たまたま図書館で目に付き、借りてみました。
もしヒットラーに娘がいたら、という設定で展開される児童文学です。北見葉胡さんの可愛らしい表紙絵が、手に取りやすい雰囲気を醸し出しているとはいえ、自分がヒットラーの子どもだったら、あの惨劇を止められたのかという、非常に重いテーマを持っています。
もちろん歴史にifはないわけですが、仮にヒットラーに娘が、しかも顔にあざがあり、足が少し不自由な娘がいたら、という設定は興味深いです。また、お話を聞いたマークが、次第に自分の頭で考えはじめ、周囲の大人に質問しはじめる過程も良いです。
主人公のマークに、ヒットラーについて質問された時の母親の答えの一部です。つらいに決まっていますが、でも目を背けてはいけないし、テレビで折に触れて放送し続けなければ、本当に知らない人たちが出てきてしまいますよね。
そういう理由の徴兵猶予もあったのですね。
「同じ黄色だから」はともかく、トウモロコシが飼料に使われる理由の1つを説明している気がします。
スクールバスの運転手のラターさんの言葉ですが、現代への警句ですね。
ヒットラーやポル・ポトに子どもがいたと仮定した場合の、マクドナルド先生の答えも、心に留めておくべきです。
ただ私は、「責任はまったくない」という部分には賛同できません。もちろん「罪」については、まったくないと言うべきでしょう。しかし、父親と同じ過ちを犯さない「責任」はあると思います。
マークの思考は、どんどん深まっていきます。
アフリカでの虐殺のニュースをラジオで聞いたマークの反応です。遠い場所で起きたことも、実感を伴って想像できるようになってきたわけです。
想像の中のマークの母親の発言です。「見たり聞いたりするのを避け」てはいけませんよね。少なくとも、避けてばかりいることは、やめねばなりません。そうでないと、「訳者あとがき」にあるように、「ジーンズをはいて現代風のヘアスタイルをしたヒットラーが」「あらわれるかもしれません。あるいは、もうあらわれているのかもしれません」( p.221)。
巻末にある、「鈴木出版の海外児童文学 刊行のことば」が良いです。一部だけ、引用します。
子どもだけではなく、大人にも、あるいは大人にこそ読んでほしい本です。
見出し画像は、ベルリンにある広場です。ここで、ケストナーの著書をはじめ、ナチスが禁書とした本が焼かれました。