村上春樹から読み解く「描写」の本質
村上春樹は、小説家とは何か?という質問に対して「多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを生業とする人間」だと述べています。
これはどういう意味でしょう?
本稿では、この言葉の真意を徹底的に紐解きます。
そうすることで小説における描写の本質に迫ります。
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上記の発言では「判断」と「観察」が対比されているわけですが、判断と観察とは、それぞれどういう意味なのでしょうか?
まず「判断」という言葉の意味について考えてみましょう。判断を言い換えると、それは「説明する」ということです。そして小説とは説明をするものではありません。村上春樹もそのように言っています。
小説あるいは物語とは、説明ではないと。
では「説明する」ということは一体どういうことでしょう?
説明とは何か?
千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』(2017)に面白い定義が紹介されていますので引用します。
繰り返します。
「そのままでは未知に留まってしまうものを分解して、自分が既知の体系(集合体)に無理やり紐づけてしまうこと」。これが説明です。
説明の基本原理はロジック。ロジックを使って万物を客観的に説明しようと試みるのが科学です。
この科学のパラダイムを作り出したのが15世紀の哲学者デカルトです。彼は中世に生まれました。それはそれはカオスな時代で、客観性のある議論なんてできません。
みんなが好き勝手なことを言いまくって収拾がつかない。教会が神の名のもとに様々な事柄を不公平に判断してしまう。そこでデカルトは「なるべく客観的に確からしい議論をするにはどうすればいいのか?」と問題意識を持ちました。
そこでこの世のあらゆるすべての物事を疑ってみた結果、すべてを疑っている思考主体としての自分の存在だけは疑えないぞ!という発見をしました。これが「我思う故に我あり」です。
確からしい存在である「考える自己」を基礎として、その上に数学的ロジックを使うことで、なるべく客観性の高い議論や思索をする方法を作りあげよう、と着想したのです。それで生み出されたのが科学です。この着想により時代が中世から近代へと進むことになりました。
ということで、今日の私たちにとって「説明」とは「デカルト的行為」なのです。それは、あやふやで魑魅魍魎の世界をロジックを用いて客観性、再現性、あるいは実用性の高い知識体系に回収しようとする試みです。
この説明行為においては「これはよく分からん」という結論は評価されません。「これはAではなくBである。なぜならCだからだ」というロジックの提示が求められます。
これが判断ですね。
「AではなくBである」と決定することが判断なのです。そして「その理由はCだからだ」と判断の背後にあるロジックを共有することが説明なのです。
そして村上春樹曰く「小説家は、わずかしか判断をしない」「小説とは説明するものではない」のです。
なぜか?
デカルトの思考回路について考えると分かりますが、彼は客観性を求めるために「論理的に説明することのできない未知なるものごと、つまり謎なものは、存在が疑わしいものとして一旦切り捨てよう」という思想につながっています。
つまり「説明をする・判断をする」とは、言い換えれば「未知なる何かを無視する、あるいは殺す行為」につながるのです。
これは小説あるいは芸術とは真逆の性質となります。芸術は決して説明できない未知なる何かと関わる方法です。あるいは未知なる何かにたどり着くことのできない悲しみを表現する方法なのかもしれません。
説明不可能なこと
未知なる何かと関わる方法、つまり創作行為は、身体的・個人的な性質を持ちます。
それがゆえに、一流の芸術家は決して軽々しくこの創作の謎を説明しようとしません。彼らは説明不可能な力を発揮するのが創造行為なのだと理解しているからです。創造と説明は真逆のアプローチなのです。
「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という哲学者ウィトゲンシュタインの有名な文句がありますが、これは「説明不可能なことについては、沈黙するほかない」と述べているわけです。科学や哲学が武器とする論理的な言葉には、そもそも限界があるということを指摘したのです。
ただし説明できないことについて考える方法があります。
それが「観察」です。
つまり、小説家が主に行うことです。
観察とは何か?
では、観察とはなんでしょうか?
