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活動経歴(2022/02/03 時点)

◎小説◎ ●「猫を読む」がゲンロンSF新人賞東浩紀賞を受賞 ●ゲンロンSF創作講座で書いた小説 「いずれ助詞系女子」 「ナンバー・オブ・マイ・ルート」 「与えられた三〇年」 ●「Sci-fire2019」に「四つ目の心」を寄稿させていただきました。 ◎批評◎ 映画批評が中心になります。 ●批評誌「エクリヲ」の編集部員として雑誌編集や企画の運営に関わっています。連載企画「新時代の映像作家たち」では映画監督へのインタビューと、とりあげた新作映画のレビュアーとして

    • 見れない映画22:作品批評の外②;ヴァージル・アブローの素人

      ・97%の累乗でツッコミ続ける常識に3%のボケをかまし続けること 作品の外には何があるのか。 デザインが固有の作品ではないというのではないけれど。本には装丁があり、映画や演劇や音楽には劇場があり、配信メディアにはプラットフォームがある。だから世を出回る作品という中身=コンテンツにはその外側を包装し、生身の人間の手に渡るのを媒介する外枠の、外枠としてのコミュニケーションのデザイン(設計)がある。(といってアーキテクチャの批評などということはもう20年も前から言われているし

      • 見れない映画21:作品批評の外①;映画批評地図の素描

        1.映画の感想嫌いのこと 他人の映画の感想を聞くといやな思いをすることが多いのだが、半年くらい前にわけあって、ある一本の新作公開映画の感想をSNSやらレビューサイトやらレビュー記事やら、ネット上で見つかるものを手当たり次第読み漁っていた。 やらなければいいのだが、それでやって面白いこともあって、なにがそんなにいやなんやろう、と考えること自体はむしろ面白くてまだ考えているこれに意義はあり、これは「作品受容の外」にはなにがあるのかという話になる。 他人の映画の感想を聞いて、い

        • 見れない映画20:笑と天然知能

          ・読み合わせのこと 10年ぶりくらいに自分で書いた台本を俳優さんと読み合わせをする機会があった。 強く実感したのはギャグ、というかネタっぽいセリフを読んでもらってもあまり面白くないということで、地道な掛け合いが積まれて話がずれていくほうがずっと面白い。 俳優は別にお笑い芸人ではないので、それがある種、劇であり、台詞であり、「読む」ということだと思った。反対に言えば、ギャグではない、ネタではない、演芸ではないということでもあると思った。 詩は散文の中にある、と言ったのは確

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          見れない映画19:柴崎友香①

          ・豚汁のこと 調べたレシピで豚汁を作る。 鍋にだしパックと浄水650mlを入れて沸騰させる。 具は豚肉、にんじん、ごぼう、里芋、れんこん。 こう書いてしまうとまずにんじんから触らなければならない気がしてくるけれど、最初に触るのは里芋である。目的に沿って、作業の手順を順番に並べかえるのを暗算のように頭の中だけでやるのは苦手で、書いて頭の外に出してやるべきことを一度忘れ、書いた内容に身体を沿わせてひたすら受け身にしておかなければ、なにもできないのが「私」だ。 里芋を耐熱皿に乗

          見れない映画19:柴崎友香①

          五十嵐耕平監督『SUPER HAPPY FOREVER』短評

          (ネタバレあり) ⑴ 「偶然の一致。っていうかシンクロニシティ」。 役名も定かでない一人の女性出演者のその一言で、映画があまりにもあっけらかんと物語上のテーマも演出上のモチーフも種明かしをしてしまった瞬間、私は先にあった一つのシーンについては、やはりそうだったか、と思い出してもう一度、心を強く揺さぶられ、それからその後に続くもう一つのシーンでは、見ながら、聞きながらこらえきれず涙を流して嗚咽してしまった。 優れた三部構成の本作において、常に意味もなくばらばらになろうとする

          五十嵐耕平監督『SUPER HAPPY FOREVER』短評

          見れない映画18:二(三)つの『四十日と四十夜のメルヘン

          0.契機 前回読んでいた、町屋良平「私の小説」所収「私の大江」の続きで、青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』(以下、『四十日…』)を読む。 『私の大江』で、「他者」としての社会性を持たず小説家としてデビューした町屋は社会の代わりに「数多のフィクション作品」から「私の言葉」を培ったと告白するのだが、その「数多のフィクション」の例として、未整理の「2000年代の日本文学の世界文学的業績」を自身を小説家たらしめた糧として挙げているのだが、更に私がこの小説を読み終えた3日後に書

          見れない映画18:二(三)つの『四十日と四十夜のメルヘン

          見れない映画17:論破③

          ・特技をやめること 自殺相談者を論破するという坂口恭平の「いのっちの電話」であるが、電話を受けるにあたっていくつか条件を設けているという。 以上が斎藤環によるまとめだ。本書ではそれから、 ・(やる気が出なくなるから)相手と直接会わない ・金銭をもらわない。 という条件も登場する。さらにまとめると、 嫌な人とは会わない、疲れたら休む、直接会わない、脅しや悪意に応じない、お金のやりとりはしない、といったところだろうか。 つまり、自分の生活を、自分の事業を自治していく

