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村上春樹から読み解く「描写」の本質

村上春樹は、小説家とは何か?という質問に対して「多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを生業とする人間」だと述べています。

これはどういう意味でしょう?
本稿では、この言葉の真意を徹底的に紐解きます。
そうすることで小説における描写の本質に迫ります。

小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを生業とする人間です」と。
なぜ小説家は多くを観察しなくてはならないのか?多くの正しい観察のないところに、多くの正しい描写はありえないからだ。たとえ奄美の黒兎の観察を通してボウリング・ボールの描写をすることになるとしても。
なぜ小説家はわずかしか判断をくださないのか?最終的な判断を下すのは常に読者であって作者ではないからだ。小説家の役割は、下すべき判断をもっとも魅惑的なかたちにして読者にそっと(べつに暴力的にでもいいのだけど)手渡すことにある。
おそらくご存知だとは思うけれど、小説家が(面倒がって、あるいは単に自己顕示のために)その権利を読者に委ねることなく、自分であれこれものごとの判断を下し始めると小説はまずつまらなくなる。深みがなくなり、言葉が自然な輝きを失い、物語がうまく動かなくなる。(村上春樹)

村上春樹 雑文集

上記の発言では「判断」と「観察」が対比されているわけですが、判断と観察とは、それぞれどういう意味なのでしょうか?

まず「判断」という言葉の意味について考えてみましょう。判断を言い換えると、それは「説明する」ということです。そして小説とは説明をするものではありません。村上春樹もそのように言っています。

原則的なことを言いますと、小説というのは、説明するものじゃないんですよね。台詞にせよ、地の文章にせよ、言葉でいろんなことを説明してはいけない。言いたいことはそのまま言葉にせず、何か別のものに託してしまう。これが小説の本来のあり方です。

村上春樹

でも柴田さんが僕に向かって直接、柴田元幸とは何か、いかなる人間存在か、というような説明をはじめると、逆に柴田元幸を理解することは難しくなるかもしれない。むしろコロッケについて語ってくれた方が、僕としてはうまく柴田元幸を理解できるかもしれない。それが僕の言う物語の有効性なんですよね。・・・コロッケをあいだに引き込むことによって、コロッケに何かを託すことによって、一つの立体的な風景を共有することになる。言葉ではなく、風景を共有するということが一番大事なんです

村上春樹.柴田元幸 『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』

小説あるいは物語とは、説明ではないと。
では「説明する」ということは一体どういうことでしょう?


説明とは何か?

千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』(2017)に面白い定義が紹介されていますので引用します。

説明とは、そのままで未知にとどまってしまうものを分解して、自分が既に知っているものの集合体へと帰着させてしまうということ

千野帽子.『人はなぜ物語を求めるのか』(2017)

繰り返します。

そのままでは未知に留まってしまうものを分解して、自分が既知の体系(集合体)に無理やり紐づけてしまうこと」。これが説明です。

説明の基本原理はロジック。ロジックを使って万物を客観的に説明しようと試みるのが科学です。

この科学のパラダイムを作り出したのが15世紀の哲学者デカルトです。彼は中世に生まれました。それはそれはカオスな時代で、客観性のある議論なんてできません。

みんなが好き勝手なことを言いまくって収拾がつかない。教会が神の名のもとに様々な事柄を不公平に判断してしまう。そこでデカルトは「なるべく客観的に確からしい議論をするにはどうすればいいのか?」と問題意識を持ちました。

そこでこの世のあらゆるすべての物事を疑ってみた結果、すべてを疑っている思考主体としての自分の存在だけは疑えないぞ!という発見をしました。これが「我思う故に我あり」です。

確からしい存在である「考える自己」を基礎として、その上に数学的ロジックを使うことで、なるべく客観性の高い議論や思索をする方法を作りあげよう、と着想したのです。それで生み出されたのが科学です。この着想により時代が中世から近代へと進むことになりました。

ということで、今日の私たちにとって「説明」とは「デカルト的行為」なのです。それは、あやふやで魑魅魍魎の世界をロジックを用いて客観性、再現性、あるいは実用性の高い知識体系に回収しようとする試みです。

この説明行為においては「これはよく分からん」という結論は評価されません。「これはAではなくBである。なぜならCだからだ」というロジックの提示が求められます。

これが判断ですね。
「AではなくBである」と決定することが判断なのです。そして「その理由はCだからだ」と判断の背後にあるロジックを共有することが説明なのです。

そして村上春樹曰く「小説家は、わずかしか判断をしない」「小説とは説明するものではない」のです。

なぜか?

デカルトの思考回路について考えると分かりますが、彼は客観性を求めるために「論理的に説明することのできない未知なるものごと、つまり謎なものは、存在が疑わしいものとして一旦切り捨てよう」という思想につながっています。

つまり「説明をする・判断をする」とは、言い換えれば「未知なる何かを無視する、あるいは殺す行為」につながるのです。

これは小説あるいは芸術とは真逆の性質となります。芸術は決して説明できない未知なる何かと関わる方法です。あるいは未知なる何かにたどり着くことのできない悲しみを表現する方法なのかもしれません。


説明不可能なこと

未知なる何かと関わる方法、つまり創作行為は、身体的・個人的な性質を持ちます。

それがゆえに、一流の芸術家は決して軽々しくこの創作の謎を説明しようとしません。彼らは説明不可能な力を発揮するのが創造行為なのだと理解しているからです。創造と説明は真逆のアプローチなのです。

町田康:
 もう少し感覚的なものですね。理屈でものごとを考えているわけではありません。図に表せるようなものというのは物事が明確になる。でも僕は明確にさせたくないんです。僕らの生きている実感というのは、はっきりくっきりしていないんですよ。
 「なんじゃコイツ、むかつくのぉ」と思っても一度会って話してみたら「結構ええ奴やなぁ」ってなることってありますよね。その逆もありますが。そこに明確な判断の基準ってないじゃないですか?
 知人にオモシロイ話を聞いて。その方のお父さんって破天荒な人でね。ある人物のことを、「俺、アイツ嫌いやねん」とお父さんが毒を吐いたんです。「何で嫌いなん?」と知人が尋ねると、「あの顔が嫌いやねん」と。

玄月:分かり易いww

町田:ものすごい実感ありますよね。普通はそうは言えないでしょ?いや、思っていたとしても自分の中で違う理由を作る。「顔が嫌い」という理由には至らない。

玄月:別の何か、例えば性格的なことを言って説明しますよね。

町田:そこには鉄壁があるんですよ。「倫理に反するようなことを言ってはいけない」みたいな。それを補強するための物語をこれ以上作ったってしょうがないんじゃないだろうかと思うんですよね。
 「そんなもんだよ」っていうのが分かった上で、ある種の物語を落とし込むなら良いけど。
そういったよく分からないことを全くなかったことにして理屈でものを立てるのがどうかと。そういう意味で僕は社会科学というものを全く信用していない。だから文学だと思うんですけどね。

町田康「精神のパンク、表現の文学」

Paul McCartney:
 基本的にはやっぱりとてもシンプルなんだ。ミューズを追いかけるのさ。そうすればアイデアが手に入る。たまに人から尋ねられることがある。どうしてまだ曲を描き続けるんですかってさ。あなたはこんなにたくさんの曲を書いてきたじゃないかってね。それは僕が音楽を、そして作曲行為を愛しているからだよ。たとえば明日、誰かが僕を解雇したとしよう。朝起きたら僕は何をするだろうか。もちろん曲を作るさ。それが僕の日常だ。とにかく好きなんだ。
 では、なぜ僕は作曲が好きなのだろうか?それはそのプロセスが謎に満ちているからだよ。僕は作曲中に何が起きているのかを未だに理解することができない。それって素晴らしいことだと思わないかい?僕にとってはとんでもなく素晴らしいことなんだ。

Interviewer:
 作曲については学術的な方法論のように体系的に語る人もたくさんいますよね。でもあなたは未だに、そのマジックに対して身体を投げ出して飛び掛かっている訳ですね。

Paul McCartney:
 そうだね。作曲だけじゃなくて歌うことについても同じだね。僕が思うに体系的に語ってしまうことはある種の危険性を孕んでいる。つまり、そのように語ってしまうことの方が快適なんじゃないかな。自分はこれについて理解しているって考えてしまうことがね。
僕の友達には、このマジックに関する秘密が解き明かされてしまうことを最大の恐怖だと思っている人がたくさんいるよ。みんな才能があり有名な人ばかりだ。彼らにとっては、そして僕にとっても、この魔法の背後にある得体のしれないカオス(edge of panic)みたいなものがあって、それが僕らが新しい曲を作るための原動力になっているのだと思う。きっとね。

Paul McCartney

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という哲学者ウィトゲンシュタインの有名な文句がありますが、これは「説明不可能なことについては、沈黙するほかない」と述べているわけです。科学や哲学が武器とする論理的な言葉には、そもそも限界があるということを指摘したのです。

ただし説明できないことについて考える方法があります。
それが「観察」です。
つまり、小説家が主に行うことです。


観察とは何か?

