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【読書】ラノベ的時代小説~『長島忠義 北近江合戦心得(二)』(井原忠政)~
「北近江合戦心得」シリーズ第2弾です。
↑kindle版
前巻の時点では気づいていなかったのですが、表紙絵はスカイエマさんだったのですね。ラノベっぽい印象になるので、若者も手に取ってくれると良いですね。字が大きいのも、ラノベ的です。
「三河雑兵心得」シリーズの茂兵衛のように、このシリーズの与一郎もまた足軽からどんどん出世していくのかと思いきや、なかなかその道のりは大変そうです。何せ凶状持ちなので……。
井原さんの小説の読みやすさは、1つには要所要所で時代小説に登場する用語の解説を入れてくれることにあると思います。そういう意味で、歴史小説を読みなれない人も、比較的抵抗なく読めるのではないでしょうか。
畳具足とは、小さく折り畳むことができ、風呂敷一枚で包める簡易な御貸具足である。
小さく折り畳める上、風呂敷一枚で包める具足があるとは知りませんでした。
強飯とは、甑(蒸籠)でよく蒸した玄米を指す。強飯を二日ほど天日で干し、保存性を高めたものが干飯だ。熱湯をかけ、潤びさせるだけで食えるので、非常食や携行食として用いられた。玄米をそのまま煮て食うのが姫飯、空煎りしたものは焼飯と呼ばれた。
ふむふむ。
石田三成が、浅井家の家臣だったとは知りませんでした。三成だけではなく、後の藤堂高虎や片桐且元など、秀吉の家臣には元の浅井家家臣が意外と多いというのも、発見でした。
ちなみに、於弦は与一郎が自分と夫婦になるという約束を破ったと激怒しますが、約束は破ってはいないと思うんですがね。確かめてみましたが、1巻にはこう書かれています。
「小谷城に行って、もしも今後の人生を自分で決められるようなら……」
重ねた手に、力と想いを込めた。
「俺は、必ず敦賀に行く。そなたの元へ戻る」
もちろん、浅井家再興に向けて邁進する道を、「自分で決め」て捨てることも可能ですが、万福丸をあんな形で殺されて、それでも於弦と沿うことは、与一郎にはできないでしょう。於弦が意外と普通の女性のような反応を見せたことは、ちょっと残念でした。まぁ激怒の末、彼女が取った行動は、やはり尋常ではありませんが。
忠義について、今巻でも与一郎は考えています。
浅井家への忠義など忘れ、心のままに生きられたらどんなに楽だろう。でもそれは同時に、与一郎が子供の頃から信じてきた倫理的規範を捨てることでもあるのだ。彼の心は、強く忠義の実現を求めていた。
(そもそも、忠義ってなんや?)
石田佐吉は忠義を「上位者にとって好都合な徳目」と評していた。さらに「秩序を保つための道具」とも形容した。それを聞いた秀吉は、粒金一掴みを石田に与えたそうな。
ちなみに粒金一掴みは、別の場所(p.64)に、現在の価値にして約380万円と書かれていました。
一番疑問に感じることは、本来は徳目であるはずの忠義を実現することにより、与一郎の於弦に対する信義は、地に堕ち、踏みにじられてしまうということだ。徳目が徳目を踏みにじる――そんなことがあるのだろうか。徳目には優先されるべきものと後回しにしてよいものとの間に、価値の優劣があるのだろうか。
与一郎の忠義への認識は、今後変わっていくのでしょうか。
戦国期の一揆には、それ以前の時代の土一揆や徳政一揆、後の時代の百姓一揆と異なる特色があった。他の時代の一揆が「個々具体的な政治的要求の為政者への訴願」であるのに対し、戦後期の一揆は、国一揆にせよ一向一揆にせよ今少し包括的なのだ。広く支配権や自治権などの政治的権力の移譲を求める場合が多かった。前者は請願であり、後者は謀反に近い。
また一揆の主な構成者が、国衆や地侍、坊官(軍事や政事の専門知識をもつ僧侶)であるのも特色で、その戦闘指揮能力は戦国武将のそれに遜色がなかった。
要は、一揆の戦国仕様でもあろうか。
再び、ふむふむ。
息を整えるための「一息入れる」と、体力の回復を待つ「休む」を於弦は厳密に区別していた。一息入れる場合は、腰を下ろさず立ったままで休む。この時、焼飯か煎豆を齧ると具合がいいそうな。体が冷え込む前に歩き始めるのが肝心。一方、休む場合は腰を下ろして座り、冷え込みに備えて火を焚くべきだ。なんなら仮眠をとるのもいい。握り飯や干魚、干肉を食べてきっちり体力が戻るまで休むのが要諦だ。
これ、ハイキングなどの時のために、覚えておこうと思います。ちなみに一息入れる時に「立ったままで休む」と言っても、さすがに木の幹に背もたれします。
甲冑など着ておらず、先端を黒々と焼きしめた竹槍を手に、甲冑代わりに蓑を二重に羽織り菅笠をかぶった農民層が多いことには驚かされた。黒く焼いた竹槍はよく刺さるし、蓑は、槍と矢には無力だが、刀で斬撃された場合は、致命傷回避の可能性がある。
竹槍が意外と武器として使えることには驚きました。かといって、米軍相手には無力だと思いますが。そして蓑も、まったく無意味ではないのですね。
この欲得尽の功利主義は、秀吉が死ぬ四半世紀後まで羽柴家から豊臣家へと引き継がれて延々と続いた。彼の死後、忠義や正義を掲げた頃から、この家はめっきり戦に勝てなくなった。
これ、結構意味深です。
和船の喫水は浅い。不安定に見えるが、船腹に砂利や石を大量に積んで重心を下げ、転覆を防いでいると教えられたそうな。見た感じより、復元力は大分高いのだ。
和船にバラストの知恵が使われていたとは知りませんでした。
取舵は、舳先の方向に十二支の子を置き、酉が位置する方向――つまり「左へ進むように舵を切る」の意である。さらに面舵は、十二支の卯が位置する右手へと進むように舵を切ることを指す。卯舵がなまって面舵となった。
なるほど、そういう意味だったのですね。
関船の推力は艪(ろ)で生み出す。櫂ではなく艪だ。櫂は水を掻く反力を推進力として使うが、艪は揚力で進む。櫂は船の進行方向に沿って前後に動くだけだが、艪は八の字を描くように複雑に動く。ちなみに、艪の方が体力を使わずに効率よく進めるが、上手く漕げるようになるまでには時間と練習が必要だ。
三度、ふむふむ。
天正二年七月二十五日は、新暦に直せば八月十一日に当たる。日の入りは亥の上刻(午後九時頃)だが、
これ、読んだ瞬間に違和感がありました。夏の日の入りが午後9時頃というのは、結構緯度が高いところですよね。長島、つまり今の桑名市ではありえない。今年の桑名市の8月10日頃の日の入りの時間からすると、恐らく「戌の上刻(午後七時頃)」の間違いだと思います。
長島一向一揆の結末は、読んでいて辛かったです。親族を大勢殺されたことを差し引いても、信長のやったことは非道の一言に尽きます。ハマスの奇襲攻撃に激高したイスラエルが、今、ガザ地区で行っていることと重なります。
与一郎にとっての忠義が変わるのか変わらないのか、次巻を読むのが楽しみです。
見出し画像には、「みんなのフォトギャラリー」から具足の写真をお借りいたしました。与一郎がまたこのように立派な具足を着られるようになる日は、まだ先のようですが。
↑文庫版
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