一生ボロアパートでよかった⑳
父の会社には、夕方になる前には向かいました。駅からのその行き道で、私は再度周囲の家々の外観を見て楽しみました。
「この家は古いけど庭の手入れが行き届いているから、きっと家族仲も良いに違いない」
「この家は新築だから、きっと家族みんなこれからもずっとその幸せが続くんだと信じているに違いない」
「この家は子供がいるけど遊び道具がないがしろに外に置かれているから、きっと子供も親にないがしろにされているに違いない。」
そうやって他所の家庭状況を推測して楽しみました。自分の家の事を棚に上げて他所の家々に評価を下すのは、今思えば非常に滑稽だったと思います。でもこの家々評論家ごっこは、地味にその春休み最高の思い出でした。ずっと引きこもっていましたから、他に刺激的な思い出がなかったのもありますが。
胸を痛めた瞬間もありました。誰も住んでいないだろう、閑散とした雑草だらけになっている家を見た時です。いつか我が家もこうなるのではないかと思うと胸がギュッとして息が詰まりました。
私は父の会社の青い看板がよく見える交差点の辺りで、父を待っていました。すぐそばで待ち続けるのは目立つので、会社から少し距離を置いて待っていました。ひたすら、待っていました。春独特の夕方の冷えを感じました。冷えが強くなっても、待っていました。幼く気弱でお金を持たない私は、待つしかできませんでした。
時間は分かりませんでしたが、陽が落ちて30分ほど経った頃です。周囲の街灯がつき、家に向かうであろう帰宅者がチラホラ見られるようになっていました。父の会社の前に一台の大きな車が停まりました。白のバンです。そこから3人ほど人が降りてきて、父の会社の中に入っていきました。どこからか帰ってきたようでした。その人達は不登校初日に見た父と同じ格好をしていました。蛍光ベストを着けているのが見えたので、そう思いました。その中に父がいたかはわかりませんでした。でも、たぶんそろそろ仕事が終わって帰るんだ、父ももう会社から出てくるはずだ、と思いました。
私はそれからより一層注意深く退勤する父を見つけ出すため、父の会社に近づきました。会社の敷地に入る手前に電柱があって、私はその陰に隠れて立っていました。
さらに30分もしないうちに会社から人が出てきました。「お疲れ様でしたー」という声が聞こえ、私はハッとしてより集中力を高め、会社から出てくる人の顔を確認しました。
2人の男性が会社の前の駐車場まで出てきて、そのうちの1人と目が合いました。男性は父と同年代くらいのおじさんでした。目が合った時、私は動揺しました。でもすぐに父じゃないとわかったので、電柱の影に隠れました。2人の男性は会話をしながらこちら側に歩いてきました。もう1人は若めの男性でした。声質と話し方で若いと思いました。
「タイさん、マジで、なんであんな容量悪いんすかね」
「今日もえらく怒鳴られてたなぁ」
「やっぱ、前の会社もリストラされた感じなんすかね?」
「俺も詳しくはしらねぇよ、タイさん、あんまり自分の事話さねぇからな」
「スーツ着て出勤してくるの、リストラされて家族には言ってない人の典型じゃないっすか」
「俺、ああはなりたくないっすわー」
2人が私の横を通り過ぎる時、若い男性の誰かを嘲笑する声が高らかに私の鼓膜を震わせました。同時に、その若い男性を挟んで父と同年代の男性とまた目が合いました。今度は動揺しませんでした。でもまた地面に顔を向けて、目を逸らしました。通り過ぎた2人の背中を一瞬睨んで、嫌な感じ、と思いました。
「お疲れっしたー」
またその言葉が聞こえて、私は勢いよく会社の出入り口の方に顔を向けました。30代くらいの男性が出てきて、私と反対方向の道へ歩いて行きました。背中を見送りつつ、父じゃないと確信してまた会社側に目を向けました。
すると、父が出入り口から出てきました。なんの声も聞こえなかったけど、父が出てきました。あの少しよれた薄茶色のスーツは父で間違いない。びっくりしました。油断していました。見逃さなくてよかったです。なんで他の皆は「お疲れ様でした」って言いながら会社から出てくるのに、父は無言で出てきたんだろう。私が見逃していたらどうなっていたことか。冷や汗こそかきませんでしたが、胸がドキドキとして焦ったのを感じました。でも本当に見逃さなくてよかった。そんな事を思っているうちに父が電柱の前までやって来て、私は父に声をかけました。
「お父さん」