          見れない映画17:論破③

          見れない映画16:論破②

          ・坂口恭平の「論破」のこと そう語るのは精神分析医の斎藤環だ。 第14回の続き。ひろゆきと坂口恭平は似ているのか、という思いつきから書く。 「いのっちの電話」と称して、自殺相談の電話を自前で受ける活動を続ける坂口恭平との往復書簡でのことである。 斉藤が言及しているのは、2020年11月1日の朝日新聞のインタビュー。「なぜ電話に出続けるのか」という記者からの質問に、相手から「念」をもらうのが「JOY(喜び)」だからと答えた坂口は確かに「哲学ってことですよ。知る喜びという

          見れない映画16:論破②

          見れない映画15:『セザンヌの犬』を読む(後編)③;かたちは思考する

          ・「かたちは思考する」のこと 『セザンヌの犬』を読んでから、なにか絵画に関するものが読みたいと思って平倉圭『かたちは思考する』をまた読んでいた。この本を前に読んだのは小田香のドキュメンタリー映画『セノーテ』の作品評を書いたときで、何か言葉の外で思考する道具立てがほしいと思っていたときだった。 平倉の論集は、書き下ろしの序章で自らの方法論を宣言するところから始まるのだが、彼は芸術は「人を捉え、触発する形を制作する技、またはその技の産物」と定義する。彼がそうと決める芸術の「

          見れない映画15:『セザンヌの犬』を読む(後編)③;かたちは思考する

          見れない映画14:論破①

          「ひろゆきに論破されてみた件」のこと いくつか読みたい記事があって、新潮の9月号を買った。 そのうちのひとつ、綿野恵太『ひろゆきに論破されてみた件』を読みながら気になることがあった。 筆者が、ネット配信の報道番組(ABEMA)の『アベマプライム』に出演し、タイトル通り、「ひろゆき」こと実業家の西村博之に「論破」された実体験から、「ひろゆきが論破する」語りそのものを分析したという論考である。綿野は、彼の著作を紐解きつつ彼の実業家としての背景まで掘り下げて著者なりのひろゆき論

          見れない映画14:論破①

          見れない映画13:『セザンヌの犬』を読む(後編)②

          2024年8月6日の『偽日記』で古谷自身が、『セザンヌの犬』収録のいくつかの作品の元ネタについて触れている。以下では、『ライオンは寝ている』で参照されたヴァージニア・ウルフの『憑かれた家』と、『セザンヌの犬』で参照された郡司ぺギオ幸夫の『内側から見た偶然ー仏陀の微笑』を読みつつ古谷の小説をさらに読み進める。 先に結論を言うと私は『ライオンは寝ている』は「眠り」についての、『セザンヌの犬』は「恋」についての小説だ、と私は思っている。 「眠り」とは意識について「分身=複数の場所

          見れない映画13:『セザンヌの犬』を読む(後編)②

          見れない映画12:『セザンヌの犬』を読む(後編)①

          0.前提に関すること やっと『セザンヌの犬』を読むことができる。しかし、私はこの本を読むことができない。何が書いてあるのかさっぱりわからないところが、かなりある。ただ、一方、一度この本を読んで感動したこと、なぜ感動したのかということを既に書いた。 『「ふたつの入り口」が与えられたとせよ』(以下、『「ふたつの…』)の以上の箇所より、「その女の子がわたしで、そのようにして、わたしはあなたの部屋にやってきて、あなたとわたしは姉妹になった」の部分で起きる劇的な視点の転換を、デヴ

          見れない映画12:『セザンヌの犬』を読む(後編)①

          見れない映画11:『セザンヌの犬』を読む(前編)

          ・『めまい』のこと デヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』は、基本的にはヒッチコックの『めまい』と同じ仕掛けから始まる。 突然、狂って自殺した曽祖母のことを口走り夢遊病に陥って徘徊するようになった妻、マドレイヌを尾行して見守ってほしい。同窓生エルスターに、そう頼まれた刑事ジョンは、曽祖母の墓場へ、曽祖母の滞在したホテルへ、彼女と瓜二つの曽祖母の肖像画が飾られた画廊へと彼女を尾行する。ある日、ついに海に身を投げたマドレイヌを救ったことで知り合い、彼女に愛を告げるよう

          見れない映画11:『セザンヌの犬』を読む(前編)

          見れない映画10:ずっとハリウッド終焉前夜

          ・2020年代 『ハリウッド映画の終焉』のこと 知らない映画を見るために過去に遡る必要があるとしたら、そこで「ハリウッド映画」という語彙がなにを表す言葉なのかを考えておきたい。ということで今回、宇野維正『ハリウッド映画の終焉』(2023年、集英社新書)を読む。 本書はこのような、ショッキングな書き出しから始まる。 コロナ禍を理由に途絶えたはずの映画館への客の足並みは、パンデミックの危機が去った後も回復していない。その証拠に、この20年でアメリカ映画の制作本数は半減して

          見れない映画10:ずっとハリウッド終焉前夜

          見れない映画9:わたしの音楽

          ・乗っ取られること。 音楽そのものが苦手というわけではないのだけれど。 小学生の頃だったと思う。地元の文化会館に山崎まさよしがくるというので、母親に連れられて行ったとき、山崎まさよしはあまり関係ないのだけれど、当時20〜30代の女性が多いかなという会場でまさよし氏が何曲か演奏してそれなりに盛り上がってきたところで一人、また一人と観客が手拍子を打ちながら立ち上がっていくので、そのうちなんとなく母親もそれに加わり、自分もいよいよ周囲と同じように手拍子をしながら立ったほうがいい

          見れない映画9:わたしの音楽