見れない映画21:作品批評の外①;映画批評地図の素描


1.映画の感想嫌いのこと

他人の映画の感想を聞くといやな思いをすることが多いのだが、半年くらい前にわけあって、ある一本の新作公開映画の感想をSNSやらレビューサイトやらレビュー記事やら、ネット上で見つかるものを手当たり次第読み漁っていた。
やらなければいいのだが、それでやって面白いこともあって、なにがそんなにいやなんやろう、と考えること自体はむしろ面白くてまだ考えているこれに意義はあり、これは「作品受容の外」にはなにがあるのかという話になる。
他人の映画の感想を聞いて、いやだなと思うのは映画の登場人物なり物語なりに共感してその人が自分の身の上話をはじめるときで、元々ある程度仲のいい友達とか家族とかでもないとそういうのは聞きたくないので、私は基本的に映画についての見識眼を信頼している友人の感想しか見聞きしない。要するに私の好きなのは「見識眼」、私の嫌いなのは「身の上話」ということになる。
つまり、映画を見て私はその映画の体験を通じてしか知ることしかできなかった「私の知覚」の外部と出合うことがしたい。だけど、私が実際に生活して社会の中で、私が誰で、その人が誰でという社会的な性格が浮き彫りになって、同じコミュニティの中にいますね、と互いに承認し合うこと。それに私はこれの第14〜16回でずっと話していた「寄り添い」の思想を感じて、そんなことせんでもいいのに、という気になる。
そうではなくてその映画がどのような表現としての効能を持っていて、それを客観的に分析して、その映画の出来不出来について話すことに、一本の映画を見て面白かった/面白くなかったと話すことの快楽がある。そう思うのだけれど、映画を社会的なキャラクターを前提にした共感の創出装置だとみなす私とは反対側の立場からすれば、きっと私のような感性の偏重こそ「自分のことしか考えていない」し、外部の思想の欠如だと思うかもしれない。そう言われればそうかもしれない。

2.ノエル・キャロル『批評について』のこと

原語では2009年に書かれた分析美学者ノエル・キャロルの『批評についてー芸術批評の哲学』は、作品批評の不要論についてさまざま検討して反論した後に、ありうべき価値づけとしての批評の価値について述べているのだが、今読むとキャロルが反論をしたはずの批評不要論のほうが結局優勢ではないか、その不要論側の陣営の方が「作品」受容環境を取り巻いているのではないかという気がしてきた。まとめるとこんな感じだ。

1、作品の価値は批評の外で決まる(売上や人々の反応)。

2、価値づけはコレクターや美術館が行う。

3、批評は芸術家の支援にならない

4、価値づけに理由はない。政治的な価値づけ(個人の好み)があるにすぎない

5、芸術はユニークで一般的な評価基準はない。

キャロルはそれぞれに反論したうえで、批評の価値として成功価値(作家がどういう目標を達成して作品を完成させたか)と、受容価値(作品は観客にどのように受け取られるか)を挙げ、成功価値が受容価値に先行することを批評が価値を持つ条件のようなものとして挙げているのだが、今やキャロルのほうが理想論だろう。
つまりキャロルの思惑とは裏腹にその後15年余りを経て、むしろますます「現状」は、作品の成功価値よりも受容価値を優先する時代、作家や作品よりもお客さん至上主義の時代に至り、「作品」はサービスと見分けがつかなくなっている。キャロルの言葉で言い換えれば、それが徹底されるとあらゆるものが快楽と経験の対象であり、「どのような駄作であれ、いかに楽しめるようにするか」だけが唯一の基準となる。
それでもなお、キャロルの側に立つならば、成功価値を受容価値に先行させるのが芸術であり、受容価値を成功価値に先行させるのが娯楽である。「現状」は、娯楽が芸術を呑み込む過程である、それは即ち政治と経済という社会的現実が芸術の自立を奪う状況というのが私の見立てなのだが、そのうえでこの作品批評不要論をさらに詳しく読んでみる。