観察とは、判断をするのではなく、その前段階の身体的な経験や感覚を重視することです。
ポイントは体験や体感という言葉に含まれている「体(身体)」です。つまり、頭で行うデカルト的判断ではなく、身体を通じて世界を感じることこそが観察なのです。
私たち人間は思考する前に世界を体感します。しかし、世界を体感した後に私たちはそれを分析し説明してしまおうとしますよね。その理由は、①私たちが言葉を使うから②かつ、私たちが近代以降の世界に生きてるからです。
そこで改めて「観察とは何か?」について大袈裟に言えば、それは中世的あるいは古代の感覚で世界を体験することです。デカルト以降の近代的な頭で分析的に世界を処理することではありません。
頭でっかちな人はデカルト的な人です。彼らは眼の前の生の現象を見ようとせず、自分が知っている理論だけで世界をお手軽に捉えてしまおうとする近代的な人のことですよね。
でも、ブルース・リーもスティーブ・ジョブズも「Don't Think, Feel」と言っています。頭でっかちにならず、世界をありのままに体験せよ、と。
ちょっとふわふわした話で分かりづらくてすみません。しかし、頭ではなく身体的な感覚の表現こそが「観察」のポイントなので言葉で表現しづらいのです
なにしろ昨今の世の中では「言語化スキル・説明能力」が持て囃されています。何でもかんでも言語化して説明できればいいと思っている。自分のあやふやな気持ちを言葉にできればいいと思っている。そして、そのように的確に言葉にできる人のことを賢くて優秀な人物だと思っている。
これは近現代という現在の時代が、デカルトが作り上げた価値基準の上に成り立っているからですね。
もちろん説明には圧倒的なメリットがあります。
あやふやな事象のカラクリを再現性高く説明できれば魑魅魍魎の世界をコントロールできます。100年前まで難病扱いだったものが学術体系の進化により今では簡単に治ります。宇宙船を作って人間を月まで飛ばすことができるようになったわけです。事象を分析して仮説を立てて新しい実験をすれば、望む結果を得る確率はやはり上がります。
でも説明できてもあまり意味がないことがあるんです。
例えば「死」ですね。論理的に説明をしても感情的には何の解決にもならない。
そこで悲しみに折り合いをつけることを可能にするのが物語の力です。この物語の力を下支えしてるのが、観察行為なのです。
このように世界の出来事に対して感情的な折り合いをつける機能を持っているのが物語なのです。人生に訪れる不条理や悲しさをなんとか受け止めて生き続けることができる。
これは説明にはないパワーですよね?デカルトの方法論に則って、とても頭の良い人に世界について詳細に鮮やかに説明してもらっても、それは生きる力を与えることにはなりません。
なぜ物語を通じて私たちは生きる力を得ることができるのでしょうか?いろいろな効能はありますが、一つには物語を介することで私たちは他人とつながることができるからでしょう。
他人とつながることで「ああ、私は一人ぼっちじゃないんだ」と感じることができます。孤独が少しだけ癒やされるわけです。
ということで、私たちが孤独を癒やすためには物語を通じなければなりません。
実際に体験したことをそのまま話しても人には伝わらないのです。つまり体験したことを分析的に振り返ってデカルト的に判断をして「説明」をしても、人には自分の喜びや嬉しさ苦しみや悲しみは伝わらないのです。
それを物語化しなければ自分が感じたリアリティを他人に共有することができない。そこで「観察」が必要になってきます。
観察=描写
繰り返しますが、物語とは説明ではないのです。
では、物語として作者が書いている文章は何なのでしょうか?
