
そこに穴があるかぎり【短編小説・7300字】
駅近、築浅、南向き、風呂トイレ別、冷暖房完備の1DK。こんないいお部屋がまだ残ってたんですね! でも、お高いんでしょう? え! お家賃、1万円8千円でいいんですか? シンリテキカシブッケン? でも今こうやって見てても、何も起きてないですよね? イヤな感じもしないし。……決めました! 契約、お願いします!
借金やらなにやらで切羽詰まっていた私に、その不動産屋さんはとても親身になってくれた。もっと安い物件を、と迫ったところで渋々出してきたのがこの物件だ。
難を言えば、アパートの一階だということ。だけど、大きめの腰高窓は割れにくい防犯ガラスでシャッター付き、テレビインターホン完備、門扉はオートロックで玄関のドアは二重カギ。女のひとり暮らしにうれしい設備がこれだけ揃っているし、油断しないで気をつけていれば問題はないだろう。
それにしても、こんな優良物件の家賃が1万8千円って!
もし住み続けられないようでしたら、いつでもご相談くださいね、必ずですよ。不動産屋さんは契約後私にカギを渡しながら、そう言ってくれた。これまで何人もの人が家賃に目がくらみ契約し、しかし我慢ができなくなって、居住の継続を断念しているという。
この部屋に何が起こるか、いうと。
正体不明の穴が、ある日突然部屋のあちこちに開く、という怪奇現象である。
なんでも、契約後じゃないとその現象は見られない。実際に体験した住人が写真を撮っても、その穴は写らない。
歴代の住人たちの訴えを聞いてきた不動産屋さんは内見時に、それはもう詳しく説明してくれた。
穴は黒く、深さがわからない。と思えば、浅くて底が見えることもある。直径もまちまち、出現場所は壁だったり床だったり天井だったり、一定ではない。何日かすると塞がる穴もある。急にたくさんの穴が開くこともある。
覗いても、向こう側からこっちを見てる目がある、とかそういったこともない。血とか、変な液体が出てくることもない。
ぽっかりと黒い穴が開く、ただそれだけ。
まあ幽霊とかじゃないんですよね、穴くらいなら大丈夫かな、と言うと、みなさんそうおっしゃってましたけどね、と返された。
契約後引っ越しを済ませ、いざ住んでみると、話に聞いた通りの穴が現れた。
多くは握りこぶしくらいの大きさ。ちょっと指を入れてみたり、スマホで撮影してみたり、ポストに投函されていたいらないチラシを丸めて投げ込んでみたり。
指がちぎられたりはしなかったし、写真にも動画にもやっぱり穴は写らなかった(指は穴に入れて見えなくなった部分までしっかり写った)。チラシは、穴が塞がると戻ってきた。
少しやっかいなのは、床に開いた穴だ。穴のフチに足の指を引っかけたら、地味に痛そうだ。でもスリッパを履いて注意して歩くようにしたり、見つけ次第蛍光色のマスキングテープで目印をつけたり、ペットボトルを置いたり、それなりに対処を続けているうちに、それも苦にならなくなった。
ちなみに風呂とトイレには、穴は出現しない。歴代の住人たちもそうだったようで、もちろん理由はさっぱりわからない。
不動産屋から電話がかかってきて、確かに穴は開くんですけどなんか大丈夫です~、と現状報告をすると、それでも何かございましたらすぐご連絡くださいね、と丁寧に言われた。いい不動産屋さんでよかった。
それがわかったのは、本当に偶然だった。
壁を背もたれにしてベッドに座り、スマホで社内メッセージをチェックしていた。
業務時間外にメッセージを送ってくるやっかいな先輩がいて、それを見ないで翌日出社すると、文句を言われてしまったりする。
その日もその先輩がメッセージを発信していて、それを読んだ私は、それはもう深いため息をついた。
ある案件の日程変更が、私のせいで行われた。こんな直前では皆の迷惑になる。今後はそういうことが少なくなるよう皆で気をつけよう、といった内容。
いやそれは。私の持ってる別案件を優先しなきゃいけなくなって、それはもう課長からの指示だし、迷惑かけそうな部署には連絡済みだし、こんなところで、しかもねじ曲げた上で共有しなくてもいいよね?
みんなのために心を鬼にして、正義の共有メッセージを送るの! ということらしい。だけどそのみんなは、それにはちょっとうんざりしていて。私も毎回適当に流しているのだけれど、いざ当事者となると、なかなか胸が痛む。
と、耳元でポコッと音がしたような気がした。
音の方を見ると。背もたれにしていた壁、私の顔のすぐ横に、黒い穴が開いている。
頭の中でいろいろつながって、ぴん、ときた。
もしかしてこの穴は、私の心の穴なんじゃないか?