受容価値が至上のものとなり、芸術に価値を与えているなにかしらが人気(1、経済的な理由)と好み(4、政治的な理由)であり、かろうじて権威(2、芸術は美術館にある)によって芸術の自立が保たれている(かのように見える)のであり、そこに自立の理由(美学)を認める立場はどんどん弱くなっている。。
昨今の「ポリコレ」状況というのは「面白いかどうか(美学)」ではなく「正しいかどうか(正義)」の問題として作品を論じる立場であり、そこでは「面白い」の自立が崩壊した後でも個人の好みは根強く存在し、その個人を社会に紐づけるための政治的な理由によって、つまり、「あなたのその個人的な好みは正しいのか」を断罪することで、個人が社会に紐づけられるところに芸術と社会との結びつきがある。
本書で言えばそれは、キャロルが避けようとするカルチュラル・スタディーズの仕事なのだ。そのような理由で記述、文脈づけ、分類、解釈というのがキャロルが参照するカルスタの仕事なのだけど、これと価値づけを対比させるのは、私の解釈で言えば、カルスタがやっている理由記述というのは「社会にとって私は誰か」という話で、価値づけは「私が私自身を価値づける」言葉として機能するものであるという前提で考えると、社会と私というのは対立しつつもどちらかを選び取るためのものではなく、互いに引き合うものだとした時に、私が私であるための好みの拠り所として作品というのが機能する。言い換えれば、趣味の問題を自前で検討する手段(美学)を失った「私」は、個人であることに失敗して集団の政治の中に埋没するのだ、ということを私は考えている。

3、と5、については以前にこの日記でとりあげた町屋良平の批評の話をもとに検討したい。

第19回で引用した町屋良平の話は、彼が小説家の矜持として成功価値を受容価値に先行させる美学というか、芸術としての倫理について語っているものとして読むことができると今は思う。批評がどれだけ作家に助言することができるか、私には甚だ疑問だが、それでも作家にはそのユニークさ(5、)だけが資本なのではなく、「書く(作る)べき作品」という次元があり、おそらくその実現されない架空の作品というのが芸術の共約可能な次元なのだ。
「書くべき作品」を失った作家はどうなるかと言えば、そういう作家は市場の要求に答えるのみである。これは先述の「好み」を失って、集団の政治に埋没する個人の話と同じになる。
統計に基づいて予測された人気の作品を量産することだけが作家の仕事になるのであれば、今やこんなに発達したAIにすべて外注してしまえばいいのではないかと思うし、それが遅かれ早かれ娯楽の未来だろう。

もう少し踏み込んで、個人であることの価値、個人の好みが独自の領域を持っている価値というのを考えてみる。「作品」というのは、社会的現実、物理的現実の中では不可能なことが可能となる、治外法権を認めないもう一つの現実であると私は思っている。
物理法則を超越する個人の思考の究極形が不死であると私は思っているが、この話はいったん置いておく。
つまり、個人であるとは他人と共有可能な現実と、個人的な現実という現実の二重化、相対化であり、私はこれこそが正気であるための手段だと思う。この話もこの日記に何度も書いているが、これもまた常識と正気が異なるという話なのだ。常識と言っても、これは世間一般ではこういうことが約束事とされているという言葉の約束であり、世間が変わればそれもかわる。
生身の人間は「言葉の約束」に完全に一致することはできないので、正気とは、約束を守ったり破ったりしながら他人(というか別個体)とのコミュニケーションを保ち続ける揺らぎの中にあるその存在のあり方だと私は思うのだけれど、基準が一つになるとこの揺らぎが消える。
政治と経済だと基準が二つではないか、と考えられるかもしれない。しかし、これについては以下のように考えると私にとって、政治と経済とは同じ一つの問題なのだ。
つまり、他人と過ごしていると自分が他人のことを居心地悪く感じたり、他人が自分のことを居心地悪く感じたりすることは少なくない。友達ならまだいいけれど、家族や恋人、仕事仲間となって、利害関係が生じて、何かの意思決定を共同でしなければならなくなるとこれは避けられない。
ストレスを減らして、社会的関係をスムーズに進めることは実用的でもちろん大事なのだが、そうして私があなたという他人に一致することは絶対にない。というか、私があなたの、あなたが私のサービスに徹するということはありえない。そういう意味で、これは経済と政治の問題なのだ。だから、あなたにとって不快な私、私にとって不快なあなたという他人をどのように意味づけるか、もしくは意味もなくそこにいるのを認めるかに美学の問題がある。
かなり空中線になってきたので、映画の話に戻る。

