「幸せとはなにか」について高校生と一緒に考えた
「幸せとはなにか」について、高校生と一緒に考えた。
元々そういうイベントやワークショップだったわけではなく、ふらっと訪れた先での雑談のテーマになった。私は常に、老若男女問わずこういうテーマについて話せる人と会いたいと思っている。高校生と一緒に考えることができるのは、とても光栄だ。
私たちの中で出した暫定的な答えは「何かを達成することを幸せとみなすのではなく、そこまでの過程も幸せなものを選びたい」というものだった。
たとえば「大学に進学する」というゴールを達成するために、毎日学校に通っているとする。でも希望の大学に進学できたら、そこまでのプロセスも、その後の人生も幸せなのだろうか。同じ学校に通っていても幸せを感じる人もいれば、苦痛だと思っている人もいる。その人のメンタリティや感じ方によって違うのだ。
私たちは問うた。
「そもそも幸せな人は、こんなふうに幸せとはなにかなんて考えないのかもしれない」と。
ゴールがあろうがなかろうが、今この瞬間が楽しければ幸せなのだ。そしてそういう生き方もまた、「将来どうするの?」「今楽しくても未来になったら困るよ」と非難の対象になる。今この瞬間が楽しい人はそんな非難の声は聴こえないから今が楽しいのかもしれないけれど。実際、今この瞬間が楽しそうな人に聞くと、彼らに「夢」はなかった。今が楽しいからだ。
それでも私たちは幸せとはなにか、考えてしまう。もがいてしまう。「レールに乗った方が楽だよ」「そんな生き方理解できない」と四方八方から槍のような攻撃を受けても、それでも自分自身に素直に生きたいと思ってしまう。自分の幸せはそのレールの上にはないと直感的にわかっていることから目を背けられない。それでは自分の幸せはどこにあるのだろう。そこにもまた葛藤がある。一度気づいてしまったから、死ぬまで悩むのだろうか。それとも歳取ったら、どうでもよくなるのだろうか。悩めるのは、生きている特権だという。歳を取って悩まなくなる日が来るとしたら、それはもうエネルギー切れで、死ぬ間近だということだろうか。それもそれで幸せなことなのかわからない。
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日本で「主体的に学び、主体的に生きる」場所を取材して、MANABI Blogという英語の記事にまとめて、早一年になる。「主体的に生きる」という行為は、本質的に学校や会社など既存の枠組みと、そうでないところを行ったり来たりする。既存の枠組みの中に、自分というものがあるとは限らないからだ。そのように自分を真に追究する試みは、既存の枠組みで満足している人や満足していると言い聞かせている人からはなかなか理解されない。「なぜ既存の枠組みに戻らないのか、何が不満なのか」という声をたくさん浴びることになる。それでも自分に嘘はつけないのだ。
私は日本の教育の枠組みから外れていた経験もあるし、四日間だけ不登校にもなった経験もあるが、それでも高校生のときは高校に与えられたスケジュールをこなすのに精一杯で、大事なことを十分に考えていなかった。なので、MANABI Blogで紹介するような環境で、学生の頃から学校という時間の使い方が本当に正しいのか向き合い、「幸せとはなにか」考えていることに本当に尊敬する。そして大人は「学校に行かないと将来困る」だの、「学校に行かないあなたは頭がおかしい」だの言ってくるかもしれないけれど、本当に主体的に自分に向き合っているのはその大人ではなくてあなたなのだと、声を大きくして伝えたい。その道が幸せなのかどうかについてはまた答えが出ないけれど、少なくとも自分自身を売らない、自分自身に嘘をつかない生き方であることは間違いない。自分の血肉となり、哲学となる。
そして大人になっても、学生のときに持っていたその純朴さに目を瞑らず、泥臭く生きていたいと思う。学生の頃は、誰だってぼんやりとそんな疑問を抱いていた気もするのだ。でも、仕事や家事で毎日がいっぱいなことを言い訳に、自分の生き方はこれでいいのだと言い聞かせてしまう。
自分を生きるとは、大人になってもとても大変なことだ。それでも私は生きている。高校生の純粋な眼差しも、はぐらかさずに受け止められる。また高校生と「幸せとはなにか」について話してもらえるように、今日も一生懸命幸せについてなにか思考し、体現する。