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【日記】知的障害者施設の一日体験で「差異」を織る(22.11.25)

 来年、定年を迎える“姉さん女房”のつれあいが定年後を見据えて、県の主催するシニア世代を対象とした「介護に関する入門的研修」を受講するという。「どう、いっしょに行かない?」と誘われ、まだシニアでないわたしでも受講可ということで、何だか夫婦で授業を受けるというのもいいなあと思って、それだけの気分で「行こうか」と答えていた。毎週土曜日の4日間に現場体験を一日以上。二人でお弁当を持って仲良く出かけた。

 じつは堅苦しい教材を講師が壇上で棒読みするような、欠伸の出る類ではないかとひそかに思っていたのだが、さに非ず。連日入れ替わりの講師陣はみなさん現場のスペシャリストで、教材はそっちのけでみずからの豊富な体験談をひたすら熱く、ときに愉快に語ってくれるものだから欠伸をしている間などはなかった。特にこころに残ったのは初日、県内のある知的障害者施設の施設長を務めるKさんの話した、こんな喩え話である。

「目が悪くなっていくと、わたしたちはメガネをかける。メガネがないと困ってしまう」
 これは「社会に参加するための道具である」 車椅子も白杖もスロープも駅のエレベーターも視覚障害者誘導用ブロックも、みなおなじだ。
 ではこれはどうか。


質問) 住んでいる人の9割が「目の見えない人」という町があった。町の住民たちに「あなたが市長になったらどんな条例をつくりたいですか?」と訊ねた。

答え) 「まずは、街中の電気をぜんぶなくします」 

 わたしにはこの話は、まさに「目から鱗」だった。目の見えない9割の多数の総意で町中から電気が撤去され、1割の目の見えるひとたちが暗闇で暮らさなければならないのが、いまの社会の有り様だ。目の見えるわたしたちが1割であったら、老眼になっても眼鏡もない。バリアフリーの「バリア」とは、じつは障害の有無ではなく、マジョリティ(多数者)かマイノリティ(少数者)かの違いに過ぎないのではないか。

 4日間の講義を終えて、現場の一日体験はつれあいと仲良く、当初に設定していたおなじ市内のデイ・サービスの老人介護施設を見せてもらい、終了証をもらったのだけれど、このまま終えてしまうには何か物足りないような気がした。それで後日、わたしだけ追加で初日の講師のKさんが勤める知的障害者施設を、一日体験させてもらうことにしたのだった。

 駅から徒歩20分。かつて古代大王の直轄地であったという集落の間をぶらぶらと歩いてきたところ、ちょうど施設の前で送迎の車が停まって利用者たちが降りているところだった。それらをしばらく見守ってから、入口に入って声をかける。

 Kさんから話を聞いていた女性のスタッフが対応してくれて、施設内を案内してくれた。2階建ての建物は1階に事務所や食堂、ハム・ソーセージの工房、陶芸の作業場などがあり、2階は内職などを行う空間で、洋室や和室などに分かれている。「今日はこの2階で、内職などをいっしょにしてもらいます」 隣接する町の保健福祉施設の1階にはここの事業所で運営する喫茶があり、また道向かいにはさをり織りの工房もあり、一般の人でも体験ができる。

 クロークに荷物を置かせてもらい、部屋の隅で様子を見ていると、迎えの車でやってきた利用者、出勤してきた生活支援のスタッフなど、人が少しづつ増えてくるのだが、困ったことに利用者とスタッフが見極められない。あの人はきっとボランティアで来てるスタッフの人だなと目星をつけて挨拶をすると利用者だったりする。あとで説明するが、この利用者とスタッフの区別がつかない、というのがじつはこの施設の魅力である。