心理的瑕疵の可視物件、なんちゃって。
よーし試しに、この穴を塞いでみようか? 穴が小さくなるようなイメージ、ええっと。
……いやーあの人こうやってメッセージ送ってくるけど、よくこんな感じ悪い文章書けるよなあ。下手? ある意味上手い? 自分がミスしたときはこの人、どうしてるんだっけ? 今度よく見てみよう。ああ、なんかミスしてくれないかなあ。ちょっと楽しみ! ひっひっひ。
しばらくすると、穴の直径がわずかだけど小さくなり、底が見えるようになった。が、完全に塞がりはしない。
でもこの仮説はたぶん正しい、そう思った。
それから私は、自分の心情と部屋の穴の関連を調べはじめた。
仕事でイヤなことがあった日は、部屋に帰って穴の有無や大きさを見る。
マスキングテープに日付や時間を書いて、横に貼っておく。
実家からの電話で、いつものお小言や悪気のない助言を聞きながら、部屋中に視線を走らせた。
うっかり出てしまったインターホンで、感じの悪いセールスに当たってしまった時も、インターホンを切るなり穴を探した。
ネットで申し込んだライブの悲しい抽選結果を見た時も、うっかり生卵を床に落とした時も。
夜中に過去の失敗やトラウマを思い出してしまった時も。
ちゃんと、関連性がある。確信を持った。
この穴たちは本当に、私の心の穴なのだ。
この世紀の大発見を今度、不動産屋さんに教えてあげようか。
正義の共有メッセージの穴は、一週間くらいで塞がった。
こうして穴たちを見ていると、その大きさや深さ、塞がるスピードにいちいち感心してしまう。
あれ意外と傷ついてたのね、とか。あれはなかなか塞がらないなあ、とか。
逆にマスキングテープのメモだけ残った壁を見て、なんの穴だったけ、と首をかしげることもある。
塞がらない穴は徹底して塞がらない。が、多くの穴はしばらくして塞がる。確信をもって穴を見るようになってから、そのスピードは早くなった気がする。もしかしたら、客観的に穴を見るのが心理療法っぽく効いているんじゃないだろうか。大学の時にそんな講義を、受けたような受けなかったような。
こんちくしょう覚えてろよ復讐してやる、みたいな負の執着を手放すのが上手くなった、つまり、ちょっとオトナになって丸くなったとか! いや、ただ単に忘れっぽくなっただけ、忘却が傷を癒した……あ、こっちかな、たぶん。
そうやって、良くも悪くも私は穴に慣れてしまった。慣れは怖い、そういうときほど事故は起こりやすい。それは本当だった。忘れっぽい私はその格言をも、すっかり忘れていたのだ。
彼氏にフラれた。
好きな人が出来たから別れよう? あーそりゃしょうがないね。まあでも最近会ってなかったし、そんな予感もあったよね。わかりました、了解ですー。今までありがとう、それじゃあ元気で。
今日は金曜日、と浮かれ気分で職場を出たところでメッセージが届いた。その場で確認して、返信して。すぐに既読がついて、それで関係は終了した。
こうなったら贅沢にも外食してやる、とひとりファミレスに行き、生ビールを何杯か流し込み。その間に友人たちに、フラれたんで慰め画像くださいなんてメッセージを送りつけた。
やっぱ飲み足りねえ、とまだ営業していたスーパーに寄り安いのを見繕って何本か購入し、歩きながらプシュ、と缶のプルタブを引く。
そのうち公園の花壇のヘリに座って飲み出し、ちょっとフラフラしてきたのでさすがにヤバいか、よーし家で飲もう家で、とアパートに帰ることにする。
トートバッグからどうにかカギを取り出し門扉を開け、玄関のカギをカチン、カチンと2回まわしてから扉を手前に開けて、一歩踏み出したところで。
私は、穴に落ちた。
いつもなら扉を開けてまず、穴の有無を確認していたのに。
靴を片方落としたりしたら最悪、今新しい靴買う余裕はないんだから。強迫観念のようにそう思っていたから、どんなに疲れて帰ってきてもそれだけは忘れることはなかった。
てか、私がすっぽり落ちれるだけの穴? 私、そんなに傷ついてたんだ? あんなに物わかりのいいメッセージを返しておきながら? 私も昔ほど好きじゃなくなってたし、そんなにダメージ感じてなかったつもりだけど……ああでも。好きな人ができたから、とか言われちゃったのは、なかなかに鋭い刃物だったかもしれない。刺さるときにサクッといい音がしたかもしれない。
落ちている、ということは重力が働いているのか。下の階はないからご迷惑にはならない、それはどうでもいいか。このままブラジルのみなさんにご挨拶? いや、そこまで傷ついてないでしょ。あんな男のために、ねえ?
