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【読書】ぐらつく豊臣家の屋台骨~『豊臣仁義 三河雑兵心得(拾四)』(井原忠政)~

「三河雑兵心得」シリーズの最新刊、ようやく図書館での順番が回ってきました。

↑kindle版


今回もいつも同様、時代小説に不慣れな読者でも分かるよう、要所要所で用語説明があるので、分かりやすいです。


聚楽第に、「不老長寿の『楽(たのしみ)』を『聚(あつ)』める『第(やしき)』との願いが込められている』(p.24)とは知りませんでした。


蔵入地とは――大名領の中で、大名宗家の直轄地を指す。通常は代官が置かれて徴税する。反対に、大名領内で家臣に分け与えられた土地は、知行地と呼ばれた。

p.32

ほうほう(←茂兵衛の真似)。


(俺や左馬之助が「知っていて当たり前」という態度をとっていては駄目だら。奴らのところにまで下りていって、噛んで含めるように教え込まにゃ、若い奴は育たんわなァ)

p.58

生徒や若い先生に対し、常々思うことです。とはいえ、どうしても「なんでそういうことをするの!」という苛立ちが先立ってしまいがちですが(苦笑)。


「武士」と「侍」は時代によって定義が異なってくる。戦国時代に生きる茂兵衛たちの感覚では、「武士」には徒士武者や足軽はもちろん、野伏や浪人も含まれた。一方「侍」は武士のうちの上位階級者を指す印象だ。規定があるわけではないが、ざっくり「騎乗の身分」以上を「侍」と認識している。足軽小頭は徒士武者だから、武士であっても侍とは呼べない。

p.74

なるほど、分かりやすいです。


「城の役目も、随分と様変わりしとるからなァ」
茂兵衛が溜息をついた。
ほんのここ十年か十五年で、山城は「武骨で古臭い中世の城」と見なされるようになった。実質的な防御力よりも、見映えと、政庁としての機能性、交通の利便性などが、より重視されるようになってきている。そういう風潮を念頭に置いて、忠世の「小ぢんまりとした小田原城」も語らねばなるまい。

p.83

授業の進め方や教える内容も、まさに「ほんのここ十年か十五年で」様変わりしています。パワポを使うなど、もちろん取り入れるべきことは取り入れますが、同僚の授業内容を見て、「もっと他に、優先して教えるべきことがあるだろうに」と思ってしまうこともあります。


(目は悪くなる。斬り合うと息が上がる。心配性で若い奴らに任せきれない。俺ァもう……爺ィなんだわなァ)
繰り返すが、茂兵衛は再来年に五十歳になる。

p.108

茂兵衛の気持ちがよく分かります。「もう……婆ァなんだわなァ」とまでは思いませんが。


「参議なら、唐名は宰相かァ。宰相様、宰相様、宰相様……間違わんようにせんとなァ」
奥州征伐の頃、氏郷の官職は、まだ左近衛少将だったから、唐名で「亜将様」と呼びかけていたものだ。ちなみに、現在の家康の官職は権大納言で、唐名は亜相である。

p.152

ややこしいなぁ。そのややこしい唐名を、一応把握している茂兵衛がすごいです。そもそも何で唐名で呼びかけなきゃいけないのでしょうね。


備――独立した作戦行動をとり得る基本的な戦術単位を指す。

p.155

ほうほう。


「ま、治部少輔の忠義が『淀君にのみ向けられとる』との読み方もできないことはないわな」

p.164

治部少輔とは石田三成のことで、作中では浅井侍の三成が大久保忠世を通じ、豊臣家内部の情報を徳川に漏らしていたということになっています。フィクションかとは思いますが、実際の三成もそうだとしたら、彼の行動の意味合いが違ってきますね。


