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「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる『繊細さん』の本/武田友紀 著
感度のマグニチュード
「自分を繊細だと言えるのって、繊細なんだろうか?」
それは「この本を読むのを抗っているわたしこそ繊細だ」と言っているのとおなじだと気づいて、恥ずかしくなった。
だれしも、己を繊細だなと感じる部分を抱えているとは思う。でも筆者を始めこの本に当てはまるひとは、感じる深度と強度の網羅する範囲がひろくそして精度が高い。
生まれながらのロングスリーパーがいるように、搭載しているOS(神経)がちがうのだ。実際本を読むと、当てはまるところも大いにあるし、でもやっぱり自分を繊細と呼んでいるならそもそも繊細ではないだろうという穿った感想もある。
この本のなかで、著者は繊細なひとを親しみをこめて「繊細さん」と呼んでいる。
アメリカの心理学者エレイン・アーロン博士の提唱したHSP (Highly Sensitive Person)という概念が基にある。
痛みも心地よさもどちらも半自動的にキャッチしてしまう
「感じすぎてつかれる」
受容体として精度のたかい自分がすることは、ストレスにつよい鋼のような自分に作り替えることではない。その感覚を活かして「私はこれが好き」「こうしたい」と言う自分の本音をどれだけ大切にできるかが勝負どころ(27頁)なのだ。
繊細なひとにかぎらず大事なことだが、神経がキャッチする範囲がひろい人ほどたいせつなのだろう。
わたし自身は、ひとの多い飲み会などで声や音楽を拾うようで家で布団にはいっても話し声や言葉にならぬ音がぐわんぐわん頭のなかで反響してなかなか寝つけなかった。お酒を飲んで気持ち良くなれない体質もおおきい。
強制シャットダウンと「私はどうしたいんだっけ?」
誰かの気持ちに気づかないことーーー気づかないフリをするのではなくて、そもそも気づかずにいることーーーが、繊細さんにはできません。
生まれつき搭載しているこのシステム(OS)が稼働し、それに半自動的に対応するから振り回される。だから疲弊せず元気に動きまわるためには、この自動応答を切ることが必要。さらに「気づいたときにはわずかでも踏みとどまって「私はどうしたいんだっけ?」と自分に問いかけ、対応するか/しないか、対応するならその方法を自分で「選ぶ」ことが必要(53頁)」。
ここを読んで、わたしは子どものことを想った。
子どもだけに作動するから繊細さんとはちょっとちがうのかもしれない。だが”子どもセンサー”なるものがあり、「〇〇したら夜寝ないな」「なんかおかしい」と日ごろ肌を突き合わせているのと経験が相まって、子どもの反応が手にとるように分る。だから先回りをしてしまう。予防線を張るといってもいい。
このセンサーは起きている間中(ときには寝ているときでも)ONになっていて休むひまがない。ときにはスイッチをOFFにしする。親であることにしばし休息を与える。自分の感じること/したいことを優先する。
子どものことにかぎらず、頼まれていないのに手を貸すことがある。動いて自分に振り分けるエネルギーが枯渇してしまう。自分で自分の首を絞めるのだ。手を差しのべるのは、相手から頼まれてからでいい。
まずはひと呼吸置いて、問う。
「わたしはどうしたいんだっけ?」
どの自分を表に出すか
人間関係の基本構造とは、「表に出している自分」に合う人が集まってくる、というシンプルな事実です
つづけて、著者は例を挙げている。
本当はとてものんびりしている繊細さんが、職場では少し無理してテキパキしている。
そうすると「テキパキしていていいな」と思う人がまわりに集まってくる。繊細さん自身も、テキパキした部分を評価されていることを感じとるので、「のんびりした自分は求められていない」とますますテキパキする。さらにテキパキを評価する人がまわりに集まる…。この繰り返しで、自分を出さずに殻をかぶっていると、その殻に合う人が集まってきてしまう。(96-97頁)
