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誰も指摘しなかった荻上チキさんの大間違い
思わず突っ込んだ「そんなわけないでしょ!」
10月2日のことでした。ラジオを聞いていると、TBSの『荻上チキ・session』番組冒頭で、メインパーソナリティーの荻上さんが、私の住む東京都杉並区の区政についてのニュースにふれました。
自然と耳を傾けた私の耳に入ってきたのは「杉並区が予算の使い方を住民投票に基いて決める試みを始めた」という新聞報道でした(荻上さんは新聞の見出しを読み、記事の内容を要約しながら短いコメントを加えていたのです)。
荻上さんは肯定的かつ好意的な言葉を述べました。
「自分たちが主権者であるという自覚をもてますからね」
これを聞いた私はどひゃっと驚きの声を上げ(心の中で)、「そんなわけないでしょ!」と叫びました(脳内で)。
誤解なさらないでくださいね。
私がびっくらこいたのは、「この施策をどう評価するか」ということとはまったく関係がありません(そもそもこの施策は「主権」とは何の関係もない)。
気づいた人はいなかったのか!?
もっと根本的、より正確に言えば根源的な問題です。この発言が「あり得ない」レベルの酷い大間違いだったからです。
しかし人は誰しも間違いを犯すもの。私なんか言い間違いなどしょっちゅうやらかしています。
政治問題に(もちろん国際政治にも)深く言及されている荻上さんのような方ならば、すぐに訂正なさるかと思ったのですが、何事もなかったかのように番組は進行しました。それでも訂正はどこかで入るだろうと、荻上さんの(というより番組の)良識に寄せた私の期待もむなしく、定刻の9時に番組は終了しました。
問題は荻上さんひとりに止まりません。「発信型ニュースプロジェクト」番組の制作に携わられているスタッフの誰ひとり、発言のトンデモなさに気づかなかったのかと思うと、暗澹(あんたん)たる心持ちがします(冷静に考えると、荻上さんのことより、むしろこのチェック機能のなさのほうが大きな問題かも知れませんが、私は今冷静ではないので、本稿ではこれ以上述べません)。
本稿タイトル「誰も指摘しなかった」は、第一にはこの点によります。
第二には、10月12日に「荻上チキ 主権」で検索をかけてみても、該当する記事がなかった点によります(活字媒体に取り上げられていれば、おそらくネット上にそのことに言及した記事が掲載されます)。
したがって、このタイトルには誤っている可能性があります(私が見つけられなかった公開の場〔たぶんネット上〕で、すでにどなたかが指摘されていた場合、およびすでにどなたかが荻上さん本人に指摘されていた場合)。
そうした事実がありましたら、コメント欄でお知らせください。
すぐに謝って訂正しちゃうから。
荻上さん、これが大間違いです
私は頭痛がしました(この身体症状は実際に起きました)。
翌日には訂正がなされるかと思って、初めからしまいまで聞いてみたのですが、この件については何もふれられませんでした。
何が問題(大問題)だったのか。
私は杉並区民ですが、杉並区の主権者では絶対にありません。
もちろん区長も区議会も主権者ではあり得ません。杉並区には主権などないのです。東京都にも北海道にも沖縄県にも、ひとカケラの主権もありません。そもそも地方自治体に主権などありっこないのです。
主権とは、国家についてのみ存在する概念、国家のみが有するものだからです。
これは確定している用法、常識であって、思想的立場の違いなどによる議論の余地はまったくありません。
主権とはなんだ
私が常用している広辞苑(補訂第二版)を引いてみると、こう出ています。
しゅけん【主権】(sovereignty)①その国家自身の意思によるほか、他の意思に支配されない国家統治の権力。国家構成の要素で、最高・独立・絶対の権力。統治権。②国家の政治のあり方を最終的に決める権利。「国民ーー」
しばしば「無制限の権力」とも解説されます。語源はヨーロッパの政治において「至高性」を意味する用語・概念でした。