そう思ったところで、ぴたりと落下感が止んだ。身も蓋もない。
酔った頭で懸命に考える。そうか、この傷を癒さないと、この穴から出られない。
だけどこの大きさ……どれくらいかかるんだろう。塞がり切らなくても、私が出られるだけの深さになればいいんだけど。
上を見上げても、何も見えない。だが真っ暗闇ではなく、自分の姿は見える。
持っていたトートバッグや荷物は、穴に落ちたときに部屋の方に放り投げてしまったようだ。せめてスマホがあれば! 私を癒すコンテンツが盛りだくさんだったのに。
このまま、例えば一週間が過ぎ、私が死んでしまったら。
どこかの時点で契約が切れそこで穴は塞がり、私の死体が玄関先で発見されるのだろう。
あら、本当の事故物件の出来上がりじゃないですか!
あ、スマホで不動産屋さんに電話できたら、どうにかして契約を切ってもらえたかもしれない。契約さえなくなれば、穴はなくなるはず。
あああ、スマホさえ持ってたらなあ。
ふと、何かの気配を感じた。そちらの方に向かって歩こうとしてみる。向こうも、こちらに近付いてきたような気がする。私が近付いたのか、そのあたりはよくわからない。
そこに、泣いている女の子がいた。幼稚園児くらいの、見覚えのある顔。
ああ、はいはい。つまりこれってアレですかね、心象風景ってヤツで。この女の子は小さい頃の自分で、自分で自分をなぐさめるイベント発生、そーいうことですよね?
物わかりのいい私は、イベント攻略をはじめることにした。
お嬢ちゃんどうしたの、泣かないで? 笑った顔の方がかわいいよ?
みんながワタシのこと、いらないっていうの。
そんなことない。あんな男にいらないって言われたくらいで、なんだっていうの。ほらこっち来て、ぎゅってしてあげるから。後ろからぎゅってされるの、好きだよね。よーしよーし、いい子だから、ね?
みらいに、きぼうなんてないよ。
まーたそんなこと言って。世界なんて、とらえ方次第で変わるんだから。ほーらそろそろこのセットにヒビが入って、拍手が聞こえてきちゃうから。
もっと、しんけんになぐさめてよ。
……はい、ダメ出しされました。攻略失敗か、どうしたらいいんだ。このまま戻れなかったら私死んじゃうよね、という絶望感も大きくなってくる。膝を抱えた女の子をうしろから抱きしめながら、じわりと穴が広がっていくような感覚を味わった。知らず知らず、抱きしめる手に力が入る。
ねえ、くるしい。くるしいよ。
言われたから手の力をゆるめたけど、女の子は泣き止んでくれない。
もう……私も泣きたい。
ああ、スマホがあればなあ、と未練がましく思う。じゃなければ、スーパーで酒と一緒に買い込んだ、お菓子やスイーツ。
スーパーのお菓子売り場は、節約のためいつもはなるべく立ち寄らないようにしていたから、じっくり棚を眺めたのは久々だった。キラキラしたパッケージがたくさん。ちびっこたちの気を引こうと、人気のキャラクターがこちらに向かって笑いかける。頭がおいしそうなヒーローとか、和服姿の彼とか。
脳内に、某アニメの主題歌が流れてくる。スーパーで、キャンペーン中だとかでがんがん流れてたっけ。
歌ってみた。脳内伴奏付きアカペラ。女の子の手の上で、指をとんとんさせてリズムを取りながら。
何小節目かで、女の子が一緒に歌い出した。おお、泣き止んでる? そうか、カラオケという手があったか。というか結局コンテンツに救われている? ……ああもう、ごちゃごちゃ考えるの、やめた! 歌ってやる! どうせ今は他に何も出来ない。
そこからはもう、歌いに歌った。はじめは気を遣って、女の子が知ってそうなアニソンを選んで歌っていたのだが、結局のところこの子は自分で。何を歌っても見た目の年齢に関係なく歌を知っていて、一緒に歌ってくれた。
1番しか歌えない曲も多かったが、カラオケで十八番にしているような曲は2番もいける。そんなときは彼女が1番、私は2番を歌い、サビはふたりで大合唱、なんてこともした。
ふたりの歌姫が歌うアニソンなんかは、それぞれのパートで歌うことができて気持ちよかった。どっちがどっちを歌うかは、一応女の子に譲った。
歌詞はうろ覚えのところも多かったけれど、そこはノリでカバー。あと何故か彼女が覚えていたりなんかする。不思議。
それにしてもアニソンが多い。そういえば、彼氏が出来てから意識して遠ざけていたかもしれない。彼はそんなにアニメが好きではなかったから。
要するに……アニメ愛より、承認欲求が強かったってこと?