では、観察とはなんでしょうか?

観察とは、判断をするのではなく、その前段階の身体的な経験や感覚を重視することです。

ポイントは体験や体感という言葉に含まれている「体(身体)」です。つまり、頭で行うデカルト的判断ではなく、身体を通じて世界を感じることこそが観察なのです。

私たち人間は思考する前に世界を体感します。しかし、世界を体感した後に私たちはそれを分析し説明してしまおうとしますよね。その理由は、①私たちが言葉を使うから②かつ、私たちが近代以降の世界に生きてるからです。

そこで改めて「観察とは何か?」について大袈裟に言えば、それは中世的あるいは古代の感覚で世界を体験することです。デカルト以降の近代的な頭で分析的に世界を処理することではありません。

頭でっかちな人はデカルト的な人です。彼らは眼の前の生の現象を見ようとせず、自分が知っている理論だけで世界をお手軽に捉えてしまおうとする近代的な人のことですよね。

でも、ブルース・リーもスティーブ・ジョブズも「Don't Think, Feel」と言っています。頭でっかちにならず、世界をありのままに体験せよ、と。

ちょっとふわふわした話で分かりづらくてすみません。しかし、頭ではなく身体的な感覚の表現こそが「観察」のポイントなので言葉で表現しづらいのです

なにしろ昨今の世の中では「言語化スキル・説明能力」が持て囃されています。何でもかんでも言語化して説明できればいいと思っている。自分のあやふやな気持ちを言葉にできればいいと思っている。そして、そのように的確に言葉にできる人のことを賢くて優秀な人物だと思っている。

これは近現代という現在の時代が、デカルトが作り上げた価値基準の上に成り立っているからですね。

もちろん説明には圧倒的なメリットがあります。
あやふやな事象のカラクリを再現性高く説明できれば魑魅魍魎の世界をコントロールできます。100年前まで難病扱いだったものが学術体系の進化により今では簡単に治ります。宇宙船を作って人間を月まで飛ばすことができるようになったわけです。事象を分析して仮説を立てて新しい実験をすれば、望む結果を得る確率はやはり上がります。

でも説明できてもあまり意味がないことがあるんです。
例えば「死」ですね。論理的に説明をしても感情的には何の解決にもならない。

そこで悲しみに折り合いをつけることを可能にするのが物語の力です。この物語の力を下支えしてるのが、観察行為なのです。

いくら自然科学が発達して、人間の死についての論理的な説明ができるようになったとしても、私の死、私の親しい人の死、についてはなんの解決にもならない。「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても無意味なのである。その恐怖や悲しみを受け入れるために、物語が必要になってくる。死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在と折り合いをつけられる。物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。人間は表層の悩みによって、深層世界に落ち込んでいる悩みを感じないようにして生きている。表面的な部分は理性によって強化できるが、内面の深いところにある混沌は論理的な言語では表現できない。それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体と、更に他人ともつながってゆく、そのために必要なのが物語なのである。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。

小川洋子

このように世界の出来事に対して感情的な折り合いをつける機能を持っているのが物語なのです。人生に訪れる不条理や悲しさをなんとか受け止めて生き続けることができる。

これは説明にはないパワーですよね?デカルトの方法論に則って、とても頭の良い人に世界について詳細に鮮やかに説明してもらっても、それは生きる力を与えることにはなりません。

なぜ物語を通じて私たちは生きる力を得ることができるのでしょうか?いろいろな効能はありますが、一つには物語を介することで私たちは他人とつながることができるからでしょう。
他人とつながることで「ああ、私は一人ぼっちじゃないんだ」と感じることができます。孤独が少しだけ癒やされるわけです。

人がどうして物語を愛好するのか、というのは難しい問題です。たぶん物語という形をとってしか、人と人との間で理解し合えないものごとが存在するからだと僕は考えています。

村上春樹

でも、さあ書こうと思って机に向かっても、実際に何を書けばいいのかというと、それがよくわからない。たとえば「自分は若かったんだ」という事実を、ひとつの証言として書こうとしても、それはあまりにも大きな主題であって、とてもそのままのかたちで小説になんかできない。もしできたとしても、それはリアリティーを欠いた、すごく薄っぺらなものになってしまうでしょう。じゃあ、僕らはそこで何をするかというと、そのかわりにひとつのファンタジーをでっちあげるわけです。つまりいくつかの重い事実の集積を、ひとつの「夢みたいな作り話」にとりかえてしまうのです。空中庭園みたいにふっと地上から浮き上がらせてしまうわけです。そうすることによって、ようやくその物語は、僕らの手に負えるものになる。そのリアリティーは僕らの手の届くものになる。僕らはその小説を書き上げ「これは現実じゃありません。でも現実じゃないという事実によって、それはより現実的であり、より切実なのです」と言うことが出来ます。そしてそのような工程を通して初めて、それを受け取る側も(つまり読者も)、自分の抱えている現実の証言をそのファンタジーに付託することができるわけです。言い換えれば幻想を共有することができるのです。それが要するに物語の力だと僕は思っています。

村上春樹. 『若い読者のための短編小説案内』

河合:例えば河合というけしからんやつがおった。腹立ったから怒ったという話をしてもあんまりみんなに説得力がない。河合という人は、年齢をカサに着て偉そうなことを言っておった、では「あ、そうですか」ぐらいになるわけです。ところが年寄り怪獣カワイが現れて、後ろからおぶさってきた。そしたら、それはもう突いて殺さないと仕方ないなというふうによく分かる、それが物語なんですね。そっちのほうがリアルなんです。つまり村上さんの体験したリアリティ、本人の体験したリアリティというのがみんなに伝わるわけです。体験の現実をシェアしなかったらこれは癒やしにならないんですね。小説の場合に難しいのは、不特定多数の人が読みながら、しかも伝わるということをやらないといけないので簡単ではないんです。しかし物語のほうが現実だというのは、内的体験の現実性ということを考えてもらうと分かりやすいと思うんです。

河合隼雄.『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』

ということで、私たちが孤独を癒やすためには物語を通じなければなりません。

実際に体験したことをそのまま話しても人には伝わらないのです。つまり体験したことを分析的に振り返ってデカルト的に判断をして「説明」をしても、人には自分の喜びや嬉しさ苦しみや悲しみは伝わらないのです。

それを物語化しなければ自分が感じたリアリティを他人に共有することができない。そこで「観察」が必要になってきます。


観察=描写

繰り返しますが、物語とは説明ではないのです。

では、物語として作者が書いている文章は何なのでしょうか?
それこそが「観察したものがそのまま表現された文章」です。

観察したものを分析判断をして「これはAではなくてBである、なぜならCだからだ」と説明する文章ではありません。

この「観察したものを判断せずに表現する文章」のことを、一般的には「描写」と呼びます。そう、みなさんがよく見聞きする「描写」です。

描写の正式な定義を探してググったら、このnoteを見つけました。
https://note.com/novel/n/n63e852f26097

まさしくここで私の考えているテーマと同じで「説明と描写の違い」について述べておられます。
上記の記事では【説明とは厳密には抽象度の高い描写である。小説では説明が必要な場面もあるが、基本原則としては抽象度を下げた描写の文章を書くことで、読者が実態を感じられるようにするべし】と書かれています。説明ではなく描写にするためには【実態があるっぽい】と思えることが一つの指標として、以下の例示があります。