久しぶりに父のことをそう呼びました。その時の父の顔は忘れられません。お化けにでも会ったかのような、驚愕の顔。半開きの口がだらしなく見えました。一方で、元々少しギョロリとしていた目はこれが限界と言わんばかりに見開かれていました。
「どうしたんだ」
父の半開きの口からようやく出てきた言葉はそれでした。まだ信じられない、というような目で私を見ていました。
「今日、外に出たけど、帰れなくなった」
父を尾行してきたことは隠して、そう言いました。父は顔を変えないまま「そうか」と薄い返事をしました。続けて父は「よくお父さんの職場がわかったな」と言いましたが、それに対する返事はしませんでした。「お金がなくて、家に帰れなかった」と私が言うと、父は固くなっていた表情を緩めて「そうか、帰るか」とほんの少し笑って言いました。
その時でした。
「あ、タイさん、忘れてるよ!」
大きな声が聞こえて会社の方を振り向くと、蛍光ベストを手にした金髪のおじさんがこちらに小走りで近寄って来ました。
「ああ、すみません」
父がはっきりしない籠った声で返事をしました。
「明日は現地集合だから持って帰ってって言ったでしょ、頼むよ」
「はい、すみません」
「もう、しっかりしてよ」
「はい、すみません」
「あれ、だれ、女の子、娘さん?」
金髪のおじさんは私に視線を移して言いました。まじまじと見られていると気付くと、気分が悪くて私は地面を見つめました。
「娘です、迎えに来てくれたみたいで」と父がモゴついた口調で答えました。すかさず父は「ほら、行くか」と私を隠すように誘導して「どうも、また」と金髪のおじさんに軽く会釈して、その場を後にしました。
駅までの道中、父は何も話しませんでした。私は父の3歩後ろをずっと歩いていました。でも駅間近になってから父が振り向いて「今日の夕飯、買って帰るか」と声をかけてきました。私は少し間を空けて「うん」と短く答えました。父はすぐに前を向いてしまったし、駅前は電車の音がうるさかったので、私の返事が父に聞こえたのかはわかりませんでした。
でも父は私に聞き返すことなく駅前のコンビニに入っていきました。父が入っていったのは、今日私が2度も入店したあのコンビニでした。
歓迎されてるとは思えない入店音が響きました。日中は大して気にならなかったけど、青白くも見える電気に煌々と照らされた店内は、冴えませんでした。冷蔵品やパン類の陳列棚にはほとんど商品がありませんでした。あまりに食べたい物がないので、日中私に舌打ちした店員に舌打ちをし返してやりたくなりました。あいつは一体何を品出ししていたんだろう。
父の様子を見てみると、品出しを逆再生するかのような迷いのない手捌きでアルコールをカゴに入れていました。父は私に気付くと「何か食べたい物見つけたか」と聞いてきました。父はすでにツイストドーナツだけはカゴに入れていました。「最後の一個だったから、取っておいたぞ」と、父はやや誇らしげな表情を浮かべていました。私は父の優しさと身勝手さを感じました。父の良くないところは、自分にも優しくて、他人にも優しいところだと思います。父の持つカゴの中で、アルコールの瓶と缶がカランカランと転がり、ツイストドーナツを少し潰していました。
「早く選べ」と父に急かされて、私は無言で父が持つカゴの中に別に好きでもないクリームパン2つを入れました。値引きされていました。パンの陳列棚にはもうほとんど商品がありませんでした。それしか選ぶ物なかったので、それにしました。本当は肉まんが食べたかったけど、父に言うのも店員に言うのも恥ずかしかったので諦めました。
電車の時間を気にしている様子の父は、コンビニでの会計を終えると急ぎ足で駅の発券機に向かい、私の分の切手を買ってくれました。父が改札を通り抜けるのを見届けてから私も切手を改札に通して、無事に通り抜けることができました。
駅のホームで電車を待つ時間は僅かでした。父が短くボソッと「今日は靴、履けたなぁ」と言ったのが聞こえました。私は朝玄関に並べて置かれていた自分の靴を思い出しました。それから自分の足元を見て、今日は靴履けたなって思いました。反抗期の私は、けたたましい音を立てて電車が来たのを言い訳に、父の言葉は聞こえなかった事にしました。
でも、電車に乗るときに不思議と、明日は学校へ行ってみようと思えました。
つづく
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