3.映画批評地図のこと

少し前に、映画批評家の大寺眞輔が日本の映画批評史をインフォグラフィックにしたものを公開している。政治派と美学派にわけて雑誌をコミュニティとしたコミュニケーションの連なりとしての映画批評、そのコミュニティが最近では上映会という形にシフトしつつあるというコメントがつけられている。1990年生まれで地方出身の私には知らないことが多くて勉強にもなるがかなり物足りなさも感じた。
物足りなさというのは要は、映画雑誌の外にも映画批評はあるだろうということで、そちらのほうがむしろ現代的な問題であると思う。その話はキリがないが、「成功価値」「受容価値」という基準の中で以下に羅列してみる。

・実作者によるテクニカルな分析
・テクスト批評
・テクスト批評を背景にした個人の感想
・個人の感想(口コミ)
・社会・政治に裏打ちされた個人の感想
・ライフスタイルによる文脈づけ
・文脈づけの遊び(音楽・美術・建築など他分野の批評との融合)
・哲学・文学による文脈づけ
・社会・政治による文脈づけ
・宣伝
・数値(興行収入、マーケティング)

映画以外の雑誌で、映画というか「作品」というものは政治やビジネスやライフスタイル問題としてたくさん話題になっている。その話にはキリがないが、なぜそういうふうに流出入するのかということを私はもう少し考えたい。
1990年生まれというと、1998年に亡くなるまでテレビ朝日系列の『日曜洋画劇場』で淀川長治の映画解説を聞いていた最後の世代にあたるのではないかと個人的には思っている。私のような世代は映画の黄金時代というのはほとんど想像し難いほど昔のことだが、かろうじて淀川のような世代の人の話を聞いて、そういうものを思い描こうとはする。今考えているのはそういう単なるノスタルジーではなくて、私は映画かそういうひとつのカルチャーの「黄金時代」を「面白い(美学)、儲かる(経済)、ためになる(政治)」が一つの作品の中に実現していた時代だと想像するからである。

第10回でハリウッドの話をしていたのだけど、蓮實重彦の批評の言っていることは強い主観的な感想かホラなので、いつも話半分で聞かなければいけないと思いつつ、そのハリウッド史観から学ぶべきは、歴史というか、映画史はすべて偽史であるということと、映画史というのは自分が直接体験し得た時代を中心に個人的なものとしてしか語ることができないということだと思う。そういう意味で「黄金時代」というのは欲望が生み出す幻想の中にしかたぶん、ないのだが、そういう開き直りのなかで「黄金時代」を見失わないように「現状」をまた重ねてみると、映画がメディアの花形で唯一のマスメディアであった時代が終わって、テレビが、インターネットが、つまり他のメディアが出てきて、それでも映画は消滅はせず、大企業の「映画部門」として後期資本主義の時代をゾンビのように生き延びたというであれば、個人の作品受容としてひとつのメディアの展開を、または後期資本主義という「作品の外」の事情を「面白い(美学)、儲かる(経済)、ためになる(政治)」の崩壊と分裂として読むことができるというのが私の見立てである。