わあ、なんてバカなんだ、私。本当に、バカだ。
今頃、そんなことに気が付くなんて。
そして気が付くと、私は玄関先でひとり、体育座りをしていた。そのまましばらくぼんやりとしていたが、急に強烈な尿意を感じて、あわててトイレに駆け込む。トイレから出て玄関を見ると、穴はまだそこにあった。24センチの靴が揃っていなくなることのできる大きさだが、もう人ひとり落ちるのは難しそうだ。段ボールに赤いマジックでキケンと書き、穴の上に敷く。
ああ、えらい目に遭った。転がっていたトートバッグやスーパーで買ったものを片付け、服を脱ぎ捨て部屋着に着替え、ベッドに倒れこんだ。
よく考えたら。人間なんて穴だらけだ。
目、耳、鼻、口。股の間に2、3の穴。全身の汗腺。
これらの物理的な穴には出入口というか行先や出所がちゃんとあって、それぞれに役割がある。穴がなければそれらの役割を全うできない。酒を飲んだらその分だけ尿を排出する。目から入った情報は脳で処理される。何も考えなくても、穴を通って空気が出入りして呼吸は続いている。
心の穴はどうだろう。役割なんてものがあるのか? あってもなくても、穴をなくすことはきっとできない。いつも被害者ぶっているけれど、自分だって知らないうちに加害者になって、誰かに穴を開けているかもしれない。穴の開きやすさにだって、個人差があるだろうし。まったく、1ミリも誰かに穴を開けない人生なんて、どんなに注意していてもきっと無理だろう。
じゃあみんな、お互い許しあえばいいんだね、と私の中の偽善者ちゃんが語り出すけれど、人間そんな簡単にはいかないと思う。許せないもんは許せないんじゃ。じゃあどうすればいいんじゃ? どこから出てきたんだか、知らないおじいちゃんが私にたずねる。そんなの、わかるわけないじゃん。そんな簡単に割り切れないよ。……割り切れない、おお、それが答えかもしれんのう。えええ、何もっともらしく言ってるの。
翌朝、ヘンな夢から目覚めたとたん二日酔いがスタート。あれだけ飲めばそうなっちゃいますよねーと深く納得して、十二分に苦しみを味わった。
あれから、玄関の穴は少しずつ小さくなっていった。新しい穴も開いた。
落下前と変わったこと、といえば。
一度気まぐれで、玄関の穴のそばにスマホを置き、音楽を流してみた。他の穴にも見つける度にやっていたら、それがいつの間にか習慣になっていた。最近はカラオケアプリを使って、穴に向かって歌を歌ったりもしている。穴に対する効果は、最近はあまり注意していないのでわからないが、多少は小さくなってくれてるかな? という感じ。それよりも、穴の中からの反応が気になるのだけれど、反応はない。
そうだ、今度所蔵しているマンガを全巻セットで穴に落としてみよう。紙の本はいいよね、とばかりに。まだあそこにいるかもしれない彼女は、喜んでくれるだろうか。
あと、不動産屋さんには穴の原因は言わないでおくことにした。悪いけど家賃の現状維持を最優先。いつかお金に余裕が出来て、ここを退去するときまでの秘密だ。電話がかかってくる間隔が長くなってはきたが、心配してくれるのはありがたいことだと思う。
ひとつわかったような気がするのは。
穴は欲しがっている、ということだ。
何を欲しがっているのかは、私にしかわからない。私にもよくわからないこともある。
だから、だけど。私は決めた。
そこに穴があるかぎり。私は、私の好きなものを好きと言い、好きでいることをやめない。
穴に向かって、穴と一緒に好きな歌を歌う。好きなマンガを読み、アニメを観る。
誰に何と言われても。誰かに選ばれなかったとしても。それはそれ、穴は穴だ。
人間どうせ死ぬまで穴だらけ、だもんね。……心の穴の存在理由は、人が人であることの証? まあそんなこと、どうでもいいか。
それより次は、どのタイトルにする?
穴の底のキミ、ねえ聞こえてますか?
キミは、ソコにいますか?
了【2022.4.21】
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