内なる自然性を信頼する(星野文紘『感じるままに生きなさい』を読んで)
実に僭越ながら、拙著『考えない論』を彷彿とさせる内容で、終始ウンウンとうなずきながら読了した。
「魂のまにまに、気になることをやる。そうすると自分の魂がすごくよろこんで、強くなっていく。頭で決めないこと。感じたことからやりなさい。魂のまにまにを大事にして」
これはもう大きな紙に毛筆で書き写して、部屋の壁に貼っておきたいところである。
そして本書で特に印象的なのは、羽黒修験にある「うけたもう」という言葉。修験道では、山に入ったらすべて自然から学ぶ。まずすべてを受け入れる。そこには自然に対する「信頼」があるのだろうと言う。
この「うけたもう」は、以前に星野さんのお話を直接聞いた時に教えてもらって、日常生活の中でも折々に思い出してつぶやいている。
「うけたもう」
バカボンのパパに言わせれば「これでいいのだ」となるのだろう。
「予定も何もなし。みんなどこに行くのか知らない。ただ『うけたもう』という答えでいいの」
これなどはまさに人生の神髄である。もちろんそれを完全に実践することができないのが悲しき「人間」という存在なのだが、その「悲しさ」を自覚するところに、人間が人間として生きていくことの深みもまたあるのだろう。
「気になるって、頭がさせるわけじゃない。気になるのは、魂がさせるわけだから。……その気になることをどんどんやればいいんだ。そうしたら、魂がよろこぶ。ところが気になることがあっても、それを止めるのは頭。何やかやとやらない、やれない理由が出てくるんだ。それは頭がそうさせているんだ。そこでやめずに、気になることをどんどんやるんだよ」
魂とは、いわば人間の「内なる自然性」であり、ここで語られているのはその「内なる自然性」への「信頼」ではないだろうか。
山という自然への信頼を通して、自己の内側にある自然性への信頼に至る。そしてそれらは別々のものではなく、一体のものであったことに気づく。
そうすると、「うけたもう」という生き方が受動的なものではなく、主体的なものとしてあらわれてくる。そこには「自力」と「他力」の区別のない、「自ずから然り」の世界がある。
装丁の写真の青空のように、さわやかさと深みを兼ね備えながら、実に読む人を自由な気持ちにさせてくれる一冊である。