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【紫式部日記】紫式部の女房批評(内容意訳・原文・解説)

こんにちは!
よろづの言の葉を愛する古典Vtuber、よろづ萩葉です🖌️

今回は紫式部日記より、大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部による女房批評のお話です。

「才女批評」「同僚女房評」「和泉式部、赤染衛門、清少納言」「和泉式部と清少納言」…と、教科書によってタイトルが違うのですが、
和泉式部、赤染衛門、清少納言の3人の女房を批評しています。
紫式部はこの3人のことを、どのように考えていたのでしょうか?

※女房:宮廷や貴族に仕えた、部屋を与えられた女性。


紫式部の女房批評

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。
されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。
歌は、いとをかしきこと。
ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたる言どもに、必ずをかしき一ふしの目にとまる詠み添へ侍り。
それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらんは、
「いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめり」とぞ見えたるすぢに侍るかし。
「恥づかしげの歌よみや」とはおぼえ侍らず。

丹波の守の北の方をば、宮・殿のわたりには、「匡衡衛門」とぞいひ侍る。
ことにやんごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌よみとてよろづのことにつけて詠みちらさねど、聞こえたる限りは、はかなきをりふしのことも、それこそ恥づかしき口つきに侍れ。
ややもせば、腰離れぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、憎くもいとほしくもおぼえ侍るわざなり。

清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。

さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。

かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは。

艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、
をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。

そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。

紫式部日記

人物紹介

和泉式部

中宮彰子に仕えていた女房です。
百人一首に「あらざらむこの世の外の思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」という和歌が収録されており、
「大江山」の作者・小式部内侍の母親でもあります。
続拾遺和歌集ではなんと 全歌人の中で一位の入集数を誇ります。

和泉式部日記の作者とされ、日記では敦道親王との恋が歌物語のように綴られています。
道長からのスカウトを受けたのは、夫となった敦道親王が若くして亡くなってしまった頃でした。

恋の歌を詠むのが上手だった和泉式部は、恋多き女性であったと言われています。

匡衡衛門

赤染衛門のことです。
藤原道長の妻であり中宮彰子の母・源倫子に仕えていた女房で、倫子の娘・彰子にも仕えました。
紫式部よりも10歳以上年上と考えられます。
夫は大江匡衡で、子に大江挙周や歌人・江侍従などがいます。
赤染衛門はとても家族想いだったようで、家族を想って詠んだ和歌が残っています。
かはらむと祈る命は惜しからで さても別れむことぞ悲しき

百人一首には「やすらはで寝なましものをさ夜ふけて傾くまでの月を見しかな」という和歌が収録されています。

栄花物語の正編の作者ではないかと言われています。

清少納言

中宮定子に仕えていた女房で、枕草子の作者です。
紫式部が彰子のもとで働き始めた時にはすでに定子は亡くなっており、
清少納言も宮仕えを辞めた後だったので、この二人に直接の面識はありません
ですが枕草子は宮中の間でも人気だったようで、おそらく紫式部も枕草子を読んでいたと思われます。
ちなみに清少納言は枕草子の中で、紫式部の夫のことをからかっています。

百人一首には「夜をこめて鳥の空音は謀るともよに逢坂の関は許さじ」という歌が収録されています。

紫式部

そして、この3人を批評している作者・紫式部。
紫式部も和泉式部と赤染衛門と同じく、中宮彰子に仕えました。
源氏物語の作者です。
源氏物語の評判が宮中へ広まり、その噂を聞いた道長からスカウトされたと言われています。

彰子に仕えている時に記された紫式部日記には、主に彰子の出産についてのことが書かれています。
後半には紫式部自身の考えを述べている部分もあり、今回の批評はその中の一節です。


内容を意訳

和泉式部という人は、素敵な手紙を書く人だ。
和泉には良くないところ(男癖が悪い)があるものの、その方面で才能のある和泉は、気を許して手紙を走り書きするときでも、ちょっとした言葉に美しさが見える。
和歌は本当に見事だ。
和歌についての知識や理論は、本格的な歌詠みという様子ではないけれど、
口をついて出る言葉の中に必ず、目に留まるような素敵な一言が添えられている。
とはいえ、他人の詠んだ歌を批判したり批評したりするのは、いやはや、それほど和歌のことをわかってはおらず、
口から自然に歌が溢れるのだろう、と思われる作風だ。
こちらが気恥ずかしくなるほど素晴らしい歌人だとは思わない。

丹波守の奥様のことを、彰子様や道長様の辺りでは「匡衡衛門」と呼んでいるらしい。
この方は特別な権威であるとはされていないが、実に本格派で、
歌詠みだからといってことあるごとに歌を詠み散らしたりはしないが、
私が聞いている限りは、ちょっとした機会に詠んだものも、こちらが気恥ずかしくなるほど素晴らしい詠みっぷりだ。

それに比べて、腰折れ歌というような どうしようもなく下手な歌を詠んで
いかにも風流そうに見せているだけのくせに「自分は偉い」と思っている人なんて、憎らしくもかわいそうにも思えてしまう。

清少納言こそ、得意顔でとても偉そうにしていた人だ。
あんなにも賢そうにふるまって、漢字を書き散らしているが、それもよく見ればまだまだ足りないことが多い。
彼女のように、人と違っていたいと好んでそうしていた人は、必ず見劣りして、行く末は悪くなっていくのだから、
風流ぶることが身についてしまったような人は、とてももの寂しく何ということもない時でも、しみじみと感動して趣深いことも見逃さないのだから、自然と不誠実になってしまうだろう。
そのようになってしまった人の行く末がよいものになるはずがない。


解説

いかがでしょうか。
紫式部、結構な毒舌ですね…!

紫式部は頭の良さを妬まれて宮中で悪口を言われた経験があり、
漢字なんて全く読めません!というふうを装って生活していたようです。

とは言っても源氏物語を書いている時点で頭の良さはバレバレなんですが…とにかくそういった事情から、自分と違って知識をひけらかしていた清少納言のことが気に食わなかったようです。

男性貴族たちとの恋の駆け引きを楽しんでいた和泉式部とも、性格的に馬が合わなかったみたいです。

ですがここは注意が必要なんですが、
紫式部日記は人に読ませるために書かれているため、個人的な感情だけで書かれたものではありません

紫式部の仕事は、彰子や道長たち一家のことを持ち上げること。

亡くなっていてもなお彰子のライバルであり続けた中宮定子。
その定子の一番の忠臣だった清少納言のことを強く批判しているのは、それなりに理由があってのことだったのです。

だから、枕草子の中で夫の悪口を書かれた腹いせに、清少納言の悪口を書いたというわけではない…と言いたいところですが。
実際のところは紫式部本人にしかわかりませんね。


最後までお読みいただきありがとうございました🖌️


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