※事業所のホームページから

 全員があつまり、いつ始まっていつ終わったかよく分からないゆるやかな“朝の会”も済み、内職の始まりである。今日はプラスティック製のカーテンフックの組み立て。レール側へ取り付けるフック部品をカーテン側の本体にアジャスターではめ込む。取り付けを終えたものを50個分のマスが書かれた厚紙の上に並べていく。数がきちんと合っているかを確認して、わたしが「ハイ、オッケーです」 続いて足を組み立てたプラスティックの板に50個をフックで架けていく。四段の位置のアジャスターに間違いがないかのチェックで、これも終わったら待っていてくれているのをわたしが確認して「ハイ、オッケーです」

 内職はほかにも柿の葉寿司の函の組み立てや、おもちゃ向けのモーターにカバーを取り付ける作業など、そのときどきに企業から受注したものがいろいろあるらしい。それらはわずかだが、利用者自身の“収入”となる。柿の葉寿司の函やモーターは業者が取りに来てくれるが、このカーテンフックは利用者がみんなで届けに行き、社長さんが受け取ってくれるそうだ。

 じきにお昼の時間になった。女性スタッフに言われて、わたしがボランティアのスタッフと勘違いした利用者のTさんが食堂に案内してくれ、食事の受け取り方などをおしえてくれた。手弁当でもよかったのだが、みんなとおなじように食べたいと思って500円のランチをお願いしていたのだ。メニューは甘辛こってり豆腐、切り干し大根の酢の物、ブロッコリーのツナ和えなど。Tさんといっしょに食べようかと思っていたら、Tさんはちゃっかり若い女性スタッフの隣にすでにすわっている。

当日のメニュー。ちょっと足りませんでした(笑)

 食堂は50人くらいはすわれるスペースだろうか。手弁当をひろげているスタッフもいる。たいていの利用者はじぶんで食べられる人たちだが、介助が必要な人もわずかにいる。わたしの斜め向かいではお盆の上がけっこうな戦闘状態で、食材を飛び散らかせながら孤軍奮闘している利用者がいる。介助の人はなく、近くのスタッフが要所要所だけ手を差し伸べる。窓側の方では車椅子に乗った利用者の横で食事介助をしている若い女性スタッフがいる。相手のペースに合わせなければいけないので、食事介助がいちばん大変だという話を聞いたことがある。根気よく、淡々とスプーンを口元に運んでいる。

 午後からは道向かいのさをり織りの工房を覗きに行った。さをり織りは、こういう事業所ではスタンダードなのだそうだ。番号の付いた織り機がならび、壁いっぱいをさまざまな色の糸を巻いたコーンが埋めている。織り機は一人一台で、じぶんの分が決まっている。「規則正しく均一」なスタイルに囚われないさをり織りは、「差異を織る」から名付けられたそうだ。城みさをさんという方が縦糸を一本抜かして織ってしまった布がきっかけだという。

 「“さをり”とは自分の感じるままに、好きに好きに織る手織り」 「布を織るのではなく、じぶんを織る」 まさにそのように、じぶんの織り機の前にすわった利用者は黙って、だれかと冗談を言いながら、横糸をくぐらせた後で物思いにでも浸るかのように時間を置きながら、じぶんを織り込んでいく。

 織り機のはたのテーブルでくず糸を結んでいるNさんがいた。中年の男性利用者である。作業の過程で出た、色とりどりの10センチほどの糸の端切れがこんもりと山を成している。Nさんはそれを結わえ、ハサミで余分な部分をカットして、つなげていく。こっちにもじぶんが結った糸がたくさんあるんだ、と幾巻きかのコーンを持ってきて見せてくれた。むかし会津の民俗資料館で見たつぎはぎ絣のように、異なる彩りと結び目が味わい深い。捨てていた糸をじぶんが役立たせている、でもこれはこれで、次はどんな色の糸を結ぼうかと考えながらやっていて、それが難しいし楽しいのだ、とNさんは自慢げに言う。Nさんもまた、じぶんという糸を紡いでいるのだった。

 本館に隣接する町の保健福祉施設で、絵本の読み聞かせをするというので、参加希望の利用者たちといっしょに移動した。さをり織り工房から道をわたってくる人、本館から保健福祉施設の裏口を抜けてくる人たちが集まってくる。スタッフが連れてくるというより、自由に動き回っている利用者のあとからスタッフがついてくる感じだ。そして相変わらず、利用者とスタッフの区別がわたしにはつかない。