  • 例1)彼が私の唇に触る

  • 例2)彼が右手の指先で私の下唇に4秒間触る

  • 例3)ほっそりとした指先で、彼は私の下唇をそっと撫でていく

これを村上春樹の発言を軸にして補足すると以下のように整理できます。
説明=抽象的な描写とは「判断結果」です。(だから村上春樹曰く、小説家は判断をしない)
描写=具体的な文章とは「身体経験」です。(村上春樹曰く、観察すること)

上記の例2の「4秒間触る」という表現について考えてみましょう。「説明と描写の違い」について述べた上記のnoteでも、例2は説明に近いと評価されています。

  • 例2)彼が右手の指先で私の下唇に4秒間触る

あなたは恋人に唇を撫でられてるときに4秒間触られているなと感じますでしょうか?
「4秒間触る」というのは唇が撫でられ終わってから、さて今のはどれくらいの時間の長さだっただろうか?と振り返り、その長さを分析した結果4秒間くらいだったな、という判断結果を提示していることになります。
あるいは触られている途中に、この人は何秒くらい私の唇を触るだろうか?として数えていることになります。

もちろんそういう描写が効果的な場面や登場人物もありえますが、一般的にはこの例2の文章は「判断結果」となります。

村上春樹が言うように、小説家はできるだけ「判断」を留保するようにしなければなりません。

なぜか?
なぜなら判断をしてしまうと、せっかく物語を通じてのみしか「人と人との間で理解し合えないものごと」が消えてしまうからです。

それって何のことでしょうか?
それは言葉にならない体感や情動のことです。それが消えてしまうのです。

では例3を読んでみましょう。

  • 例3)ほっそりとした指先で、彼は私の下唇をそっと撫でていく

もちろん個人差はありますが、この例3の文章を読むと私たちは「まるで自分の唇を撫でられたかのように」感じるわけです。

「4秒間触る」という分析的・説明的な文章が、「そっと撫でていく」という観察したままの文章に言い換えられることによって、私たちはその体験を随分と自分の身体で想像することができませんか?

逆に例1や2の文章を読んだだけでは身体的な感覚はあまり反応をしませんよね。

ということで、論理的な分析結果ではなく、身体的な感覚を描写することで私たちは体験や情動を共有できるのです。これが「小説家とは多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを生業とする職業」という言葉の意味ですね。

少し分かってきましたでしょうか?

さて、もう一つ異なる例示をします。
以下の「原子爆弾投下」についての2つの文章を読み比べてみてください。
wikipediaの文章と小説の文章です。

ぜひ少しだけ読む速度を落として、じっくり読んでみてください。
短い文章なので時間は掛からないです。ここだけでも集中して読んでみてください。

1)wikipediaの文章

爆心地1キロメートル地点から見た爆心点は上空31度、2キロメートル地点で17度の角度となる。したがって野外にあっても運良く塀や建物などの遮蔽物の陰にいた者は熱線の直撃は避けられたが、そうでない大多数の者は、熱線を受け重度の火傷を負った。野外で建物疎開作業中の勤労奉仕市民や中学生・女学生らは隠れる間もなく大量の熱線をまともに受けた。勤労奉仕に来ていた生徒が全員死亡した学校もあった。屋内にいた者は熱線こそ免れたものの、爆風で吹き飛んだ大量のガラス片を浴びて重傷を負い、あるいは爆心地付近同様に倒壊家屋に閉じ込められたまま焼死した。

wikipedia:広島市への原子爆弾投下から抜粋

次に小説の文章です。
できれば一度、深呼吸をして気持ちを切り替えてから、どうぞ。

2)小説の文章

どうした、と引きずられている少女を、先生は抱きとった。そして息をのんだ。顔がなかった。怪我は火傷によるものらしく、顔は白濁した液を溜めて腫れている。目もない。鼻もない。唇もない。ただ、針で突いたほどの小さい鼻腔が、少女の顔の、少女らしい柔らかさをとどめていた。「何年生か、名前をいいなさい」後を走って来た校長は、落ち着いていた。背が高い少女が、校長先生、と呼びかけた。早よう、みんなを助けにいってあげて下さい、死んでしまう、と言った。顔のない少女も、何事かを訴えようと、顔を校長に向けた。しかし声を出す力がなかった。 学校の、御影石の門柱に火傷した体を寄りかけて、目のない顔面を、校舎の方に向ける。 「学校だよ、安心しなさい」先生は、血でぬれた少女の髪を撫でた。少女は、大きくこっくりをした。そして先生の手のひらに頭をあずけて、死んだ。

『道』(1985)林京子より引用

ぜひ身体的に感じる余韻を味わってください。

wikipediaの文章は抽象的かつ判断結果の提示となっています。事実としては分かりやすく、大量のガラス片などの言及は恐ろしいですが、身体はあまり強く反応しませんね。

一方、林京子さんの『道』の文章はどうでしょうか?
表情さえ読めなくなってしまった顔の中で、少女が何かを必死に伝えようとしている気配を感じませんか?

これが物語を支える描写の力です。
私たちは説明することで人に何かを伝えることができると思いがちです。
しかし、wikipediaの文章では原爆投下のリアリティを伝えることはできないのです。リアリティを共有するためには論理的な説明ではなく、体験を観察して表現する描写の力が必要なのです。

どんなに深い立派なことを考えていたとしても、それをロジックで表層的なメッセージにして書いちゃうと、人には伝わらないんです。小説家には小説家のものの書き方があると思う。

村上春樹『みみずくは黄昏に飛び立つ』


大江さんの見解:「もの」としての手応えを与える

大江健三郎さんも「説明的な文章は死んでいる」と述べています。
説明的な文章には、書き手と読み手をつないで、現に生きて動く想像力的なものとは無縁である、と。

少し長い引用ですが、ぜひじっくり読んでみてください。大江さんの超高精度な文章で本稿と同じことについて考えが示されています。

 小説における観念的、説明的な言葉、文節は、そこに閉じている死んだイメージだ。 それは想像力的な活動の結果でこそあれ、書き手と読み手をつないで、現に生きて動く想像力的なものとは無縁である。
 しかし、私たちが現に言葉をひとつ書き記すにつれて、そこに静的なかたちを表すものは、自分が表現にむけて突き動かされつつ経験したばかりの、想像力的な昂揚とは似たところのない、死んで閉ざされたイメージに見えはじめているではないか?
 そこで書き手は、言葉を書き記した紙を破り捨てる。 書き手としての経験にたてば、この試行錯誤(推敲)を重ねてのみ、書き手は想像力のダイナミズムをその構造にもつヒーロー、語り手とそのスタイルといった、小説の展開のための根本の構造を勝ち取ってゆくのである。
 更に具体的に、私の経験で言えば、それは言葉によっていま書き表した事物に、それは人間も、また人間のつくりだす観念も含むが「もの」としての手応えを与えるべくつとめる、ということによってのみ確保された。「もの」としての手応えを与えるとは、すなわち「異化」するということである。それは、あるべきものとしての手応えを曖昧にし覆い隠す観念的、説明的な表皮を剥ぎ取ることだ。
 しかし,そのようにして幾度も書き直しても、消されずに残った言葉、例えば「肉体」なら「肉体」という一語が、それひとるで十分に、観点的・説明的な色彩を文章に加えてしまうこともしばしばある。 どのようにして、この言葉はものそのものより、他の概念は表さない「異化された言葉」だと確信できるのか?もとより言葉とは、決して「もの」そのものではない存在、いわば「もの」の否定としてあるのではないだろうか?
 「もの」そのものの手応えを備えた言葉に出会った時、読み手としての我々は、それを契機にして自分における想像力的なものが生きて動き始めるのを感じる。想像力的に我々を小説の構造とつなぐクサビは、その(我々が既成の概念から自由になり、洗われた新しい眼に周辺の人と事物を見るに至る時の想像力的なものの躍動の実感)他にはありえない。
 小説は読者に、それが作られる過程を体験させる。小説を読み終わった後に、彼の手にあるのは残りカスであって、そこに至るまで彼の経験したことそのものが小説である。 すでに読み終わった彼にとって小説は終わっている。そこに至る言葉の生きた経験にのみ、すべての意義がある。