「主権」という概念には、そのような最高度の絶対性があるのです。従って、必然的に怖ろしさを胚胎(はいたい)している、と私は思います(さらに言えば現実との矛盾も)。
そんなモノを、都道府県や市区町村すべてがもっていたとしたら、えらいことになってしまいます。
しかしながら、世界には193の国連加盟国が存在します(2023年2月現在)。そのすべてが、ひとつ残らず「最高・独立・絶対の権力」「無制限の権力」をもち、ひしめき合っているのです。北海道より国土面積が狭い国だって当然ありますし、神奈川県より人口の少ない国ならざらにあります。
ですから、世界はすでにどえらいことになっています。
何も今に始まったことではありません。ずっと以前からです。すべての国の揺るぎない主権によって地球上が分割統治されていた時代なんて、ありません。
それでも、私たちは、他国の主権は認め尊重しなければなりませんし、私たちの、日本国の主権は守ろうとしなければならないのです。
荻上さんはこんな発言も
「主権」の語義と直接の関連はないのですが、荻上さんが『session』で
一度ならず述べていた言葉に、ひどく違和感をおぼえてきたものがあります。
ムスリム(イスラム教徒)の女性についての「スカーフの着用を強制されているわけですね」というものです。
いつも明らかに「そのような強制は良くない、〈かぶる/かぶらない〉といったことは自由であるべきだ」というニュアンスで語っていました。
一体どうしてそんな価値観を、上から目線で決めつけられるのでしょうか。
身体のどの部位を〈隠すべき〉とするか(=人目にさらしてはならない、とするか)なんてことは、文化によって異なります。女性が乳房をまったく隠さない文化なんて地球上にいくらだってありましたし、今だってあると思います。そうした文化には、私たちが「下着」と呼んでいるようなモノは、まず存在しません。
荻上さんが非難した(強制されている)「スカーフの着用」(「スカーフ」の他にもいくつもの呼び方があり、形状もひとつに定まっていないのですが、本稿では割愛します)は、髪の毛を隠すこととイコールです。
異文化への無理解は差別につながります!
イスラム教の聖典クァルラーンには、「女性は髪の毛を隠しなさい」とは書いてありません。「身体の美しいところを隠しなさい」と書いてあるだけです。ですから、この言葉〔唯一神の言葉〕にはいくつもの解釈が成り立ち、ムスリム女性の服装もそれに対応してさまざまになっています。
ですが、現在のわが国の女性たちのヘアスタイル(や髪質)への執心ぶりだって、そのことによって自分をより美しく見せられるからです。女性の頭髪を「美しいところ」とするのは男女や居住地を問わず、地球上で広く当然のこととして共有されている感覚です。
それをムスリム女性たちが隠すのは、私たちの社会とは異なる社会の文化として認めるべきです。
荻上さんは「野蛮」という言葉は一度も使ったことがないのですが、私には「野蛮な風習だ」と決めつけているように聞こえます。
それは、その昔南の島々を〝発見〟した白人たちが、腰蓑(こしみの)しか着用していない現地の人たちを「野蛮な土人」と決めつけた感覚と、同じではありませんが、類似性が高く、隔たりは思いの外少ないものです。
ハッキリ申し上げましょう。
その感覚は、差別の濫觴(らんしょう)となり得るものです。
文化による違いを無視した立論はナンセンス
「強制しているから良くない」という論理も私には理解できません
私だって、両親に強制されて育ちました。寿司やおにぎりといった例外を除いて、米飯は手づかみで食べたりしないように。屋内は土足で歩かず、外出時は靴やサンダルを履くことを。いずれも人類に普遍的な文化などではありません。
もちろん、ムスリム女性の「髪を隠す」文化はそれらと同列に語るべきではないことです。そのことは承知しています。
なぜならば、それは広義の性的なことがらであり、羞恥の観念や自己同一性(アイデンティティー)、人としての尊厳と深く関わるものだからです。
人が下着を着用すれば、あたり前のことですが、その身体部位は隠されます。しかし、下着姿は人に見せるものではありません(例外はもちろんあるけど)。よって、頻繁に(と言って良いと思います)絶えることなく報道されている、クズ教師どもによる女子児童生徒の下着姿の盗撮は、言うまでもなく、断じて許されざる卑劣な犯罪です。
