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なぜ私たちは物語に癒されるのか?あるいは、夏目漱石が小説家になった理由について

本稿の成り立ちと目的について

前回、村上春樹の考える「小説の役割」について考察しました。

大事なことは人が「自分で考える」ということであって、そのための有効な興味深い長いスパンのテクストを提供するのが小説の役目です。 答えを与えることが小説の(文学の、と言い換えてもいいですが)役割ではない。それが僕の考える現在の、高密度情報社会の中での「小説的責任」の姿です。

村上春樹

この引用文にて、村上春樹は「小説の目的は、人(読者)が自分で考えること」と言っています。ですが、その言葉の意味が分からない。

一般的に「考える」という言葉を使うときには、論理的思考のことを指します。しかし、論理的に考えることを目的とするのであれば、法科大学院で法律を、あるいはMBAで西洋式マネージメントでも学べばいい。あるいは、自宅で哲学書でも読んで考えれば済むはずです。

でも、村上春樹は、わざわざ小説だけが可能にする目的として「人が自分で考える」ということを設定している。では、このときに彼が述べている「考える」ということの性質は「論理的思考とは異なる何か別の思考法」なのだろうと想定せざるを得ない。

そのような別の思考のあり方を、便宜的に「物語的思考」と仮定してみる。その上で、では「物語的思考」とは一体どういうことなのか?について考えてみようというのが、本稿の成り立ちの経緯です。

「物語的思考」と名付けられた行為について考えていくことは、当然「論理的思考とは異なる、物語的思考に独自の力とは何か?」という問いに展開されていきます。

その物語的思考に独自の力は、複数あると思いますが、すぐに私が思いつくことは「物語を読むと癒される」ということです。これは村上春樹自身も述べていることですし、多くの読者が共有できる実感でしょう。

では「物語的思考」がインプットされると「ある種の癒やし」がアウトプットされる、という仮説を立てたときに、我々が抱える「どのような症状」に対して「どのような方法」で、物語は影響を与えるのでしょうか?

この問いについて考えるにあたって、本稿では、村上春樹だけでなく、夏目漱石にも注目します。なぜなら、夏目漱石は重度の神経衰弱でした。彼は自らの神経衰弱状態を癒やすために「物語的思考」という方法を求めたと考えられます。

これが【なぜ私たちは村上春樹の物語で癒されるのか?あるいは、夏目漱石が小説家になった理由について】という大げさなタイトルの所以です。

また本稿では、「物語的思考とは何か?」について考えるために、まず前半で「論理的思考とは何か?」についてそのルーツを辿って考えます。

なぜなら、私たちが普段使っている論理的思考は、有用性ばかりが注目されますが大きな副作用があるからです。この論理的思考のもたらす副作用の中和が、物語的思考の効果であるというのが私の現状の考えです。あくまで一言で言えば、ということですが。

ということで、以上が本稿の成り立ち、および本稿が解き明かしたいと願う事柄になります。本文が約20,000字以上あり、最初にある程度の導入がないと話の筋が分かりにくい構成になってしまったので、このように冒頭で導入をしました。

つまり、本文中では色んなところに話題が飛びまくりますが、最終的にはこの問題意識の解明に辿り着くのでご安心下さい。また、ここまでかなり固く真面目な感じになりましたが、本文はもっとポップです。

ーーーー注意喚起ーーーー
『ねじまき鳥クロニクル』に言及します。物語の筋についてネタバレはありませんが、象徴的な題材と一場面を取り上げますのでご留意ください。
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ということで、まずは「物語的思考」とは逆の思考法である「論理的思考」について考えていきます。この論理的思考を突き詰めて生きることの問題点を把握することが狙いです。


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