それこそが「観察したものがそのまま表現された文章」です。
観察したものを分析判断をして「これはAではなくてBである、なぜならCだからだ」と説明する文章ではありません。
この「観察したものを判断せずに表現する文章」のことを、一般的には「描写」と呼びます。そう、みなさんがよく見聞きする「描写」です。
描写の正式な定義を探してググったら、このnoteを見つけました。
https://note.com/novel/n/n63e852f26097
まさしくここで私の考えているテーマと同じで「説明と描写の違い」について述べておられます。
上記の記事では【説明とは厳密には抽象度の高い描写である。小説では説明が必要な場面もあるが、基本原則としては抽象度を下げた描写の文章を書くことで、読者が実態を感じられるようにするべし】と書かれています。説明ではなく描写にするためには【実態があるっぽい】と思えることが一つの指標として、以下の例示があります。
例1)彼が私の唇に触る
例2)彼が右手の指先で私の下唇に4秒間触る
例3)ほっそりとした指先で、彼は私の下唇をそっと撫でていく
これを村上春樹の発言を軸にして補足すると以下のように整理できます。
説明=抽象的な描写とは「判断結果」です。(だから村上春樹曰く、小説家は判断をしない)
描写=具体的な文章とは「身体経験」です。(村上春樹曰く、観察すること)
上記の例2の「4秒間触る」という表現について考えてみましょう。「説明と描写の違い」について述べた上記のnoteでも、例2は説明に近いと評価されています。
例2)彼が右手の指先で私の下唇に4秒間触る
あなたは恋人に唇を撫でられてるときに4秒間触られているなと感じますでしょうか?
「4秒間触る」というのは唇が撫でられ終わってから、さて今のはどれくらいの時間の長さだっただろうか?と振り返り、その長さを分析した結果4秒間くらいだったな、という判断結果を提示していることになります。
あるいは触られている途中に、この人は何秒くらい私の唇を触るだろうか?として数えていることになります。
もちろんそういう描写が効果的な場面や登場人物もありえますが、一般的にはこの例2の文章は「判断結果」となります。
村上春樹が言うように、小説家はできるだけ「判断」を留保するようにしなければなりません。
なぜか?
なぜなら判断をしてしまうと、せっかく物語を通じてのみしか「人と人との間で理解し合えないものごと」が消えてしまうからです。
それって何のことでしょうか?
それは言葉にならない体感や情動のことです。それが消えてしまうのです。
では例3を読んでみましょう。
例3)ほっそりとした指先で、彼は私の下唇をそっと撫でていく
もちろん個人差はありますが、この例3の文章を読むと私たちは「まるで自分の唇を撫でられたかのように」感じるわけです。
「4秒間触る」という分析的・説明的な文章が、「そっと撫でていく」という観察したままの文章に言い換えられることによって、私たちはその体験を随分と自分の身体で想像することができませんか?
逆に例1や2の文章を読んだだけでは身体的な感覚はあまり反応をしませんよね。
ということで、論理的な分析結果ではなく、身体的な感覚を描写することで私たちは体験や情動を共有できるのです。これが「小説家とは多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを生業とする職業」という言葉の意味ですね。
少し分かってきましたでしょうか?
さて、もう一つ異なる例示をします。
以下の「原子爆弾投下」についての2つの文章を読み比べてみてください。
wikipediaの文章と小説の文章です。
ぜひ少しだけ読む速度を落として、じっくり読んでみてください。
短い文章なので時間は掛からないです。ここだけでも集中して読んでみてください。
1)wikipediaの文章
次に小説の文章です。
できれば一度、深呼吸をして気持ちを切り替えてから、どうぞ。
2)小説の文章
ぜひ身体的に感じる余韻を味わってください。
wikipediaの文章は抽象的かつ判断結果の提示となっています。事実としては分かりやすく、大量のガラス片などの言及は恐ろしいですが、身体はあまり強く反応しませんね。
一方、林京子さんの『道』の文章はどうでしょうか?
表情さえ読めなくなってしまった顔の中で、少女が何かを必死に伝えようとしている気配を感じませんか?
これが物語を支える描写の力です。
私たちは説明することで人に何かを伝えることができると思いがちです。
しかし、wikipediaの文章では原爆投下のリアリティを伝えることはできないのです。リアリティを共有するためには論理的な説明ではなく、体験を観察して表現する描写の力が必要なのです。
大江さんの見解:「もの」としての手応えを与える
大江健三郎さんも「説明的な文章は死んでいる」と述べています。
説明的な文章には、書き手と読み手をつないで、現に生きて動く想像力的なものとは無縁である、と。
少し長い引用ですが、ぜひじっくり読んでみてください。大江さんの超高精度な文章で本稿と同じことについて考えが示されています。
大江さんは描写によって表現される体感、あるいはそこに宿るリアリティを「ものとしての手応え」として述べています。
「もの(物)」というのは日本語における超重要単語で「物語」「物の怪」「物の哀れ」「万物」などに使われています。カントが純粋理性批判で示したThings-in-itselfという概念の日本語訳は「物自体」です。
説明的な文章では「ものとしての手応え」がないのです。
wikipediaの文章は「そこに閉じている死んだイメージ」となります。
林京子さんの文章にあるように身体で感じられるような手応えが必要です。
大江さんの言葉で言えば「ものとしての手応えを曖昧にし覆い隠す観念的・説明的な表皮を剥ぎ取ること」。それが描写、というか小説における文章の基本です。
ここで試しに、大江健三郎著『万延元年のフットボール』の冒頭文章を読んでみましょう。
どうでしょうか?