しかしながら。
下着というものをもたない文化に生きている人たちには、まったく理解できないに違いありません。
盗撮された被害者の恥辱も、精神的衝撃も、尊厳の損傷も。犯罪者の女児や若い女性の下着姿に対するフェティッシュ(物神崇拝的)な性的興奮も、その卑劣さも罪深さも。
異文化を自分のモノサシで測るのは愚の骨頂
つまり、こういうことです。
広義の性的なことがらについて、何を恥とし、どのように自己同一性(アイデンティティー)をもち、人としての尊厳がいかにして保たれるか(あるいは傷つけられるか)、といった感覚や感情を、人間としてもって生まれた自然なものとして、私たちは生きています。※
しかし、正確に言えば、それらは自然なものではないのです。共有している文化が醸成した人工的なものです(もちろん前提として気候風土に制約され条件づけられてはいます)。それらは一筋縄では行かない複雑な文脈(コンテクスト、もちろんここでは比喩的な意味です)によって織りなされ、重層的でもあります。私たちは文化や共同体の中で、後天的学習によって、それらを共同体の一員として生きるために必要なものとして身に着け、そして自らの血肉とするのです。
広義の性的なことがらについての感覚は、文化によって異なります。それらは、本来理性や論理によって割り切れるものではありません。割り切れると思うのは無根拠な錯覚です。ましてや異文化のそれを、〈正しい/正しくない〉といったモノサシで、測れるはずなどないのです。
※本稿では、自らの自己同一性(アイデンティティー)に悩まれている性的マイノリティーの方々につきましては、除外して述べています(軽んじているわけでは決してありません)。
荻上さんは優れたラジオパーソナリティー
荻上さんはラジオパーソナリティーとして、とても有能な方です。これはまったく反語でも皮肉でもありません。
荻上さんの論理的分析力には、まことに鋭いものがあります。しかし、そう感じることと、私が荻上さんの論旨に納得したり賛同したりするかは、まったく別のことです。世の中には、該博な知識と優れた論理力を兼ね備えながら、〈敵か/味方か〉の二分法思考に陥っているため、意見を異にする人の長所を認めない(て言うか全然見えていない)人が大勢います。note投稿者の方々にも。悲しいことです。
荻上さんの論理的分析力は、もちろん才能あってのことですが、それ以上にこの方の学問的研鑽の所産です。荻上さんは膨大な学術書を読み込んでおられるのです。私は現在41歳の荻上さんより23歳馬齢を重ねていますが、私の学問的研鑽の量など、荻上さんのそれとは比較になりません。だって、生まれてこの方、そんなこと全然したことがなく、したがってゼロなんだもん。
それ以上に、私が「凄いなあ」と敬服してしまうのは、かなり複雑な出来事や論理を、最小限のコンパクトな言葉に要約する能力です(しかも中学生に理解できるくらいの分かりやすさで)。それはいつも、そのまま活字に起こせるくらいに整った〈文章〉になっています。
私にも同じことはできるかも知れません。
ですが、私なら2時間かかるその作業を、荻上さんは360倍の早さ(つまり20秒)でやってのけます。生放送中に。荻上さんは考えると同時に話しているのです。それもきちんとした日本語の完成形で。
私とは、頭脳の回転速度がケタ違いなのです。
荻上さんが「いらないよ」と切り捨てたもの
荻上さんは、エンタメ色の強いカルチャー系ラジオ番組『アフター6ジャンクション』(やはりTBSです)にゲスト出演され、ご自身の「読書」についてのインタビューを受けたことがあります(聞き手はライムスター宇多丸さん)。
そのとき、荻上さんは、こんなことを話されていました。
「海外文学は100パー(=パーセント)読んでいないですね。『ロミオとジュリエット』も読んでいない。映画化も観ていませんし」
荻上さんは『ウェスト・サイド物語』(1961年アメリカ)もご覧になっていないわけです(この映画には、原作者としてシェイクスピアの名がクレジットされています)。