テキパキは、「自分よりも相手を優先する」「わがままを言わない」などにも置き換えられる。それを、自分の意見を言ったり、嬉しいときも嫌なときも素直に顔に出してみると、その部分を好きな人がまわりに集まる。まわりの人が自分と合うひとなので、そもそも嫌だなと思うことにも遭遇しにくくなる。(97-98頁)
その好循環ができ上がることで「人間関係の入れ替わり(98頁)」も起こる。
殻をかぶっていることを感じとるのが繊細さんなんだろう、と思う。
「ここに裏の顔があるな」
「ほんとうはこう思っていない」
「このひと無理してるんじゃないか」
そのセンサーがピンと立つのが繊細さんゆえなのだろう。普通はというか、人間関係を築くうえで「推しはかる」という行為は含まれていないのだ。空気を読む行為が必要とされる場もあるかもしれない。文化によってその度合いも頻度もちがうだろう。
でも表通りを歩くには、その慮(おもんばか)りは不要なのだ。見えたものを受け容れ、そこにあるものを受けとめる。あるがまま、ということだ。
自分の納得と、相手に誠実であること。このふたつを両立したとき、繊細さんは仕事で大きな力を発揮します。
仕事だけではない。
自分にとって自然であることを、そのまま表に掲げる。
頼るのは洗濯機といっしょ
表しか見ないからこそ、繊細さんは「頼る」行為が必要になると著者は言う。
人に頼るのは、洗濯機を使うイメージ
自分で手洗いできるからといって、洋服を手洗いする人は今どきいない。それと同じ。自分でできるからって全部自分でやろうとせず、人に頼る。大変なときだけでなく、日常的に頼る。
ひとつ屋根の下で暮らす家族ですら、「金曜日だし疲れてるんじゃないかな?」「このあいだ調子が悪かったし」「家では休んで欲しいし」とあれこれ思って、お願いしたり尋ねたりできないことがある。
あれこれ想像するより「〇〇してほしいけど、どうかな?」と聞いてみるほうが断然確実で早いです
「報告」「連絡」「相談」の「報」「連」「相」は仕事の要と言うけれど、そこに「確認」も入れたらいいのに、と思ってしまう。
つい最近まで「お店で空調を変えてもらう」というお願いをしたことがなかった。「寒かったら冷房を下げてもらう」、その発想がなかった。
冷たいものが飲みたいけれど時間が経つと身体が冷えるのがイヤだなぁ。「氷を少なめにしてもらえますか?」そう尋ねると、「わかりました」と打てば響く速さで返ってきて拍子抜けした。
「これはダメにちがいない」
そうやって✖️を付けているのはほかならぬ私で、訊いてみると意外と望んだものが返ってくる。こればかりは体験しないとわからない。
聞くときの最大のポイントは「無理そうだったら言ってね」と一言つけくわえること。頼みごとを引き受けるかどうか、決定権は相手にわたします。
そして「いいよ」と引き受けた相手を信じて任せること。
マルチタスクの心得
重要なものをひとつだけ選ぶ
筆者のおすすめだ。
すべてに順番をつけなくていい。考えながら仕事をする、一つひとつに集中して丁寧に仕上げるのを得意とする繊細さんは、優先順位をつけること自体がさらなる「仕事」になってしまうから。(164頁)
だから絶対に今日やらなければならない大切な仕事を、ひとつだけ選びます。そして、やる。電話やメールや会議で中断しても、またその仕事に戻り、終わるまで、あるいは目処がつくまでやる。
終わったら、次に重要な仕事をひとつ選んでとりかかる。その繰り返しで1日を進めるのです。(165頁)
「最後まで選ばれなかった仕事は、時間が経つにつれ、やる必要がなくなることもしばしば。仕事そのものが減っていく効果がある(165頁)」とも。