大江健三郎, 『小説の方法』(1978)

大江さんは描写によって表現される体感、あるいはそこに宿るリアリティを「ものとしての手応え」として述べています。

「もの(物)」というのは日本語における超重要単語で「物語」「物の怪」「物の哀れ」「万物」などに使われています。カントが純粋理性批判で示したThings-in-itselfという概念の日本語訳は「物自体」です。

説明的な文章では「ものとしての手応え」がないのです。
wikipediaの文章は「そこに閉じている死んだイメージ」となります。

林京子さんの文章にあるように身体で感じられるような手応えが必要です。
大江さんの言葉で言えば「ものとしての手応えを曖昧にし覆い隠す観念的・説明的な表皮を剥ぎ取ること」。それが描写、というか小説における文章の基本です。

ここで試しに、大江健三郎著『万延元年のフットボール』の冒頭文章を読んでみましょう。

夜明け前の暗闇に目ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする。内臓を燃えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復してきているのを、おちつかぬ気持でのぞんでいる手さぐりは、いつまでも空しいままだ。力をうしなった指を閉じる。そして躰のあらゆる場所で、肉と骨のそれぞれの重みが区別して自覚され、しかもその自覚が鈍い痛みにかわってゆくのを、明るみにむかっていやいやながらあとずさりに進んでいく意識が認める。そのような、躰の各部分において鈍く痛み、連続性の感じられない重い肉体を、ぼく自身があきらめの感情においてふたたび引きうける。それがいったいどのようなものの、どのようなときの姿勢であるか思い出すことをあきらかに自分の望まない、そういう姿勢で、手足をねじまげて僕は眠っていたのである。

大江健三郎『万延元年のフットボール』

どうでしょうか?
ものの手応えを感じましたでしょうか?

これ「変な姿勢で寝ていた状態から起きるとき」の観察=描写です。やばいですよね?

平野啓一郎氏は大江さんの文章を読んで以下のように語っています。

平野:(大江さんの作品は)やっぱり文庫で初期作品から読み始めました。とにかく、圧倒されました。途轍もなくすごい短編の数々が、あっという間に書いたんじゃないかって感じがするんですよね。『万延元年のフットボール』は大学に入ってから読みましたが、なんかこう、神経がビリビリビリビリッと震えるような緊迫感で、忘れられない読書体験ですね。三島には憧れましたけれど、大江さんの小説を読むと、ちょっと天才すぎて嫌な気持ちになっていましたね。

平野啓一郎. WEB本の雑誌インタビュー

「神経がビリビリビリビリっと震えるような緊張感」です。
これが「ものとしての手応え」がある文章を読んだときの身体的な反応ということになります。


言葉の肌触り

詩人の谷川俊太郎さんも基本的には全く同じことを言っています。

ぼくは、我々がいまこうして生きている現実の世界っていうのは、基本的に無意味だって思っているんです。新聞や雑誌などを通して意味のある硬いことばに慣れてしまって、それがことばだと思い込んでるわけでしょ。でもことばのもとは無意味なものなんだっていうことを、わかっていたほうがいいと思うんです。そのほうがもっと自由に考えられる。無意味なものはダメ、意味があるものが大事っていう価値観を壊したいっていう気持ちもありますね

PEN. 谷川俊太郎インタビュー

新聞や雑誌などの意味のある硬い言葉というのは、説明的・観念的な言葉のことですね。判断結果です。

みんな意味を大事にするけど、ことばのテクスチャーっていうのかな、手触りに近い皮膚感覚的なものはあまり問題にしない。ですが、実際にはことばのテクスチャーというものは、一篇の詩の中にも、散文の中にもあって、それを敏感に感じる人もいれば、完全に見過ごしてしまう人もいます。
(中略)
(ことばとはなにか?について)一言で言うのは難しいけど、たとえばすごく精巧な道具だって考えることもできるんじゃないかな。それはトンカチとかカンナとかいうものじゃなくて、もっとすごく繊細微妙な道具でね。その道具で人間はわかり合ったり、あるいは喧嘩したり仲良くしたりする。でもその背後には常に人間の肉体ってものがあって、発したことばにはそれぞれの質感、テクスチャーがあることを忘れないほうがいいですよね。

PEN. 谷川俊太郎インタビュー

「言葉のテクスチャー」「手触りに近い皮膚感覚的なもの」「言葉の背後には常に人間の肉体がある」ということを述べているわけですが、本記事で考察している内容と全く一致した意見ですね。

それらの感覚は、デカルト的に判断することで消されてしまうわけです。


文章を読んで身体(想像力)が動く

──村上:牡蠣フライがどんなふうにおいしいか、どんなふうに揚げるときにジュージューという音がおいしそうに響くかとか、そういうことを文章で描写するのも好きですね。「牡蠣フライだろ、自分で揚げてみればわかるよ」というふうには言わない。それをできるだけ文章でありありと書き込む。それは僕にとって、良い文章を書くための大事な訓練だから。
──そして、その「牡蠣フライ感」を、牡蠣フライの実感のようなものを「文章で」作りあげる、そこが大事だと。
──村上:そうそうそう。とにかく僕はその文章を読んだらもう、牡蠣フライ食べたくてしょうがなくなってくるとか、あるいはその文章を読んだらもう、ビール飲みたくてしょうがなくなってくるとか、そういう物理的な反応があるのがとにかく好きなんです。そしてそういう技術にさらにさらに磨きをかけたいという強い欲があります。とにかく物理的なフラストレーションを読者の中に埋め込んでしまいたい。「ああ、もう牡蠣フライを食べずにはいられない!」と思わせる。我慢できなくする。そういう文章が好きですね。個人的に。
──そのとき、現実の牡蠣フライを超えたい、みたいな気持ちはありますか。
──村上:そうだね。テレビでおいしそうにジュージュー揚げている画面が映るじゃない。そんなんじゃなくて、とにかく字面を見ているだけで、牡蠣フライが無性に食べたくなってくるような文章を書きたい。
──牡蠣フライ超えの意志がある。
──村上:うん、現実の牡蠣フライより、もっと読者をそそりたい。

村上春樹『みみずくは黄昏に飛び立つ』

「牡蠣フライの実感のようなもの」を文章で作り上げることが大切だということですね?と川上未映子が尋ねると、村上春樹は「そうそうそう」と猛烈に賛成しています。そしてその文章を読むと「ああ、もう牡蠣フライを食べずにはいられない!」と思わせたい、と。

大江さんの言葉で言い換えると、村上春樹は牡蠣フライの「ものとしての手応え」を感じさせるような文章を書きたいと言っているのです。

そして現実の牡蠣フライよりも、もっと牡蠣フライのリアリティが強い文章を書くことによって「読者の物理的な食欲を突き動かしたい」と話していますが、それを大江さん流に言えば、「ものそのものの手応えを備えた言葉に出会った時、読み手としての我々は、それを契機にして自分における想像力的なものが生きて動き始めるのを」感じていくということになります。

結局、同じことを話しているのですね。


Show, Don't Tellの本質

小説家は「多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを生業とする人間」であると考える村上春樹の言っていることは、実はとても有名な英語のフレーズに通ずるところがあります。それはShow, Don't Tellです。

描写をするときには「Tell(説明)ではなく、Show(観察)せよ」という意味の言葉です。

このフレーズは「小手先の文章テクニック指南」を示しているのではありません。体験共有装置として物語が機能を十全に発揮するために非常に本質的に重要なことを述べています。