上座から秀吉に大声で呼ばれ、慌てて平伏した。金色の見慣れぬ装束を着ている。公卿衆が着る束帯のようにも見えるが、腹といい、肩といい、両袖といい、やたらと大きな円い龍が描いてある。後で聞いた話だが、「こん服」と呼ばれる明国皇帝が着る衣装だそうな。思いはすでに「明国皇帝陛下」なのかも知れない。

p.175

こん服を秀吉が着たとは知りませんでした。そういうことをしてしまうところが、秀吉の品のないところですよね。


現在、秀吉は全国で「太閤検地」を実施中である。各地を巡る検地奉行は各大名に「二公一民の税率」を命じていた。ただ、徳川や毛利、上杉などの大大名の領地には、検地奉行を派遣せず、自主性に任せていたのだ。百姓を無理に絞らず、全盛を敷いていた北条領を受け継ぐ家康は、年貢の税率も「元のままの四公六民」に据え置いている。

p.176

二公一民の税率って、ひどいですね。元は百姓なんだから、絞られる辛さは分かるだろうに、そういうところが嫌です。


茂兵衛には後継ぎがいない。彼が死ねば、植田家三千石は無嗣改易となる。寿美以下、従者小者とその家族まで含めれば、三百人近くの人が路頭に迷うことになるのだ。

p.185

いつの間にか茂兵衛が三百人近くの人を抱えるようになっていたとは。1巻の暴れん坊時代を考えると、隔日の感があります。


茂兵衛には合わなくとも、氏郷には必要な信心なのだろうから、それを腐すのは人として違う。

pp.191-192

氏郷のキリシタン信仰を指しての茂兵衛の思いです。つくづく1巻の茂兵衛を思うと、成長したものだと思います。もっとも茂兵衛は元々、成長の種とでもいうべきものを持っていましたが。


七夕が、竹を飾って庶民が祝う行事となったのは江戸期以降のことだ。この頃はまだ宮中で、技芸上達を祈る祭事が行われる程度にしか浸透していない。

p.244

へー。


秀吉はここ数日、秀次が住んだ聚楽第を徹底的に破壊していた。
「跡形もなく破却せよとの命が下った由にございまする」
忠隣が、主人に遅れぬよう早足で歩きながら耳打ちした。
「なに、跡形もなくだと?」
矢倉や御殿の一部は、普請中の伏見城へと移築されることになる。
「住んだ城まで許せぬほど秀次公が憎いか?」
家康が、歩きながら呟いた。

聚楽第が秀吉によって破壊されたとは知りませんでした。しかしこの時期の秀吉、本当に常軌を逸していますね。


文禄三年(一五九四)の四月、昌幸は豊臣姓と従五位下安房守の官位を正式に受けている。今までの僭称ではなく正真正銘の安房守だ。ちなみに、信之と信繁の兄弟も同年十一月、従五位下伊豆守と従五位下左衛門佐の官位を、豊臣姓とともに受けている。真田家、かなりの厚遇である。

p.253

真田親子って、豊臣姓を受けているんですか。


「豊臣家を支えるべき人材が、誰も彼も死んでいく。そしてその過半は、太閤様御自ら引導を渡しておられるもんなァ」
と、茂兵衛が呆けたように呟いた。
組織とは、英傑一人の才能で機能するものではない。多くの股肱や親族の支えが不可欠なはずだ。今や確実に豊臣家の屋台骨は瘦せ細り、ぐらついている。
(天運は豊家を見限りつつあるのかも知れん)
天下は、惣無事令を振りかざす秀吉の強権下でなんとか治まっているのだ。その秀吉の頸木が力を失えば――
(まさかひょっとして……徳川の出番じゃねェのかァ?)
茂兵衛は、そんなことを考えていた。

pp.262-263

そのまさかなんですよ。


石川五右衛門の釜茹でから始まる陰惨な巻でしたが、いよいよ徳川の世が近づいてきました。でも茂兵衛はまだまだ働かされるんでしょうね。


見出し画像は、伏見城です。作中のものとは、だいぶ違いますが。


↑文庫版



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margrete@高校世界史教員
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