信じる信じない説
よく聞くワード
『わたしは〇〇さんを信じたい!』
『ぼくは〇〇を信じてる!』
昔から違和感のあったワード
使ってみたこともあるが違和感シカなかった
『信じるってのは、自分の期待心でしかない』
と確か、中学生の時に言われた
マイマザーに。 なんとなく納得したけど
今日、そう、今、腑に落ちた
↑
なんかラップみたいで恥ずかしい
つまり
人は誰でも、魅力的な部分、ヘドロな部分を兼ね備えている。
自分の視界でフィルターを作り
自分で調整して
相手をみて、自分の解釈で
相手の像を脳に焼き付けて
好きや嫌いみたいな感情のフォルダに分けている
凶悪な犯罪者も、素敵な笑顔が作れる。
仏みたい人も、家では藁人形に釘を打ちつけて
いるかもしれない。
大袈裟な例えだか
結局は、信じる信じないより
愛せるか、愛せないかでいい気がする
宗教も人間も動物も植物も。
あくまで信じる信じない説で悩む人にはだが。
魅力とヘドロを、人は必ず持ち合わせている
のだから
そんな世の中で生きている中
自分の身は自分で守る
『坊主の不信心』にならないことだな
それより体によい食べ物を食べ、よく寝て、
自分に花を、大切な人に花を
強く穏やかでいようかな