 読み聞かせをしてくれるのは30代くらいの女性の方で、図書館司書かと思って訊いたら司書ではないが、生駒の方でこうした活動をされているという。一人、部屋に入ってきたときに絵本を三冊、小脇に抱えてきた小柄な女性の利用者がいた。用意された本が半分ほど終わると、彼女は「〇〇ちゃん、読む」と言って立ち上がった。声のトーンが一段あがった、その読み聞かせがじつに上手いのだ。感情がこもっていて、活舌もよく、失礼だが担当の方よりわたしには魅力的な喋りだった。

 たとえば「お爺さんは山へ芝刈りにいきました」という文章を読んだ次には、彼女は必ず「お爺さんは山へ芝刈りにいきましたね~」と聴衆に向けてもういちど繰り返す。聞き入っているたくさんの子どもたちがきっと彼女の目の前にいるのだろう。そうして一冊を読んで、二冊目を読んで、担当の女性が用意した7冊をぜんぶ読んでしまったので、もう一冊、別な本をと言いかけたタイミングを逃さず、彼女はふたたび「〇〇ちゃん、読む」と立ち上がった。手にした三冊の内二冊はすでに読んだので三冊目の本かと誰もが思いきや、「〇〇〇を読みます」とさいしょの一冊目がやっぱりお気に入りのようで、「また、それかー」と周囲から思わず笑いがこぼれたのだった。

 そんなふうに過ごしているうちに、そろそろ利用者を送る時間が近づいてきた。自宅へ帰る人もいれば、近在のグループホームへ帰る人もいて、車での手分けした送迎となる。時間差があるので、残っている人はお喋りをしたりオセロを始めたり、思い思いの時間を過ごしている。このあたりにきて、スタッフの人とも少々ゆっくり話す余裕ができた。

 この事業所にはベトナムから二人、今日は休んでいるがキルギスから一人、若いスタッフが働いているそうだ。ベトナム人の女性スタッフの一人は22歳で、わたしの娘と同い年だった。技能実習生として来日して3年間、長野のプラスティック工場で働き、ことしの夏からもう一人のおなじベトナム人女性と、この事業所に採用された。日本語は難しいとは言うものの、4年目なのでなかなか流暢だ。分からない単語は手元のスマホで調べてすぐに理解してくれる。食堂で車椅子の利用者に寄り添って丁寧な食事介護をしていたのは彼女だった。

 5万円の家賃のアパートを友だちとシェアして、実家へ仕送りもしている。この仕事はとても楽しいと言う。ベトナムにもこのような施設での仕事はあるのかと訊くと、あるけれど、とても少ないそうだ。彼女が「お姉さん」と呼ぶもう一人のベトナム人女性も、それほど歳が離れているわけでもないだろう。六甲ガーデンテラスなどの写真をたくさん、スマホ画面で見せてくれて日本を満喫しているようだ。

 先に日本人スタッフから、言葉はそれほど必要でない、むしろ無駄にしゃべり過ぎないで淡々と介助をこなしていくので、逆に彼女たちから教えられることもある、という話も聞いた。日本の知的障害の利用者を、技能実習生として来日したベトナム人の若いスタッフが介助する風景は、さまざまなことを考えさせてくれる。

 もう一人、日本人の若い女性スタッフは20代半ばくらいだろうか。わたしの娘が障害があり不登校だったという話を聞いて、じつはわたしも、と話してくれた。高校で不登校になって長いこと引きこもっていたのが、たまたま路上で再会したかつての担任の先生から「こんなところもあるよ」と教えられ、福祉の専門学校へ通って、卒業してこの事業所へきて4年目になるという。なにがいちばん大変ですか? と訊くと、「何がタイヘン・・・」としばらく困ったように考えあぐね、結局、愉しいことだらけで、大変なことは何もない、と笑った。長いさなぎの時期を経て、彼女もやはりここに舞い降りてじぶんの糸を紡いでいるのかも知れない。