ものの手応えを感じましたでしょうか?
これ「変な姿勢で寝ていた状態から起きるとき」の観察=描写です。やばいですよね?
平野啓一郎氏は大江さんの文章を読んで以下のように語っています。
「神経がビリビリビリビリっと震えるような緊張感」です。
これが「ものとしての手応え」がある文章を読んだときの身体的な反応ということになります。
言葉の肌触り
詩人の谷川俊太郎さんも基本的には全く同じことを言っています。
新聞や雑誌などの意味のある硬い言葉というのは、説明的・観念的な言葉のことですね。判断結果です。
「言葉のテクスチャー」「手触りに近い皮膚感覚的なもの」「言葉の背後には常に人間の肉体がある」ということを述べているわけですが、本記事で考察している内容と全く一致した意見ですね。
それらの感覚は、デカルト的に判断することで消されてしまうわけです。
文章を読んで身体(想像力)が動く
「牡蠣フライの実感のようなもの」を文章で作り上げることが大切だということですね?と川上未映子が尋ねると、村上春樹は「そうそうそう」と猛烈に賛成しています。そしてその文章を読むと「ああ、もう牡蠣フライを食べずにはいられない!」と思わせたい、と。
大江さんの言葉で言い換えると、村上春樹は牡蠣フライの「ものとしての手応え」を感じさせるような文章を書きたいと言っているのです。
そして現実の牡蠣フライよりも、もっと牡蠣フライのリアリティが強い文章を書くことによって「読者の物理的な食欲を突き動かしたい」と話していますが、それを大江さん流に言えば、「ものそのものの手応えを備えた言葉に出会った時、読み手としての我々は、それを契機にして自分における想像力的なものが生きて動き始めるのを」感じていくということになります。
結局、同じことを話しているのですね。
Show, Don't Tellの本質
小説家は「多くを観察し、わずかしか判断をくださないことを生業とする人間」であると考える村上春樹の言っていることは、実はとても有名な英語のフレーズに通ずるところがあります。それはShow, Don't Tellです。
描写をするときには「Tell(説明)ではなく、Show(観察)せよ」という意味の言葉です。
このフレーズは「小手先の文章テクニック指南」を示しているのではありません。体験共有装置として物語が機能を十全に発揮するために非常に本質的に重要なことを述べています。
Wikipediaで"Show, Don't Tell"のページを見るといろいろな作家の関連コメントが出ています。一番わかりやすいのはチェーホフの以下の言葉ですね。
「今夜は月が輝いている」というのは、もちろん観察ではあるのですが、それは観念的・説明的になってしまっています。今夜の月の輝きに関する「ものとしての手応え」が感じられない。
そこでこの月明かりの「ものとしての手応え」を表現するには、「壊れた瓶の破片のきらめき」や「遠くを犬が横切るのが見えること」などを示すことで、今宵の月の「ものとしての手応え」を出すことができます。
ブラピが熱演している人気映画「Fight Club」の著者は、Show, Don't Tellの重要性を強調したブログ記事を2013年に投稿しています。
チェーホフの言っていることと全く同じです。Chuckは別の表現でアドバイスをしています。
例えば、
〜は考えた(think)
〜は知った(know)
〜は理解した(understand)
〜は思いついた(realise)
〜は信じた(believe)
〜は欲しがった(desire)
〜は思い出した(remember)
〜は想像した(imagine)
〜を愛した(love)
〜を憎んだ(hate)
など
もちろんこれは絶対的なルールではありません。ですが、やはりChuckの述べる以下のような例を考慮すれば、物語の機能のためには判断結果ではなく観察内容を書くべきということが実感できます。
「グウェンがアダムを好きだ」と著者が判断して言ってしまうよりも、グウェンの行動を文章化することで、私たち読者はグウェンが持つアダムに対する好意を身体的に感じることができます。
著者は観察をして、判断は読者がする
では、判断はしないのでしょうか?
