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📖『東京都同情塔』📖
この本が第170回芥川龍之介賞を受賞したというニュースが出た時、AIを使って書かれた小説が芥川賞を取ったというような言い回しでニュースサイトを騒がせていた記憶がある。中には審査員はAI小説だということを見抜けなかったのか、なんて派手な文言で煽るようなサイトもあったり、なんだか話題性には事欠かなかったように思うので、そのせいもあってこの本は読んでみたいなと思っていたのだが、実際に読んでみれば、なぜそんなニュース記事になってしまったのか、頭を捻るばかりである。おそらく、記者は誰もこの小説を読まずに、AIを使ったという文言だけを見つけて揚げ足を取るようにしてニュースを書いたのだろう。
もちろんこの本には、文章生成AIが登場する。しかしそれは、小説のシーンとして必要な描写であり、むしろAIとは何かを深く問いかけてくるような内容の話でもある。
読み進める中で最も気になったのは、著者が「検閲者」と述べる脳内自主規制システムについてである。私たちはネットにさまざまな情報が晒されるようになってしばらくの年月が経過している。ネット上に一度踊りでた言葉は、どこかで炎上したり、どこかで変質されて大変な様子になったりしかねないし、それは有名人だけではなく、誰にでも起こりうる話なのであることを、もはや知識としてではなく身体で知っている状態ではなかろうか。それが著者のいう「検閲者」なのだろう。
OK、それなら「有識者」で — と、鍵のかかったわたしの頭の中に誰も入れるわけがないのに、オートモードでワードチョイスの検閲機能が忙しなく働く。知らない間に成長を遂げている検閲者の存在に私は疲れを覚え、エネルギーチャージのために急激に数式が欲しくなる。
私たちはこの自己検閲システムに慣れた状態で社会を生き抜いているという事実を、この本は改めて認識させてくれるものだった。もちろん、マナーや思いやりという意味では、脳内検閲システムは古来存在したものだとは思う。人間が社会生活を営む上で、何でも不用意に口にしていいわけではないことは、AIやインターネットがなかった時代も、よく認識されていたはずだ。けれども、インターネットの登場によって、それが加速し、さらに自動的に修正をしてくれるAIが登場することによって、今後この脳内自動修正システムはさらに変化していくのかもしれない。
しかしおそらく実際に文章生成AIを使ってみたことがある人、少しでも遊びでAIに何か文章で問いかけて応えてもらったことがある人なら、何となくイメージが湧くと思うのだが、現状のAIが作った文章は捉えどころがなく、どこか着地点が定まらずにふわふわしているような、それでいて内容は確かに間違ってはいないので何かが疑わしいわけではないのに、どうも胡散臭さを感じるような、表面をなぞっただけの当たり障りのない広告のような匂いを感じることがないだろうか(今後それも変わっていくかもしれないが)。
小説の中で登場人物の一人だる拓人の文にこんな部分がある。
彼女の積み上げる言葉が何かに似ているような気がして記憶を辿ると、それがAIの構築する文章であることに思い当たった。いかにも世の中の人々の平均的な望みを集約させた、かつ批判を最小限に留める模範的回答。平和。平等。尊厳。尊重。共感。共生。質問したそばからスクロールを促してくるせっかちな文字が脳裏に浮かぶ。彼らがポジティヴで貧乏な言葉をまくし立てる様を一度イメージしてしまうと、いくら彼女の声がしていても、すべてがAI-builtの言葉としてしか聞こえなくなった。
明らかにAIの文章とそれ以外、つまりAIを使わずに書いた文章には、何らかの差を感じているというのが、現状なのだと思うのだが、それが一体どんな差なのか、言葉で説明するのは難しく、もどかしく感じる。
しかし拓人がそれを、このように言い当てていた。
あなたも書いているようにあなたの原稿は読み方によってはクソ文と言えるのかもしれないけれど、それでもAIには書けない類の間違いなく人間が書いた文章でそういうふうに僕も僕だけのしるしがついた文章をいつか書けたらいいのにと思う。
人は、誰々さんらしさ、何々らしさというものを、どこから感じ取っているのだろう。
つい先日、新しいお香を買ってみた。大きな店頭で香を試し嗅ぎした時には、良い香だと思ったのだが、家に帰ってお香を炊いてみると、とても違和感を覚えた。もちろん良い香りには違いないのだが、何だか別の人の家に遊びに来たような感覚になったのである。その時、香にも好きな香りや良い香りと感じるもの以外に、自分らしい香りと思えるものとそうでないものがあることを知った。家の中で自分らしいとは思えないけれど良い香りが漂い、違和感を覚える。とても奇妙な体験だった。
文章にも、誰々らしさと言うものが、おそらく存在するはずで、それは言葉にならない何とも言えない絶妙な行間に隠された匂いのようなものなのだけれど、それでも確実にそこに何かの差異が存在する。それはある意味、人が持っている個別の振動のようなものかもしれないと最近は思う。声にして聞いたり、生身の人間と対面したりすれば、それぞれの個性が判別しやすくなるものだが、もしかしたら文章にもそれぞれの声や生身の人が発しているような何か匂いのようなものがあって、それは昨今流行りの言葉で言えば波動であり、個別の振動であるのかもしれないと思う。そしてAIには今のところ波動がない。あるとするならば、AIとしての波動が存在し、それは人固有の何かとは全く異なるものだ。だから人が書いた文章とAIが作った文章の間に微妙な違和感や差異を感じずにはいられない。短い一文だけならバレなくても、長文になってくると、その差はいよいよ感じやすくなってくるようにも思う。
しかしそんなこともAI創成期だからこその話題であって数年もすれば色々変わって解決して、もっと違うことになるのだろうなというのは容易に想像がつく。
AIが生み出したものと、人間だけが生み出せるもの。そこに違いは確実にあると言い切れるのだろうか。
この本の出版社である集英社のページに著者の九段理江さんへのインタビュー記事が掲載されていた。その中の最後、このように述べられている。
小説を書いている時、私は「検閲者」から自由でいられます。何も気にせずただ小説のことだけを考えて書き、編集者が気に入ってくれれば、これでいいんだと安心できます。本当にNGな言葉は校閲の方々が見てくださると信頼しています。
現代において「検閲者」から自由になれると思えることほど、貴重なことはない。本当に問題とされるべきなのは、AIを使うことでも簡単にインターネットで繋がれることでもなく、それらにすっかり影響を受けてしまい思考が狭くなっていることに気がつかないまま、それがどんどん当たり前のことになり、あらゆるものが白でも黒でもないグレーに染まり切ってしまうことではなかろうか。グレーにはグレーの良さもあるかもしれないが、多様だからこその面白さも、私は愛しいと思っている。自分の中にいる「検閲者」から自由になることはとても難しい。けれど、AIに飲み込まれて終わりだなんて、味気なさすぎる。AIに攻め込まれる前にまずは自分の中の「検閲者」を熱心に検閲しなければならない。
で、何となく、またリールをやってみて、前回の反省を活かし、文字はなるべく真ん中に寄せて寄せてと。。。
リール作ってる時は楽しんだけどなあ。。。
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