「差異」とはなんだろう。わたしたちはそれでなにを織るのか。それはわたしたちを差別し、分断するものなのか。それとも反対にわたしたち一人びとりを結びつけるものなのだろうか。

 わたしは娘が障害を背負って生れてきたから、身体的な障害を持つ人たちについては病院などで触れ合うことも多かったが、知的障害者という存在はイメージでしかなかった。数年前の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」での事件には衝撃を受けたが、じぶんのこころの奥底にも「差別のこころ」はあるのだろうと思う。この事業所での一日体験を決めてからも、じつはそうした「秘めたこころ」がむくむくと立ち上がるのではないかと不安であったのだ。

 ところがここへ来て、「差異」は見えなかった。

 車椅子にすわり、頭を前方へ傾いだまま、終日ほとんど動かずにいる男性の利用者がいた。送迎の車を待っている間、「お腹が減ってるだろうからお八つをたべようか」と年配の女性スタッフがその男性利用者に北海道土産の菓子を割って持たせた。わたしは彼の右腕を支えていた。関節に大きな瘤のような膨らみがいくつかあり、とても冷たく、細い腕だった。動きはほとんどなく、ほんとうに食べられるのだろうかと訝しんでいたら、いつの間にか菓子は口にはさまれ、すこしばかり顎が動いたかと思うと、無表情だった彼の顔がほんのささやかに、にやり、とほほ笑んだ。「差異」が消えた瞬間だった。

 あるいはダウン症と思われる似たような顔つきの利用者が幾人かいる。けれど直接ことばを交わしたり、触れ合ったりすると、「ダウン症と思われる似たような顔つき」は忽ち消えてしまう。冗談が好きな愉快な性格の人もいれば、年長者のような落ち着きを持った口数の少ない人もいる。存在自体が外見を意識させなくする。わたしが触れていたのは一人びとりの「存在」であって、「ダウン症と思われる似たような顔つき」はわたしのなかでは、ほとんど意識すらしていなかった。

 生まれつき聴覚障害のある女性利用者は、わたしが「事務所の○○くん」に似てると言って恥ずかしがり、はじめは女性スタッフのうしろに隠れたりした。彼女は部屋の隅から県が発行した手話のハンドブックを持ってきて、これを読めとわたしに差し出した。じっさい、手話ができないと彼女とコミュニケーションをとることは難しいのだ。彼女はときどきやってきて、わたしの年齢を訊き、またなぜかわたしの妻の名を尋ねたりした。そして迎えの車が来ると握手をして恋人のように別れた。

 一日体験は夕方5時までだったが、最後にスタッフだけで“一日の振り返りの会”をするというので、いっしょに残ることにした。利用者がみんな帰った後で話し合われるのは、利用者同士、あるいは利用者とスタッフ間での衝突や、年金受給者の生活費に関するようなシビアな話題である。

 最後に何かひとこと、とスタッフの方々から乞われて、わたしが言ったのは利用者とスタッフの区別がつかないという話だった。「一日ここにいて、わたしは「障害」ということを意識することがありませんでした。ここの前に訪ねた老人介護のデイ・サービスの施設ものんびりした雰囲気でしたが、それでも決められた時間に入浴やマッサージなどのルーティンをこなさなくてはという気持ちが透けて見えた。ここではそうした利用者に「させる」「させなくてはいけない」という空気がなくて、利用者のみなさんはみんな好きなように、思い思いに動き回って、スタッフの方はそのあとをついていく。だから利用者とスタッフの区別がつかない(笑) で、それは結局、利用者にとってここがとてもいい場所だということなんだろうと思います」 もちろん、その背後には“一日の振り返りの会”のような目に見えない、スタッフの人たちの気配りや努力があるわけだが。

 外へ出ると、もう灯ともし頃も疾うにすぎて、すっかり暗かった。「差異」を織るのがさをり。ここにはたしかに、それを織りつづけている人たちがいる。そう思いながら駅までの夜道をあるいた。



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