先に羅列した箇条書きは要するに、なにもかも数値に回収されるのが経済で、文脈づけをひたするするのが政治ということになるのだが、そうなると個人の感想というのはかなりいい。外の理論を強引に引っ張ってくるスラヴォイ・ジジェクにしたって、バルト由来の神話解体のためにテクスト批評をこねくり回す蓮實重彦にしたって、シャイクスピア受容史の素養から観客至上主義の社会論を振りかざす北村紗衣にしたって、合衆国の時事問題で文脈づけをする町山智浩にしたって、アメリカ映画の製作環境のゴシップで文脈づけする宇野維政にしたって、テレビでコメンテーターをする芸能人にしたって、飲み会にこそふさわしいオールタイムベスト談義に花を咲かせるYouTuberにしたって個人的な「面白い/面白くない」の話に終始する限りはかなりいいのではないか。
いいというのは、個人の美学的領域が守られているということだが、そういえばこれはなんの話だったか。

4.作品批評の外へ

少し軌道修正すると、他人の映画の感想を聞くのが嫌いだという話だった。結局今、議論の底が抜けてしまった。今の視点で、もう一度話を戻そうとしてももう戻れないのだが、戻れないのは要するに、この人の感想は好きとか嫌いとかいうことができるのは、個人というのがあるからで、個人がその価値観を示せるのはまだいい、というところまで話が来ているからだ。

10月16日の古谷利裕の偽日記を読んでいて、人文系や批評系が話題にする「ハイテクや情報技術産業を含んだいわば高度消費社会としての資本主義」と、実際に経済を回している「高度な金融資本主義」は別だという話がされていてまったくその通りだと思うし、そういう意味で経済の話と作品の話は並行していて繋がっていない。
2019年くらいにこういう話を記事で読んだことがあるが、Disneyがピクサーから、20世紀FOXから、ルーカスフィルムから、マーベルから手当たり次第に買収をして結局ただ同然の料金でストリーミングを開始する。そうしてコミュニティとして自分達の顧客を増やしてテーマパークで収益を上げようとしている。だからストリーミング自体で儲けようとしているNetflixみたいなサービスは遅かれ早かれ下火になって、別の商売で設けているDisneyとAmazonだけが安価なストリーミングを提供して生き残るという話だったが、結局それがコロナが来てどうなったのかよくわからない。Netflixは元気に生き残っているけれど、作家とか作品という個人の拠り所になりそうなものの背後にそれを提供する製作環境、広義のプラットフォームがあって、プラットフォームを回す企業があって、企業が回るための大きな経済がある。というのは当たり前の話なのだが、作品批評がもうだめになってきたときに、私はこうやって「作品」の外に何があるのかということをやっと考え始めることができる。

批評家が「個人の感想」であることに価値があるというのは、結局「作品受容」というのが根本的に意味や役割ではなく個人的な体験であるということだと思う。映画ももちろんそうだが、アイドルのような事例はわかりやすくて、その後ろに多くのスタッフと資本と組織があるにもかかわらず、作品ないし、そのアイドルが歌って踊るステージの物語というのが一人の(あるいは一人一人がおりなすグループ)人間に集約される。これ自体が製作物の擬人化であると思うのだが、作者という物語と読者という物語がないと消費はできない。
だからやはり、作品が個人の価値観の拠り所になるとは思うが、それでもそんな有緒な話ではなくて、巨大な資本のもとで組織されるAIは、実態としては計算と化学物質の配合に基づいた快楽信号の誘導であるにもかかわらず、作家と読者の個人のやりとりであることを装った「娯楽」をすぐに作り出すことができるようになるだろう。
「欲望によって搾取が可能な政治的に正しい架空の実作者」。それが未来の、あるいは現代のカルチャーになる。なるかもしれない。なるとして、ひとつは樋口恭介のようにこういう予測される未来からそれるために、未来への妄想を掻き立てることが必要なのかもしれないが、その未来への妄想を「どこに出していいか」私にはよくわからない。こういう感じで私は今、作品批評の外にあるものを考え始める。

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