Wikipediaで"Show, Don't Tell"のページを見るといろいろな作家の関連コメントが出ています。一番わかりやすいのはチェーホフの以下の言葉ですね。

「月が輝いている」と言わずに、壊れたガラスの上の光のきらめきを見せなさい。自然の描写では、小さな詳細を捉え、それをまとめることで読者が目を閉じたときに絵を思い浮かべられるようにしなければなりません。たとえば、月明かりの夜を描くためには、壊れた瓶の破片が明るい小さな星のようにきらめいていると書き、黒い犬や狼の影がボールのように転がる様子を描写すれば良いのです。

Anton Chekhov

「今夜は月が輝いている」というのは、もちろん観察ではあるのですが、それは観念的・説明的になってしまっています。今夜の月の輝きに関する「ものとしての手応え」が感じられない。

そこでこの月明かりの「ものとしての手応え」を表現するには、「壊れた瓶の破片のきらめき」や「遠くを犬が横切るのが見えること」などを示すことで、今宵の月の「ものとしての手応え」を出すことができます。

ブラピが熱演している人気映画「Fight Club」の著者は、Show, Don't Tellの重要性を強調したブログ記事を2013年に投稿しています。

思考することは抽象的だ。知識や信念などには触れることができない。物理的で肉体的なアクションを見せること、そして登場人物に関する細部を提示することで、読者に自分で思考してもらうこと、読者が自ずから知ってもらうことが重要になる。考えたり知ることだけでなく、読者が特定の何かを好きになったり、嫌いになったりしてもらうことが重要になる。

だから「リサはトムが嫌いだった」と書いてはいけない。そのように著者が主張したり説明するのではなく、法廷で弁護士がするように具体的で細かい証拠を提示する必要がある。例えば「出席を取る時、先生がトムの名前を呼び、彼が返事をする前のほんの一瞬、まさにその瞬間に、リサは『オェッ…』と小さく嘔吐するような声を出した。」と書いたほうがよい

Chuck Palahniuk, Nuts and Bolts: “Thought” Verbs

チェーホフの言っていることと全く同じです。Chuckは別の表現でアドバイスをしています。

「思考」を直接表現する動詞を使うのには気をつけたほうがいい。

Chuck Palahniuk, Nuts and Bolts: “Thought” Verbs

例えば、

  • 〜は考えた(think)

  • 〜は知った(know)

  • 〜は理解した(understand)

  • 〜は思いついた(realise)

  • 〜は信じた(believe)

  • 〜は欲しがった(desire)

  • 〜は思い出した(remember)

  • 〜は想像した(imagine)

  • 〜を愛した(love)

  • 〜を憎んだ(hate)
    など

もちろんこれは絶対的なルールではありません。ですが、やはりChuckの述べる以下のような例を考慮すれば、物語の機能のためには判断結果ではなく観察内容を書くべきということが実感できます。

「アダムはグウェンが自分を好きだと知っていた」と言う代わりにこう書くべきだ。「授業の合間、アダムがロッカーを開けに行くと、いつもグウェンがそこにもたれかかっていた。彼女は目をくるりとさせて片足で勢いよく離れる。アダムがロッカーを開けるときには、彼女の香水の香りがいつもそこに残っていた。そして次の休み時間にも、グウェンはまたそこにもたれている。」

Chuck Palahniuk, Nuts and Bolts: “Thought” Verbs

「グウェンがアダムを好きだ」と著者が判断して言ってしまうよりも、グウェンの行動を文章化することで、私たち読者はグウェンが持つアダムに対する好意を身体的に感じることができます。



著者は観察をして、判断は読者がする

では、判断はしないのでしょうか?
小説や物語にとって判断は悪なのでしょうか?

いいえ、そんなことはありません。
判断は、読者がするのです。

読者はガラス瓶の反射や犬の影の動きを身体的に察知して、その結果「今夜は月明かりが強いな」と判断するのです。だから作者は「わずかしか判断を下すべきではない」のです。

俺はこう思う。俺はこれが言いたいというような、作者が前に出て考える文章ではなく、僕自身はうしろに引いて、読者に自分で何かを感じてもらい、何かを考えてもらう文章を書きたかったのです。

村上春樹

そのように読者が判断すると何が起こるでしょうか?

面白いことに小説が鏡のようになります。
なぜなら判断するのは、あなた(読者)だからです。
そこであなたが感じること考えることは、あなたの反映なのです。

小説は、読者が自分を映す『鏡』のようなもの。書いた僕と読んだ君の意見が違っても、間違いではありません。

村上春樹

より具体的に言います。私たちが読者として「授業の合間、アダムがロッカーを開けに行くと、いつもグウェンがそこにもたれかかっていた。彼女は目をくるりとさせて片足で勢いよく離れる。アダムがロッカーを開けるときには、彼女の香水の香りがいつもそこに残っていた。そして次の休み時間にも、グウェンはまたそこにもたれている。」と読んだとき、どんな女の子を想像しますか?

そのときに想像するグウェンの性格は、人それぞれ微妙に異なるのです。「香水の香りを残すなんて、グウェンは動物みたいに積極的な女の子なんだな」と判断する人もいるかもしれないし「直接話しかけずに、香水の香りだけ残すなんて、なんて戦略的な女性なんだ」と判断する人もいるかもしれません。

これは作者が「この女性はこういう性格なんです!」という観念的な説明をせずに、彼女の行動の観察内容だけを提示しているがために、我々読者が自由に彼女の性格を判断することができるのです。

そしてこのように読者が想像することでリアリティが生まれます。我々は描写を通じて身体的な想像力を働かせているとき、自分の記憶を動員しているのです。自分のあやふやでもやもやした記憶が、描写の文章に流れ込むことで立体化します。ここにリアリティが生まれます。おそらく。(リアリティについては私も研究中なので、また追って記事化します)


著者の村上春樹も判断を留保します。
眼の前に現れる世界の観察にとどまっているのです。
それは著者も、一人の読者であるという態度です。
ゆえに著者の判断と読者一人一人の判断は等価としています。

(羊とは何か?について)最初に断わっておきたいのですけれど、僕自身も分らない、ということがまず前提にあるわけです。それは、さっき言った視線の問題たと思うんです。作家が分かっていることをプログラム通りに書いていけば、それがどれほど完成されたものであっても、目線は高いと思っているんです。読者と同じ目線で、僕は物を書きたいと思っているし、そうすれば、僕自身も、「これは何か」と悩んだり、迷わなくちゃいけない。そういうことだと思うんですたとえば川本さんが、「羊とは何か」とう疑問を堤出されれば、僕自身も、その疑問に対する答えはないんです。その問いに対する答えの価値は、ぼくの価値と川本さんの価値は、まったく同じレベルにあるわけで、だから、僕が川本さんに質問してもいいということですね。僕自身の答えはありますけれど、それはほかの人と違っていてまったく問題はないと思いますね。

村上春樹

判断をするのが読者としての自分であれば、小説が鏡になります。
当然読む人によって、小説から立ち上がってくるリアリティの質は変わるし、年月が経てば同じ小説を読んでも自分の判断内容が変わります。

僕が小説を書くときにいちばん強く意識することは、「何度読んでもそのたびに違う読み方のできる小説を書きたい」ということです。

村上春樹

大学生の時に読む『1Q84』と30歳になって読む『1Q84』では、感じること考えることが全く変わるわけです。でも『1Q84』に書かれている文章は一切変化していません。変わっているのはあなたということになります。

これこそが小説の目的は「読者に自分で考えてもらう」ということの意味の一つです。この小説の役割とは?というトピックについては、こちらの記事で考察しています。



描写を読むのは疲れる。親切心と技術について

しかし、描写ばかりを読んでいると疲れます。そりゃそうですよね、なぜなら読者は身体的に感じまくってるからです。

さきほどの林京子さんの『道』を読んでいるときは、1945年8月6日午前8時15分直後の広島市の学校の前で顔のない少女を抱きしめる体験をするのです。リアリティは凄まじいですが肉体的に疲れます。

ゆえに何が何でもすべての文章を120%の気合で描写すればいいというものではありません。そこで小説家にとって「親切心」と「技術」が重要になります。

――逆に、こう、文章の進みがふっと遅くなるというか、重くなるのはどういったところですか。
村上 やっぱり地の文章ですね。地の文章は場合によっては、書くのにかなり骨が折れます。読むほうもね、会話なんかはわりにスラスラ読めるんだけど、地の文章になると、ある程度気合を入れて読み込まなくちゃいけない。そこには大事なことが書かれているかもしれないし。作家にも二種類あって、地の文を「しっかり読み込め!」という感じで密にごりごり書き込む作家と、これは読者も大変だろうなと思って、それなりにサービスする作家がいます。

村上春樹

では、技術とは具体的にどのようなところで発揮されるのでしょうか?

