「物理書籍」を愛でる|2021年8月16日~17日の日記
土曜に雨がふってから急に涼しくなった。
夏、終わり? 終わるなら終わるでいいけどさ、なんかこんな終わりかたじゃちょっとさみしくない?
記録によると去年は9月2週めまでは毎日冷房をつけていたらしいから、今年のこの肌寒さはかなり異様に感じる。このあとまたすこし盛りかえすらしいが。
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8月16日 月曜日
お盆休み明け。もともと金土日の三連休の予定だったのを土日月に変更して、さらにきょうはけっきょく午後から出ることにした。お盆休み、たったの2.5連休。悲しいね。仕事のやりくりがうまくいかなかったのはまあ7割くらいは自分の責任だ。
朝起きることだけが人生の苦痛なので、仕事をするのはべつにかまわない。めんどうではあるけど、どうせ気にかかってしまったり時間外労働をしたくなったりするのだから正規に出勤したほうがいい(在宅勤務だからというのもあるけど)。弊社は午前休をとると15時始業になるので、時間まではありスパを聞きながら家事をしたりのんびりしていた。
始業する直前にみくのしんの配信が始まったので仕事のかたわらに見ることにする。
ホラーゲームらしいけどぜんぜんこわくない。そもそもあまり画面をみていないのもあるけど、みくのしんのリアクションで笑ってしまうのでこわさが勝らなくてありがたい。画面にずっとちいちゃいみくのしんがいておもしろかった。
いったん20時前に仕事を切りあげてから、23時から2時すぎまで続きをした。わりと単純作業でねむくなるので、カプリティオチャンネルの動画を見ながらすすめる。効率はさがるけど手を止めずにいればいつか終わる。
ちょうど上がったばかりの動画で、オモコロチャンネルの幽遊白書クイズとかぶっている問題があって笑った。
カプリティオチャンネルの動画、めちゃくちゃあるので延々と見てしまう。なかよしなのはいいことだ。
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ふとあすけんをさかのぼって確認してみたら、3月以来お米を炊いていなかった。さいごに家で炊いたごはんを食べたのは3月17日。冷凍チャーハンなどお米じたいはなんどか食べたけど。
お米を切らしてから、数キロもあるものを買って持ち帰るのがあまりにだるくて後まわしにしているうちに、べつになくてもいいなとなり、買うタイミングを逃しつづけている。炊きたてのごはんをもう5か月も食べていないのか。無印でカレーや魯肉飯をたくさん買ったのに、それも食べられない。
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8月17日 火曜日
ねむい朝。きょうは定時から仕事。すこし遅れて始業した。
お昼休みに、注文していた本3冊がとどいた。
与謝野(藤原 仁)『100日間おなじ商品を買い続けることでコンビニ店員からあだ名をつけられるか。 ビスコをめぐるあたたかで小さな物語』
木下龍也『つむじ風、ここにあります』
岡野大嗣『たやすみなさい』
本、うれしいね~。すこしずつ電子書籍でも読むようになってきたけど、紙の本がやっぱり好き。ジャンルによっては小説でも電子でいいかなと思うものもあるが、詩集や歌集は本で読みたい。余白や装丁、ページをなでる風もふくめてポエジーだから。
『100日間おなじ商品を……』は2020年11月刊行の本で、さいきんになって「やっぱり買おうかな~」と思いはじめていた。藤原さんのオモコロ記事やnoteの日記がとても好きなので、買っても後悔はないように思ったのだ(再三書いているが元来わたしはかなりケチなのでそう簡単にはお金を使わない)。
さらに、ARuFa『超暇つぶし図鑑』や品田遊『名称未設定ファイル』の新刊がどうやらもう手に入らないらしいとわかったときの後悔や悲しさを思うと、公式に買えるうちに買ったほうがいい!と考えるようになり、あとは自分のなかで機が熟すのを待つのみだった。
そんなときに上がったのがこの日記だ。
これね~、みんな読んだ? 読んでね。
めちゃくちゃ笑った。「あ、買いま~す」と思ったもんね。背中を押してくださってありがとう。