小説や物語にとって判断は悪なのでしょうか?
いいえ、そんなことはありません。
判断は、読者がするのです。
読者はガラス瓶の反射や犬の影の動きを身体的に察知して、その結果「今夜は月明かりが強いな」と判断するのです。だから作者は「わずかしか判断を下すべきではない」のです。
そのように読者が判断すると何が起こるでしょうか?
面白いことに小説が鏡のようになります。
なぜなら判断するのは、あなた(読者)だからです。
そこであなたが感じること考えることは、あなたの反映なのです。
より具体的に言います。私たちが読者として「授業の合間、アダムがロッカーを開けに行くと、いつもグウェンがそこにもたれかかっていた。彼女は目をくるりとさせて片足で勢いよく離れる。アダムがロッカーを開けるときには、彼女の香水の香りがいつもそこに残っていた。そして次の休み時間にも、グウェンはまたそこにもたれている。」と読んだとき、どんな女の子を想像しますか?
そのときに想像するグウェンの性格は、人それぞれ微妙に異なるのです。「香水の香りを残すなんて、グウェンは動物みたいに積極的な女の子なんだな」と判断する人もいるかもしれないし「直接話しかけずに、香水の香りだけ残すなんて、なんて戦略的な女性なんだ」と判断する人もいるかもしれません。
これは作者が「この女性はこういう性格なんです!」という観念的な説明をせずに、彼女の行動の観察内容だけを提示しているがために、我々読者が自由に彼女の性格を判断することができるのです。
そしてこのように読者が想像することでリアリティが生まれます。我々は描写を通じて身体的な想像力を働かせているとき、自分の記憶を動員しているのです。自分のあやふやでもやもやした記憶が、描写の文章に流れ込むことで立体化します。ここにリアリティが生まれます。おそらく。(リアリティについては私も研究中なので、また追って記事化します)
著者の村上春樹も判断を留保します。
眼の前に現れる世界の観察にとどまっているのです。
それは著者も、一人の読者であるという態度です。
ゆえに著者の判断と読者一人一人の判断は等価としています。
判断をするのが読者としての自分であれば、小説が鏡になります。
当然読む人によって、小説から立ち上がってくるリアリティの質は変わるし、年月が経てば同じ小説を読んでも自分の判断内容が変わります。
大学生の時に読む『1Q84』と30歳になって読む『1Q84』では、感じること考えることが全く変わるわけです。でも『1Q84』に書かれている文章は一切変化していません。変わっているのはあなたということになります。
これこそが小説の目的は「読者に自分で考えてもらう」ということの意味の一つです。この小説の役割とは?というトピックについては、こちらの記事で考察しています。
描写を読むのは疲れる。親切心と技術について
しかし、描写ばかりを読んでいると疲れます。そりゃそうですよね、なぜなら読者は身体的に感じまくってるからです。
さきほどの林京子さんの『道』を読んでいるときは、1945年8月6日午前8時15分直後の広島市の学校の前で顔のない少女を抱きしめる体験をするのです。リアリティは凄まじいですが肉体的に疲れます。
ゆえに何が何でもすべての文章を120%の気合で描写すればいいというものではありません。そこで小説家にとって「親切心」と「技術」が重要になります。
では、技術とは具体的にどのようなところで発揮されるのでしょうか?
ここからはより具体的にどう書けばいいのか?ということについて各作家たちの意見を参考にしていきます。以下では、下記の3つの文章技術について考えてみたいと思います。
親切心と文章技術1)省略の技術
親切心と文章技術2)メタファーを活用する技術
親切心と文章技術3)会話に描写を織り込む技術
親切心と文章技術1)省略の技術
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