そしてこう言葉を続けられました。
「マルクスも読んでいないですね。現代の学問のほうが進んでいるから。フロイトなども」
どひゃっ。ハラホロヒレハレ。
ちなみに『荻上チキ・session』は「より良い未来の創造」を目指している番組です。
荻上さんは(無意識的にだとは思いますが)「自分は今、最も進んだ場所に立っているので、過去、そして時代遅れの無知蒙昧(むちもうまい)の輩(やから)に学ぶものはなく、この場所からさらに進んだ(より良い)未来を創りたい」と思っておられるのです。
志は良いのですが、前提が間違っています。
私は、こうした考え方が「主権」の誤用を生み、ムスリム女性のスカーフについての無神経な発言を生んだのだと思います。根本原因はひとつです。
こんな夜郎自大(やろうじだい)な根性(私はガクに乏しい人間なのでこういう言葉を平気で使います)は、決して珍しいものでも新しいものでもありません。
欧米人(とりわけ、その知識階層や政治的指導者)たちは、そのように夜郎自大な根性で、自分たちに都合の良い進歩史観を盲信し、異文化や有色人種たちを見下してきたのです。
「真に」知恵を体得するために必要なこと
自然科学の分野だって、ホーキングを理解するためにはアインシュタインのことが分かっていなければなりませんし、アインシュタインを理解するためにはニュートンについて知らねばなりません。
人文的学問分野においては、〈過去を知る〉ことは比較を絶するほどに重要です。
なぜならば、そこで使われる用語や概念のすべては、記されている文を読んだだけでは真の理解を得たことにならないからです。学術的な用語辞典で確認するのは良いことですが、そこに止まっていても表層的で浅い理解しか得られません。
それらの用語や概念の背後には、遠い過去から人々が思索を重ねてきた、多様であり、複合的かつ重層的な(矛盾を含むことも多い)文脈(コンテクスト、ここでは比喩的ではないそのものズバリの意味です)があります。その背後に存在する意味合いを知らねば、真に理解したことにはならないのです。
その意味で、このたび荻上さんは、とても分かりやすい具体例を示してくださいました。
無国家的混乱が生み出した「主権」の概念
「主権」概念の萌芽は、すでに古代ギリシアのアリストテレスに見られると言われていますが、今日のような考え方が形づくられたのは、近世~近代のヨーロッパです。
どうしてその頃にそのような考え方が浮上したのかといえば、皮肉なことに、それ以前の中世ヨーロッパが、主権という概念など、およそ成り立ち得ないほどのカオス的な混乱のきわみにあったからです。
国境線などないに等しく、私たちが知る「国家」の体(てい)を成す統治主体も存在しない、しっちゃかめっちゃかの状態です。どういった状態か具体的に述べると、それだけで一冊の本になってしまうので省略しますが、わが国の戦国乱世の諸国のほうが、はるかに「国家」の体を成していたことは間違いありません(ですから、天下統一がなされると日本はすんなりと中央集権体制に移行できたのです)。
それが近世に移ると、君主(王)の力が強まり、国境線とともに諸国家が次第に形づくられます。ですが君主より下位の封建領主たちは「臣従」に服したわけではなく、いまだ王たちの政権基盤は不安定なものだったのです。方々(ほうぼう)に「飛び地」の領土をもつローマ教皇の存在も、王の権力(王権)と衝突することしばしばでした。
しかし時代の流れは国(≒王による統治)の力を強める方向に向かいました。
そこで王権を最大限に強化(つまり絶対化)するために「王権神授説」が唱えられます。この神とは言う間でもなくキリスト教の神のことです。その頃になるとローマ・カトリック教会の権威は相当に失墜していました。
「主権在民」思想が生まれるまで
王の権力の絶対性を理論的に体系化し、今日も受け継がれている「主権」の概念を作ったのは、フランスのジャン・ボダン(1530~1596)です。
ただし、ボダンの主張は(意外に思われるかも知れませんが)王権の正統性ではなく〈万民にとっての良い統治〉に力点が置かれ、そのために王権の絶対性が必要、としているものでした。
