見れない映画23:作品批評の外③;『ルックバック』(アニメ)作品外短評
・『ルックバック』のこと
藤本タツキ原作、押山清高監督の『ルックバック』を見た。
第7回で脚本の話で「物語」と「表現」の別を考えたのを思い出したのだが、ここではもうはっきりと「表現」とは作品の内側の話で、「物語」とは作品の外であると断言したいと思う。「物語」とは作品の外からやってくる作品への価値づけの欲望である。そこで、作品批評の外について考えるここでほとんど表現の話はしない。
「ルックバック」というタイトルからは二つの物語が読める。いっぽうには才能ある芸大生への病んだ嫉妬を動機とした暴力事件で、長く共作した漫画制作で青春を共にした親友の死への主人公の懐古(悲しみ)と復讐心(怒り)がこめられており、現実の2019年に起きた京都アニメーション放火事件への連想がこの物語への観客の心の鳴動をざわざわと賦活する。もういっぽうで、元ネタであるイギリスのロックバンド・オアシスの楽曲「ドント・ルックバック・イン・アンガー」を背景に、友人の「天才」的な画力に嫉妬して努力を重ねた「秀才」である主人公が、才能ある芸術家への嫉妬から凶行に及んだ犯罪者もまた、「才能のない凡人」という意味では天才よりも秀才に近く隣り合わせるのだが、同情の余地はないにしても、その犯罪行為を必ずしも起きたことへの怒りだけで振り返ってはならない、そうして犯罪を起こすことのない側の凡庸な暮らしと犯人とを即座に断切して切り離すな、という意図が読める。それだけではないが、非常に端的にはそう読める。
・才能のこと
これは才能の話であるのだが、ところで私は「才能」が嫌い、というか才能というものを信じていない。それは要するにそれは「この人は天才だ」という言葉は、言われた側ではなく、それを言う側にとって意味がある言葉だとしか思わないということなのだ。「天才」というのは言うまでもなくある基準でその人がこの上なく卓越しているということなのだけれど、つまりその基準を決める権威の構造というか、ゲームの規則があるわけで、生まれつきある特性を持っている人に、その特性を外から価値付けする、その人工的な価値付けの側に「天才」があって、価値を付与されるその人とか、その特性とかには「才能」がない。それで「才能」とは価値をめぐる人工的なパワーゲームの中にある一つのファクターで、それが天然のもののように装われることで価値を発揮されるものだから、その天然を私は信じていない。
また、才能というのは身体で被る。
私は長く教育に関わる仕事をしているが、本当に頻繁に「『わかる』と『できる』は違う」という話を聞く。つまり問題の仕組みや意図が「わかる」ことと、テストがあってその時間内でそれを解いて回答を作ることが「できる」には差があるということだが、これが所謂「お勉強」だとしばしば無視されている。
スポーツに置き換えるとよくわかる。野球のルールが分かっていても上手にプレーできるわけではない。才能のある野球選手がいれば、ある優れたプレーが「わかる」けれど「できない」ところに才能が機能して、「できなければ」才能はないし、「できて」しまえば才能はあるし、ここで「わかる」はお呼びではない。そういう意味で「できる」才能はいつも身体の問題になる。
私は野球のことはよくわからないけれど、おそらく大谷翔平にはとてつもない野球の才能があるのだろう。しかし野球というゲームがなければ、大谷翔平とてその才能を発揮できない(他のスポーツでも才能が発揮できるかもしれないとかそういう話ではない。野球は喩えである)。そういう意味で大谷翔平がいかに優れた選手でも大谷翔平よりも野球の発明の方が偉い。大谷翔平の価値は野球の価値の内側にある。
前回で、ヴァージル・アブローのことを考えながらデュシャンのことに話題が及ぶときに考えていた創造性とは、野球が上手いことではなく、野球を発明することなのだ。外部と創造性とは、第20回の郡司ぺギオ幸夫の話をしたときに考えていたことだが、天才は決まった価値の中にしかないが、創造はその価値の仕組みの外側からやってくる。
・絵画の才能の話
そこで、上手に絵が描けることに今さら価値があるのか、ということだ。
写真が発明されたのはもう100年以上も前で、今や実物がなくてもAIが上手に抽象画だって描ける時代になった。