ここからはより具体的にどう書けばいいのか?ということについて各作家たちの意見を参考にしていきます。以下では、下記の3つの文章技術について考えてみたいと思います。

  • 親切心と文章技術1)省略の技術

  • 親切心と文章技術2)メタファーを活用する技術

  • 親切心と文章技術3)会話に描写を織り込む技術


親切心と文章技術1)省略の技術

まずはノーベル賞作家のHemingwayの発言を見てみましょう。

ヘミングウェイは、Show, Don't Tellを「氷山理論(Ice-berg Theory)」または「省略の理論」とも名付けて表現しています。このアプローチは新聞記者としての経験から発展したそうです。氷山理論という用語は、彼の著書『午後の死(Death in the Afternoon)』に由来しています。

文の作家がその題材について十分な知識を持っていれば、すべてを書く必要はない。もし作家が本当に誠実に書いていれば、書かれなかった部分も読者はまるで明示されたかのように強く感じ取るだろう。氷山が堂々と見えるのは、その一部しか水面上に出ていないからこそだ。

Hernest Hemingway

新聞記者はジャーナリズムの作法に則って文章を書きます。それはwikipediaに見られるような説明文章です。

一方で小説は、暗示、比喩、控えめな表現、不確かな語り手、曖昧さといった多様な手法を巧みに駆使し、注意深い読者が行間を読み取ることでその力を発揮します。これは、読者に対する一種の敬意を示すものであり、すべてを手取り足取り説明するのではなく、行動の裏にある意味を読者に自ら感じ取ってもらうことを信頼して任せるというアプローチなわけですね。

つまり、うまく省略をすることで読者の想像力が更に活性化されて物語の機能がより強く働きますよ、ということです。

次にPaul Austerの発言を見てみましょう。

 僕が興味を持っているのは、文章の中に余白や空白があって、読者がその空間で呼吸できるような本なんだ。読者が積極的に参加して、自分で空白を埋めていくような作品が好きなんだよ。
 優れた作家の中にも、書きすぎる人がいると思う。過剰に書き込むんだ。世界が詰め込まれすぎている。たとえば、物の描写についてだ。どれくらいのディテールを入れるかって大きな問題だよね。人が部屋に入ったとき、その部屋に何があるかを描写するべきか?それは重要か?ある作家は部屋の家具一つひとつまで細かく描写するけれど、しばらくすると息が詰まってくる。言葉に溺れてしまって、結局何も重要なことが起こっていない。たとえそれが美しく書かれていてもね。
 だから僕はできるだけ無駄を削ぎ落とそうとしている。できる限りシンプルに。何かを加えるより、どれだけ取り除けるかにこだわっているんだ。削ぎ落とすほど僕は満足する。時には自分でも書きすぎてしまうことがあるんだよ。複雑になりすぎて、行き詰まってしまう時がある。そんな時、僕は一歩引いて、自分にこう言い聞かせるんだ。「すばやく、そしてシンプルに(Swift and Lean)」。これが僕の合言葉だ。すばやく、そしてシンプルに(Swift and Lean)。そうすると、読者も作家も本の中に引き込まれていく感じがする。すべての言葉に意味がある。すべてのコンマに重要性がある。だから、どの瞬間も読者は本に没頭していられる。そんな本を書きたいんだよ。

Paul Auster

発言のとおりです。文章の中に余白や空白がないと、読者は息が詰まってしまう。身体感覚を刺激するような描写をとにかくずっとすればいいわけじゃない。削ぎ落とすことが重要だ、と。

もう一人見ましょう。ジブリが映画化した『ゲド戦記』の著者、Ursula K. Le Guinの発言です。

物語に含まれるものと省かれるものの話。すなわち細部を取り上げるということで、ひいては焦点 — つまり文や段落や作品全体の焦点について触れる必要がある。この点を個人的には<詰め込み>と<跳躍>と呼んでいるが、それはこの言葉がこのプロセスの運動をうまく言い表しているからで、自分もこの言い方を気に入っている。詰め込みというのは、キーツが「あらゆる瞬間に黄金を詰めよ」詩人たちに言う時の真意と同じ意見だ。つまり書き手自身の自戒として、締まりのない言葉遣いや紋切り型(クリシェ)を避けること。十の曖昧な言葉に対して、的確な言葉が2になるようなことはしないこと。たえずあざやかな言い回しや的確な語を心がけること。「詰め込み」という言葉で伝えたいことは他にもある。物語をそのなかの出来事で絶えずいっぱいにすること。見当違いの方向でぐずぐずうろうろせずに物語を進行させ続けること、前後でしきりにエコーをひびかせながら物語を相互に連結させること、など。鮮明かつ的確、具体的で正確、凝縮されて豊か — こうした形容詞が示すのは、刺激や意味や暗示の詰まった文体のこと。

とはいえ「詰め込み」と同じくらい「跳躍」も大切だ。飛び越えるとは、省くことだ。省けるものは、残すものに比して際限なくたくさんある。語の間には余白が、声の間には沈黙がないといけない。列挙は描写ではない。関係のあることだけがあるべきだ。神は細部に宿るという人があるが、悪魔が細部に宿るという人もいる。どちらも正しい。詰め込みの描写は、物語を行き詰まらせ、自分の首を締めるのだ。初稿では、あらゆるものを詰め込んでいくのがいいだろう。語り尽くし、すべてを入れるのだ。書き直す際に、物語の引き伸ばしや繰り返し、遅延・妨害となっているものを意識して、その点を削除する。価値の在るもの、語りになるものを見極めて、残ったものが大事なものだけになるまで削ったり直したりしていこう。大胆に跳躍するのだ。

Ursula K. Le Guin,『文体の舵を取れ』

前半部分は「詰め込み」について語っています。これは「締まりのない言葉遣い、紋切り型、決まり文句などを避けよ」ということですね。ずっと考察してきた「ものの手応えのない文章を書くな、説明するな」ということと同じです。

後半にて「跳躍」について語っています。これはHemingway、Austerと同じ事を言っており、無駄なもの不要なものは省いて読者の想像力がより活性化されるように仕上げよう、と言っているのです。

そして村上春樹の描写に関する意見です。

ただし時には、部分的にはということですが、意図して文章を止めて、徹底的に描写を行うこともあります。でもそのときも、これは一種のおまかせパッケージなんだということは忘れてはいけない。たっぷり描写を詰め込みはするけど、読みたくない人は読まなくてもいい部分なんだと。そこをそっくり読み飛ばしても、読者が話をそのまま追っていけるように書くわけです。
どうしてそういうパッケージ部分が必要かと言うと、これはひとつの重しなんです。会話とかニュートラルな文章だけですいすい物語が流れていくと、流れが速くなりすぎてしまう。滑ってしまう。だからある部分は歩みを止めて、とことん具体的に描写する。でも、そこで描写されるものは重要なことであってはならない。本質的なことを描写してはいけない。それが原則です
たとえばだれかが鉄道の駅についたとしますよね。そこで駅の描写をする。こういう天井があって、ここに明かりがあって、ここに椅子があって、どんな駅員がいて、そこにどんな匂いがしてとか、けっこう事細やかにやります。それは物語の本質とは関係ない。ただの駅の描写なんです。でもその駅の描写がそこで流れ的に必要だと感じたら、徹底的に描写する。それなりに手間ひまかけて、文章には凝ります。でもそれは読み飛ばしてもかまわないところではなくてはならない。読み飛ばしてもいいけど、じっくり読んでみるとそれなりに面白い。そういう風になるのが理想です。読み飛ばせないところ、大事なところをそんなふうにみっちり描き出すと、小説は致命的に止まってしまいます。