その後イングランドのトマス・ホッブズ(1588~1679)も、国王による主権の絶対性を主張しました。しかし彼の主著『リヴァイアサン』のタイトルは、ゴジラ(バンカーバスター=地中貫通爆弾で殺せる2016年のシン・ゴジラではなく、水爆の直撃を受けて強大化した1954年のファースト・ゴジラ)の100倍も恐ろしい怪物のことで、ホッブズは「国家こそリヴァイアサンである」としています。ホッブズは主権のもつ恐ろしさを知悉(ちしつ)していたのでしょう。
そんなホッブズの論旨には、私には理解しきれない複雑さがあります。
ホッブズは、王の主権が成立する根拠を、王と国民の間で交わされた契約としました。ボダンの理論を発展させたものと言えます。
ホッブズの説を批判的に継承し、さらに発展させたのがフランス(生地は現在のスイス)のジャン・ジャック・ルソー(1712~1778)です。ルソーは国民による「社会契約」を根拠として、今日私たちが共有している国民主権の概念を創始しました。君主主権から180度の転換です。
「主権」はなぜ「最高・独立・絶対」となったのか
以後「主権」に関する学説はさまざまに唱えられ、議論が重ねられてきました。厳密に言えば「主権」の定義は、現在も一義的に確定しているものではありません。しかし、それらの諸説も私がお示しした語義(ボダンが作ったものとほぼ同じ)を前提としています(旧ソ連の「制限主権論」は、元々主権などもたない衛星国に芽生えた自立志向を叩き潰すためにでっち上げられた、実質的には完全な「主権否定論」なので、無視して良いと私は思います)。
「主権」の絶対性は、その概念が形成されるはるか以前の語源(至高性)に端を発し、王権神授説によって輪郭が示され、ボダンが理論的に明確化しました。
その後の理論的発展によって「主権」が神(キリスト教)と離され、「君主のもの」ではなくなっても、「絶対性」は改められることなく、今日まで受け継がれてきたたわけです。以降の近現代の民主主義思想や民族主義の台頭、相次いだ植民地の独立(=新たな主権国家の叢生〔そうせい〕)は、絶対性をむしろ補強しました。
私は、主権の本質は紛れもなく超越的原理(論証不可能なことを正しいとする原理)だと思います。
現在の地球上の諸国民は、ヨーロッパという限定された地域の、(短いものではなくいくつもの段階を経ていますが)特定の時代的条件下に形成された「主権」概念を、あたかも普遍的な自明の理であるかのごとくに共有しています。
現実に、私たちには、そしていずれの国にも、他の選択肢はあり得ないので、そうせざるを得ないのです。
僭越を承知で、ご忠告申し上げます
「主権」概念の形成についてのこうした歴史的経緯を、荻上さんは学んで来られなかったわけです。
これらを踏まえた理解があれば、トンデモな誤用がなされるわけなど、ありっこない。
私はジジイですが、老婆心ながらご忠告申し上げます。優れたラジオパーソナリティーであられる荻上さんに。
どうか謙虚さをおもちください。
歴史(「学問」の歴史とは限りません)、そして異文化(あるいはご自身と異なる価値観)に対する謙虚さを。
人は謙虚であってこそ、より良く学ぶことができるのです。
その学びは確実に、より良い未来につながります。
【附記】
しかし、ですよ。
私自身のことを言ってしまうと、断じて謙虚な人間ではありません。その対義語にバッチリ該当してしまう男です(本文を読了された方にはすでにお分かりのことと思いますが)。
以下は、そんなひどく性格悪い人間の、本文とは無関係なひとり言です(公開の文にふさわしくない下品な表現を含みますので、閲覧ご注意願います)。
荻上さんは『session』の中で、映画などのエンタメについて、嬉々として語られることがあります。
そうした話を聞くたびに、私は心の中でこう毒づいていました。
(けっ、しゃらくせえご託宣、並べてんじゃねえよ)
理由?
小林信彦さんが述べた、この言葉に尽きます。
「古典を知らずに、一体批評ができるものなのか」
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