送料無料ラインに乗せたかったので、近いうちに買うつもりだった歌集を2冊いっしょにカートに入れた。
『つむじ風、ここにあります』は、オールナイト虚無の常連投稿者だった木下龍也がその真裏(むしろ表か)で制作していた第一歌集で、第二歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』を先に買っていて未読だったので購入。岡野大嗣『たやすみなさい』は、これも第二歌集で、第一歌集『サイレンと犀』がとてもよかったので買った。これでこのおふたりの単著はすべて手元にそろったことになる。
どれも読むのがたのしみだな。本を買うのは気持ちがいい。
22時からSchooで恐山の授業があったので見た。
2回めの配信だったわけだけど、前回よりかなり慣れているようすで(本人は自覚していなかったかもしれないけど)、構成も進行もスムーズでさすがだった。ここさいきんのYoutubeでのひとりしゃべりも功を奏したのかもしれない。
「ただしい人類滅亡計画はどのようにして生まれたのか?」というタイトルだけど、本の具体的な内容にかんする苦労話というよりは【書きたいことをアウトプットするために、どんなかたちが適しているか、どんな方法をとれば続けられるか】という言いかたに一般化できるような話だった。日々なにか書かねばと強迫観念にも似た思いをもつわたしにとっては、自分ごととして聞けてとてもおもしろかった。
前回のようにどこかでチャット実況しながら見るつもりだったけど、それだとどうも気が散るように思って、今回はノートをとってみることにした。
が、けっこうたいへんだった……。そもそもノートをとらせるつもりの話しかたではないので、内容はともかく速度についていけない。手書きってこんなに時間がかかるんだなあ。この感覚をひさしぶりに味わった。
でもわりと集中して聞けてよかったな。これは「無理の石」を置くことで川の流れが変わるようすです。
配信後、黒ウロマガでレジュメ(台本?)が公開された。うれしっ! あとで読もう。
『ただしい人類滅亡計画』はまだ読んでいなくて配信中のコメントで知ったのだけど、すでに誤字が見つかっているらしい。どんな本にも誤りはあるものと頭ではわかっていても職業柄ちょっと胸が痛むし、著者の心中をお察し……と思うけど、「版を重ねると訂正されてしまうから、誤字のある本には愛着がもてる」という旨の発言を目にして、自分にはなかった発想だと思った。
まず直感的に「それは本を作品としてではなく “グッズ” としてみている」という批判的な思いが浮かんだ。本をよりよいかたちで世に出すことを第一義とするとき、誤字はノイズでしかなく望まれる存在ではありえない。著者や編集者、校正者が不備をなくすためにした仕事を軽んじてはいないか。
次に、でもそれはたしかに「紙の本」ならではの味わいであり、「初版マニア」の存在と近接したとらえかたかもしれない、と考えた。インターネットや電子書籍でいくらでも文字が読める時代に、製本という労をとっている「物理書籍」(←レトロニム)を、手にとって読みたい、手元に置きたいと考えることはそれじたい本を “グッズ” 化しているともいえる(自分にもその傾向があるのは認める)。
先日の『ルックバック』(藤本タツキ)のせりふ修正の件で、あんなに多くの人がほとんど同時に読んだ作品の記載がいとも簡単に書き替わるところ(経緯ではなく方法の話)をみて、ああ、出版の現在地はここなんだ、とぼんやり思った。あれは電子書籍ですらないから十把一絡げにはできないにせよ、購入した電子書籍の内容がいつの間にかアップデートされる、のようなことは今後常識になっていくのかもしれない(もしかしていますでにそう? 知らないだけかも)。
そうなれば「物理書籍」はその不完全さゆえに愛されることにもなるだろう。拾いきれなかった誤りから、それが著者の「手仕事」であることを感じる。物語からすこしだけ現実にはみだした一字をながめてほほえむ。
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もうすこしで誕生日、満29歳になるのだということに気づいて、20代最後の1年間は日記を毎日書いてみるのはどうだろう、と思いはじめている。将来のためにいまをすごすべきではないが、10年後の自分がおもしろがれるよう布石を打ってやるのも悪くない気がする。