村上春樹 ロングインタビュー

村上春樹は、まず第一に物語の重しとして「描写」が必要になることがある、と言っています。会話と筋だけでバシバシ物語が前に進むと「流れが速くなりすぎてしまう。滑ってしまう」と述べています。だからこそ、物語が横滑りしてしまうことを防ぐために、読者にとっては読むのが大変だけど「重し」として、じっくりとした描写が必要な場面があるということですね。

だけども、それは読み飛ばしてもいいことを書くのだ、ということを村上春樹は述べています。その重しとして必要な描写は「物語の筋にとって重要なことであってはならない」と。だから、読者によっては軽く読んでさらさらと前に進んでも問題ないように設計するのだ、ということです。

あまり自分の小説技術について手の内を明かしていないような印象のある村上春樹も、じっくり読み込めば結構参考になるようなことをしっかりと述べていますね。


親切心と文章技術2)メタファーを活用する技術

次にメタファーについてです。

そう、親切心を出す。僕はどっちかっていうと親切心のある作家かもしれない。それこそ前回話した「太った郵便配達人と同じくらい」みたいな表現をひとつ入れると、読者は心が緩みますよね。その緩ませる感覚というのはけっこう大事だし、それをどういう塩梅に配置していくかというのは、作家の腕の見せ所になる。

村上春樹

比喩のこと。チャンドラーの比喩で、「私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい」というのがある。これは何度も言っていることだけど、もし「私にとって眠れない夜は稀である」だと、読者はとくに何も感じないですよね。普通にすっと読み飛ばしてしまう。でも、「私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい」というと、「へぇ!」って思うじゃないですか。「そういえば太った郵便配達って見かけたことないよな」みたいに。それが生きた文章なんです。そこに反応が生まれる。動きが生まれる。「つんぼじゃねえや」と「太った郵便配達人」、この二つが僕の文章の書き方のモデルになっている。そのコツさえつかんでいれば、けっこういい文章が書けます。たぶん。

村上春樹

チャンドラーのある小説の中に「部屋は突然、落としたケーキのような重い静寂に包まれた」という文章があります。とても簡単な比喩(直喩)だけど、それがどんな雰囲気の静寂だったか、読者には一読して理解することができます、ほとんど視覚的に。これを比喩を使わずに表現しようとすると、とても面倒なことになってしまうし、読者はおそらくそんな作業に我慢強くつきあってはくれないでしょう。そういう意味では比喩は視覚的でなくてはならないし、視覚的になるためにはルートは最短距離でなくてはなりません。そしてなにより根本的に、比喩は親切心から出てきたものでなくてはならない。読者を我慢から開放するためのものではなくてはならない。なぜなら読者の我慢は別のもっと大事なもののためにとっておかなくてはならないから。それが僕の考え方です。

村上春樹

メタファーを使うと「読者は心が緩み、へぇ!という反応が生まれて、我慢から開放する」とのこと。つまり、非常に重要な描写のシーンにおいて、それをじっくりと読んでもらわないといけないところがあるわけですね。

そのときにねっとりじっくりと「ものの手応え」が強い文章を書き続けると身体的な反応が続くわけですからやはりしんどい。そこで親切心を発揮する仕方としてメタファーを使って、ふわっと読み手の気持ちを一瞬軽くする浮かすわけですね。

そうすることで、説明的・観念的な文章ではなく身体的な文章なんだけど、人々は読み続けることができる、という状態を作ることができるわけです。


親切心と文章技術3)会話に描写を織り込む技術

下記では両方とも村上春樹の発言ですが、「分析的な描写や心理的な描写があまり好きではない」とあります。

キャラクターについての描写はできるだけ控えて、彼が何を話すか、彼女が何を話すかによって、そのキャラクターを浮かび上がらせていきたいという気持が僕には強いですね。描写すると足がとまる。文章というのは、もちろん意識的に足を止めなくちゃいけないときもあるけど、そうじゃないときは休みなく前に進ませなくてはいけない。説明すると足がとまって、そうすると物語がとまってしまいます。たとえばタマルという人がそうです。彼についての説明や描写はそんなにない。それよりも彼が何を語るか、どのように語るかで、彼の存在感が作られていきます。そのためには、言葉をよほど吟味する必要があります。メインのキャラクターではない登場人物に関しては、とくにそういう傾向が強いと思う。いちいち足を止めて描写していられないから

村上春樹 ロングインタビュー

さっきから繰り返し言っていますけど、僕は分析的な描写や心理的な描写がもともとあまり好きじゃないんです。書くのも疲れるし、読むのも疲れる。だからそういうものを回避するために、会話の中にできるだけ描写を織り込んでいく。コロキアル(口語的)なものが非常に大事になってきます。地の文では説明の変わりになるべくメタファーを用いて、パラフレーズを構造的に積み重ね、描写すべきものごとの多くと別の何かに預けてしまうというのが、僕の小説文体の特徴の一つかもしれません。そしてあとの部分はなるたけニュートラルにもっていく。
大事なのは「委ねる」という感覚なんです。自分ではやらない。委ねる。正面から何かを解析しようとすると、言葉はどうしても重く、かたく、強くなっていきます。肩に力が入ってくる。そうすると文章の足取りがとまってしまう。会話では、人はそんなにむずかしいことを言わないものです。でも簡単な言葉を上手に組み合わせることによって、そこにボリュームとリズムをつけることによって、表情や素振りをまじえることによって、むずかしい複雑なメッセージも有効に浮かび上がらせていくことができる。

村上春樹

ここでは「会話の中にできるだけ描写を織り込んでいく」というアプローチについて語られています。

なるべく会話以外のところで重苦しい描写は避けたい、できるだけニュートラルな文章で気持ちよく読めるように進めたい、というのが村上春樹の独自方針のようです。

だから、彼の小説の読みやすさは意図的に作られてるんですね。大江さんの文章と比べると圧倒的にスラスラ読めてしまいます。

この「会話の中にできるだけ描写を織り込んでいく」方法は、なにも村上春樹だけがやっているわけではありません。古今東西多くの作家が使っている方法です。それをより詳細に解説しているのが再登場のUrsula. K. Le Guinです。

愚かにも工夫したつもりなのか、ほとんどありのままの情報が講釈や授業の形で垂れ流しにされているなら(たとえば、「ああ船長、反物質偽装器を教えてくれないか」なんて発言の後にそいつが延々と講釈するなど)、SF作家たちのいう<説明のダマ>ができてしまっている。(ジャンルを問わず)本当に技巧のある書き手なら、説明をダマにしない。情報を砕いて粉にしたうえで、レンガにしてそれで物語を組み上げる。

おおよそどの語りも、説明と描写という重荷をそれなりに運ぶことになる。この説明なる積荷は、SFのときと同じく回顧録や自伝でも問題になってくる。情報を物語の一部にする方法は、技術として学べるものだ。解決策の要となるのは「これは問題だ」と意識できるかどうかである。そこで語っている素振りを見せないまま、ある物事について話すという物語の技術が使える。
(中略)
以下の実例ではいずれも、そのかなりありのままの描写が、物語を遅らせも止めもしていない。物語が情景のうちに、描写されたもののなかにある。この頃は描写だけの一節を、さながらアクションの遅延が避けられない不要な飾り扱いにして、敬遠する嫌いがある。単なる風景や、人や人生についての大量の情報でも動きになりうる、つまり物語を展開させる流れになりうる。

Ursula K. Le Guin,『文体の舵を取れ』


村上春樹もLe Guinも「描写は物語を遅らせ止めてしまうことがある」と指摘しています。だからこそ、親切心と文章技術(1)の省略の技術が重要になるわけですね。

そもそも書かずに省略するということではなく、会話文の中に折り込むことで物語の流れを止めない技術がある。

Ursula K. Le Guin,『文体の舵を取れ』で挙げられている例を一つ紹介します。

これは必ずしも会話文の中にすべて描写が描きこまれているわけではありませんが『文体の舵を取れ』では以下のように好ましい描写文章として評価されています。ぜひ参考にしてみてください。

ジェイン・エアが、はじめてソーンフィールド館を歩き回るくだりをたどってみよう。部屋はいずれも無人で、ジェインと家政婦が話をしながら通り過ぎていくのだが、この一節の迫力は数々の描写にある。調度品、屋上とその明るい眺望、いきなり三階の薄暗い廊下に戻り、そのあとジェインに聞こえる笑い声。「あやしげな笑い声で -- はっきりしているがよそよそしく、楽しさも感じられない」(ああ、この適切な形容の迫力よ!)

