檸檬の木

 衿の好きなものはたくさんある。土屋の煙草の灰を落とす仕草、九月という月、灯ともし頃。描写される衿の好きなものすべては、衿の人柄を映す。

 そして何より衿のこういう努力が好き。好きなものだけを口にすること。
 選ぶ言葉が運命になっていくと、衿から学んだ。
 でも、この心がけ、すなわち誠意を土屋はわかっていない。
 読んでいて何度も思う。土屋は、自分の好きな女がどれだけ努めて軽やかに振る舞っているか、まるでわかっていない。

 衿は土屋に惚れ込んでいるから、「わかってくれていない」と感じるとき、それさえもすべて引き受ける、いつもだ。

 わかってほしいことに限って自分が思う100%でなど決して伝わらないのが常で、それにいかに折り合いをつけていくかが問題なのだと思う。
 そして、そのとき冷静でも寛容でもいられないのであれば、美しい引き際を演出するしかその人が素敵に映るために残された道はないのだろうと、衿を知ってから思うようになった。

 衿は最後、意図的に土屋の子どもを妊娠し、土屋の人生からいなくなる決断をする。無論何も要求せずに、黙って。
 土屋とのあいだに完全なものが欲しくても、「大好きな男をつらく」させることが最大の苦痛だから、家庭を持って庭に枇杷の木を植える夢をあきらめる。

 何かを選びとるためには、何かをあきらめなくてはならないのだ。いままでだって大丈夫だったのだし、これからも無論大丈夫にきまっている。すこやかに、手際よくやってみせる。

薔薇の木 琵琶の木 檸檬の木

 引き際が潔く美しいからこそ、衿の魅力的な人となりも、土屋と衿との思い出も、何もかもが守られる。

 だから私はあなたを失わない。

薔薇の木 琵琶の木 檸檬の木 

 書きながら読み返して気づいたけれど、私は衿と同い年になっていた。こんなひとが同じ24歳だなんて信じられない。私はなりたくてもこうはなれないかもしれない。


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