これを実感したのは、週末に会う予定の知人にメールをしようかどうか迷っていたときだった。「約束した日から時間が空いているので念のため」という重要度は低いが、リマインドの意味もあった。いよいよ予定が近づいた日に、近所のスーパーで知人にばったり会った。声をかけて、「週末よろしくね」と互いに言って別れた。メールの手間も省けたのだ。
「放っておく」の効能
繊細さんにとって、「気づく・気づかない」は自分の意志でコントロールできるものではない。でも気づいたことに対応するかどうかは、自分で選ぶ。「気づく」と「対応する」を分けるのだ。
芋づる式にやったほうがいいことが出てきたら、いったん手を止める。
「致命傷でなければ、対応せずに放っておく」
ここでもわたしは子どもを思い出した。
危険が及ぶ範囲でなければ、だまって見守る。
「放っておく」
意外とできない。というか全くできていない。床に置きっぱなしの水筒を見れば
「カバーをはずして」
「お茶まだ入ってる?」
「カバー洗おうか」
と矢継ぎ早に口をつく。
幼稚園から帰ってきて一時間、せめておやつを食べ終わるまでは口を出さない。
「率先して動くのをやめる。子どものおやつが終わるまでわたしもリビングでぼーっとしてみる」
いまのわたしにはこれが有効かもしれない。
ちいさな本音から叶えてみる
「あの人、苦手」と思ったら、自分からは近づかない。
「ゆっくり眠りたい」と思ったら、家事も資格の勉強もいったんはお休みして、足を伸ばして行ってみる。
「仕事を辞めたい」などのおおきな決断はすぐには踏み切れないこともある。そんなときはちいさな「こうしたい」から叶えていく。そうして「自分にとっていいこと」を選ぶ感覚がつかめてくる。自分の好悪が輪郭を持って浮かび上がってくる。「こんなふうに生きていきたい」
その土台ができて、おおきな決断もできるようになる。
繊細さんの強みは、感じる、味わうなど「心と体」を土台に発生します。全力を出すには、自由に感じていい、安心できる場所にいることが大切です。感覚が鈍っているときには、のんびりお茶を飲んだり空を眺めたりと、心と体をゆるめる時間をとってみてください。
ちいさな本音のひとつに「好きなマグカップでゆっくりお茶を飲む」とある。
何度か聞いていたことはあるけれど、じつはあまりピンときていない。よく挙がる例だけれど、自分にとっては違う。
「違う」もアリなのだと今なら思える。当てはまらない自分を無理矢理押しこむのではなく、はみ出た自分を明らめた後はそこを立ち去っていい。
「おや?」という横槍
最後に、直感について。
勘てあるんだな、と確信するようになったのは20代に入った辺りからだ。
母親と海外の友人を訪ねることになり、家を出るまえに親からパスポートを手渡された。触れた瞬間、ざらりとした。正体は分からなかったが、なにかどろりとしたものが自分の内に拡がっていった。
航空会社のカウンターでチェックインをしていると、係の方が「あの…」とくぐもった声を出した。
わたしのパスポートの期限が切れていた。
旧いものと、更新済みの新しいパスポートをおなじ引き出しに仕舞っていたらしい。中を見ずに持ってきたのは、期限切れの方だった。
結局キャリーケースからわたしの荷物だけ引っ張り出し、母親だけが飛行機に乗った。空港の公衆電話から、自宅で留守番していた父親にかけた。ことの顛末を口にした瞬間、言葉に詰まった。荷物をキャリーケースから出したときも母に手を振ったときもこぼれなかった涙があふれた。
ざらり、の理由が判った。
「なぜかわからないけれど、そんな気がする」
「見た瞬間にピンとくる」
直感はジャックポットを引くときだけに発動されるのではない。
「変なかんじ」「あやしい」「ぞわっとする」
異変を感じるときこそ結論に最短距離で飛ばそうとするのではないか。でもかつてのわたしのように、ざらり、を見逃すこともある。
感じたものを活かすには「自分には直感が『ある』。そのわたしをこの世界で使っていく」。自分でそう知っていること土台となるのだろう。
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