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日本文化私観

講談社文芸文庫の坂口安吾エッセイ集を気が赴くままにちまちま読み進めているんだ。全二十二編かな、が収められているこの本のちょうど中ほど、表題作でもある〈日本文化私観〉を読み終えたところでね。

その中に書かれていた下の引用箇所なんだけどね、是非読んでもらいたくて堪らない病に罹ってしまったんだよ。いま大丈夫?少し付き合ってちょうだいな。

法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして駐車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。
坂口安吾〈日本文化私観〉

うん、ご名答。君の想像通りこのエッセイの最後のほうの、筆がグングン奔っているであろう部分でさ。勿論言わんとするところの極端な例であって。最後はこう締められているわけさ。

必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞ることはないのである。猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。
坂口安吾〈日本文化私観〉

この流れの中でネオン街であったり工場地帯の景観が肯定されているんだけど、どこか共感出来るところがあってさ。ほら、君も言ってたじゃない。観光に来たはいいけど、どこか漂う客寄せ感に辟易した、って。あれと似たようなものを感じたんだ。

前に読んだ『暇と退屈の倫理学』、或いは『場所の現象学』に繋がるんだけど、人間の"愚かさ"につけ込むような景観ほど僕が嫌いなものは無いな、なんて思って。これは全くもって観光地批判とかじゃあなくてね。

ごめんね、この"注"みたいな付け足し、自分でも辟易しているんだ。蛇足だなんてとうに分かりきっているけどさ。それでも付けないとモヤモヤするんだよ。君だけが相手なら要らないだろうけど。

戻すね。要は生活、これじゃあ伝わらない、生きる上で必要とされるようなモノ、或いは景観に囲まれていたいな、なんて。映画だって本だって、僕には欠かせないさ。観光とも言えるだろうけど、旅も欠かせないもののひとつで。根でも幹でも、草でも実でもなんでもいい。実際に"在れば"いいんだよ。

そんな必要不可欠な僕の構成要素諸々のさ、不可欠たる所以なんてことを考えているとね、逆に可欠に当て嵌るであろう事物も浮かんでくるワケさ。これに関してはアーダコーダは言わぬが吉ってモンだよね。他人のそれをとやかく言える身分でもあるまいし。

逆に君が吹っ掛けるならいつもの屁理屈合戦だい。崇高な芸術なるものが必要かどうかなぞ恋や愛について同様の問いをするくらいには愚かでないかい?なんて、聞き飽きたでしょうよ。疲れるよね。僕もさ。はぁ。

ああ、もう終わるからさ。ここだけ読んでいってよ。ちなみに「見るからに醜悪で〜」は引用から漏れた車折神社の石、伏見稲荷の鳥居のトンネルに掛かっているよ。

見るからに醜悪で、てんで美しくはないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。これは、「無きに如かざる」ものではなく、その在り方が卑小俗悪であるにしても、無ければならぬ物であった。(中略)人間は、ただ、人間をのみ恋す。人間のない芸術など、有する筈がない。郷愁のない木立の下で休息しようとは思わないのだ。
坂口安吾〈日本文化私観〉

この人のさ、明と暗の後者へ向ける眼差なんだけど。どこか不思議な包容力があるな、って思って。肯定とも取れないし、肩入れとも取れない。救いって訳でもないのだろうけど、読んでいて救われる気分になる人は多いと思うんだ。

広げちゃあいけない、終わろうか。兎にも角にもこの本が面白いってことでさ。さっき〈日本文化一〉の次節にあたるエッセイ、〈青春論〉ってのを読み終えたんだけどさ。これまた別に喋りたいくらい面白くてさ。好きなモノを挙げるなら序盤の〈牧野さんの死〉もその筆頭だしね。

あんまり長くってもなんだし、そろそろ黙るよ。ありがとね、聞いてくれて。

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