例えば、絵が上手に描けるようになることは描かれた絵だけではなく、そのようにものを観察して見る力を養うために、描く本人にとって今でも価値のある行為であり続けるだろう、というような反論も一つとして思いつくのだが、今はその話は置いておいて、『ルックバック』というアニメーション映画を見ていると、いや、上手に絵を描くことに今更価値なんかないでしょう、と思い切って言ってしまいたくなる。
言ってしまいたくなるのが、「絵が上手に描ける」ということは、ここでは秀才と天才の物語を比喩的に語るためにその技術が登場していて、その物語の中で手の届かない天才に憧れて何度も描き、必死に努力することが努力というかただひとつのことにひたむきに打ち込む労働を快楽として描き、労働に意味を与える俗っぽい「才能幻想」が物語から活力を得ているからだ。
もう機械に任せてしまえばいいような労働を人に打ち込ませて、それに価値があるかのように振る舞わせ、エモーショナルな快楽に転換する。私が、「才能」を人工的なフィクションだと見做さなければいけないと思うのは、こういうときで、機械にいろいろなことができるようになったときに、機械にできないことを考えるのが、まあ、非常に単純な創造性の話だとは思うけれど、そうではなくて人間は機械のように働くのが好きだし、そういうふうに自分だけでなくみんなも感じているのねという共感の物語は、「才能」という単純化された価値で生身の人の身体を縛ろうとする軛(くびき)以外のなんでもないと思うからだ。
(一応、言っておくと私はむしろ藤本タツキのファンである。この作家はそういう俗っぽい欲望にまみれた人間のピュアな狡さを描くのが本当にうまくて、『チェンソーマン』にはそれを欲望を生み出す社会装置ごと茶化して壊してしまうダイナミズムがあるのだが、『ルックバック』はそこまで行かない。欲望を誘う物語の内側でほどよく「エモい」話として自己充足したまま収束するところは退屈で、それが「ドント・ルックバック・イン・アンガー」というメッセージを奏でることには、鼻白んでしまう)
・「ただの絵」のこと
じゃあ、どうしろというのか。
才能があるとかないとか関係なく、意味のない努力をしろと、辛いが私は誰に薦めるでもなくそう思うし、それは努力ではない。
「努力をするのも才能のうち」ということを言う人がたまにいて、それはいかにも才能のない人の言い方でまたげんなりするのだが、私が言いたいのは非常に単純にはそういうことで、ちょっと違うのは、努力する人は才能がないという意味でも才能に囚われていないという意味での才能とは無縁だから、「才能のうち」ということは結局ない。
才能の外にある「ただの作品」は既存の価値付けを免れて、価値の荒野にぽつんとある。理念的にはそういうことを考える。いろんなところから価値付けの基準が迫ってきて、「価値がない」という価値付け(最近ではPV数のような数値)まで含めてできた作品も、それを作る手も価値から逃れられないが、そこでいまだにデュシャンのようなものに創造性を感じて、ヴァージル・アブローの取組みに敬意を表したいと思わせるのが、彼らが作品の外で広義の批評性によってとりくむ創造の戦略とは、「価値」と「作品」とが既存の価値の体系の外にセットでぽろん、と生まれてくる仕組みだからだ。これができればすごいけど、できるかどうかではなくて、まあやってみようとする。それ自体が価値観についての自治の取り組みである。「才能」を離れて、手元の「ただの作品」を守ろうとすること。これだけが創造性だと思う。
表現の話を少しだけ。
藤野の4コマ漫画をアニメにして動かしたのはいけなかった、と思う。あれは漫画に出てくる漫画として、ある種の写実なのだ。漫画の中に書かれた漫画は、絵の中にある絵であり、そこに物語やキャラクターを読む必要はなく、「ただの線と模様」がそこにある。そういうふうに見做せるときに(写実性によって上手な絵と意味付けられた京本のそれではなく)藤本の下手な漫画に「ただの絵」としての創造性が宿る。
私がウェブ上に出回った「ルックバック」の原作に初めて感動したのは藤本タツキのそういう創造性だった。
(今後の話に戻すと、私がここでしたい、自分の興味のない「作品批評の外」の話というのは物語の話であるから、「才能」のような新しい価値はどのように発明できるのか、という戦略を本当は考えてみたい)