Ursula K. Le Guin,『文体の舵を取れ』

正餐の間を出ると、婦人は館全体の案内を申し出た。そこでわたしは婦人の後ろから階段を上り下り、歩きながら感歎した。いずれも万事整えられ、立派なものだったからだ。正面側の大部屋は、格別に素晴らしいと思った。それから三階の教室は、暗くて天井が低いものの、その古風な雰囲気に赴きがあった。もとは階下の間に宛ててあった家具が、流行の変わるごとにこちらに運び移されたという。そして細長の窓から差し込むほのかな光に、百年ものの寝台が浮かび上がる。樫材か胡桃材の櫃には、棕櫚の枝と智天使の頭部の風変わりな浮き彫りがあって、旧約にある掟の箱にも似ていた。背もたれの細長い旧式の椅子が並び、いっそう古めかしい腰掛けには、棺の塵になって二代は経とうという人の指になされた縫い取りの跡が、すり切れながらもかろうじて座面の上に残っていた。こうした遺物すべてのために、ソーンフィールド館の三階は、過去の住まい — 追憶の殿堂という様相になっていた。日中なら、この幽棲の静寂と暗闇と古雅は好ましいものだ。とはいえわたしは、そのどっしりとした幅広の寝台のひとつに、夜の安らぎを望む気にはどうしてもなれなかった。あるものは戸に閉め込まれ、またあるものは不気味な花やさらに不気味な鳥、どこまでも不気味な人間などを模した刺繍に厚ぼったく覆われた旧英国風のカーテンが掛けられてあった — これが蒼ざめた月光に晒されたなら、いずれもまさしく不気味に映ったことだろう。
「召使の人たちはこちらの部屋でお休みに?」とわたしは訊いた。
「いいえ、あれらは裏手の小部屋の並びを使います。今までここに休む人などまったくで。もしソーンフィールド館に幽霊があるなら、ここがその棲み家だろうと申すものもあるようで。」
「なるほど。ということは、ここに幽霊は?」
「聞いたこともございません」と応えるフェアファックス婦人は微笑んでいた。
「代々のものもございませんか — 言い伝えや怪談も?」
「はて、知る限りは。ただ、なんでもロチェスター家は、往時は穏やかというより烈しい血筋であったとか。ですからそのぶん、今はお墓で大人しくお休みなのでしょうね」
「まさしく — 「定めのない人生の熱病を了まして、安楽に眠っている」」とわたしは呟いた。
「あら、どちらへゆかれますの、フェアファックス夫人?」ちょうど夫人がその場を出ようとしていたのだ。
「船葺きの屋上へ。おいでになって、景色をご覧になりませんこと?」わたしは後ろからついて、たいへん狭い階段から屋根裏へ上り、そこから梯子づたいに跳ね上げ戸をくぐって、館の屋上へと出た。さて今やわたしは鳩の群れと同じ高さにいて、その巣を覗くことさえできた。居壁に身を寄せて遠くに目を下ろすと、地図のように広がる土地が見渡せた。つややかなビロードにも似た芝生が、館の礎をみっちりを囲み、公園ほどもある野には樹齢ある木立が点在し、焦茶色の枯葉の森が小径で区切られ、そこには群葉の木々以上に濃く緑に生い茂る苔草がはっきり見えた。門のそばの教会と道とのどかな丘、一切が秋の日の陽光のうちにひっそりと休んでいる。地平線に接するのは、真珠色の大理石模様のように雲の散る、前途の良い青空だ。その景色には尋常ならぬものは何もなく、ただすべてが幸いだった。屋上から戻って撥ね戸をくぐるときには、梯子づたいの下り道がかろうじて見える程度だった。屋根裏はさながら地下室のように真っ暗に見えたが、それにひきかえ、さきほど見上げたのはまさに蒼穹で、この館を中心にした木立や草原や緑の丘に輝く景色は、見つめているだけで喜びだった。
フェアファックス夫人は少しのあいだ後に残り、跳ね上げ戸を閉めていた。わたしは手探りで屋根裏からの出口を見つけて、前に進んでそこの狭い階段を下りていった。ここから、三階の表と裏の各部屋を隔てる長い廊下に続くのだが、ふとわたしはそこで躊躇した。狭くて広い上に薄暗く、奥の行き止まりの小窓がひとつあるばかりで、閉め切った小さな黒い扉がずらり両側にならぶのだから、まるで<青髭の城>かなにかの廊下のように見えたのだ。忍び足で歩くうち、こんな静かなところで聞こうとは思いもしない笑い声が、わたしの耳を突いた。あやしげな笑い声で — はっきりしているがよそよそしく、楽しさも感じられない。わたしは立ち止まった。瞬時でその響きは絶えたが、今度は前よりも大きな響きがあった。初めのは、はっきりしていてもとても小さかったのだ。やがて騒々しい反響となって消えていったが、それは物寂しい各部屋にいる木霊を呼び覚ますものかのように思えた。ともあれ、その声のみなもとはひと部屋であるから、私にも騒音の出どころたる部屋の戸を指し示すことができた。

シャーロット・ブロンテ 『ジェイン・エア』


物語の機能を最大限に発揮するために描写が必要である

復習ですが、なぜ描写が重要なのか?

それは物語のユニークな強みである「リアリティの共有機能」を最大限に発揮するためです。大江さん的に言えば、想像力の活動を促すためですね。そうでなければwikipediaを読んでいるのと同じ体験となりリアリティを共有できません。

では、なぜ我々人間はリアリティを共有したいのでしょうか?

それはよく分かりません。
既に紹介しましたが、村上春樹の考えは以下のとおりです。

人がどうして物語を愛好するのか、というのは難しい問題です。たぶん物語という形をとってしか、人と人との間で理解し合えないものごとが存在するからだと僕は考えています。

村上春樹

我々の孤独を癒やす、ということにつながるからかもしれません。


おまけ「夏目漱石のI Love You」について

最後まで目を通して頂きありがとうございます。
そんなあなたにオマケです。

夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」って訳したという逸話がありますよね?これが本当かどうかは怪しいらしいですが、とにかく夏目漱石がそう訳したと仮定しましょう。

なぜでしょうか?
ネット上で自分が納得できる説明を見たことがないのですが、私には幾つかの仮説があります。

そのうちの1つは本稿で論じた描写技術です。
つまり大事なことは直接言ってはいけないのです。Show, Don't Tellであり、判断なしで観察しなければなりません。

つまり「愛している」と言ってはいけないのです。「愛している」といっても伝わらないからです。

「月が綺麗ですね」と言って、それを聞いた相手が自分で判断しなければならない。それを聞いた人が「もしかして、この人、今自分のことを愛していると言ったのかもしれない」と判断してもらう。言葉に鏡になってもらうのです。(場合によってはcreepyですが…)

そして、もしも声の感じや会話のタイミングがよく「月が綺麗ですね」ということができて、聞き手がこちらの好意を感じてくれたなら、「月が綺麗ですね」と述べた主人公の気持ちは最も深く伝わることになります。

これが描写のパワーです。


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