絶対的な甘やかし。
先日、息子が私に土下座をしてきた。おもむろに私の前に立ち、丁寧に右手を床に添え、左手もそれに倣い、そして頭を床につけて言う。
「お願いします!ママ様!ゲームを買いたいので半額出してください!!!」
どこでそんな綺麗な土下座を覚えた…と思ったが、心当たりがある。先日一緒に見ていた「義母と娘のブルース」だ。
いつもだったら、「ダメ!自分で買えないなら誕生日かクリスマスまで待って」と即答するところだが、思わず笑ってしまった。
心のガードが一気に緩む。これが土下座の力なのか。
一度緩んでしまったガードは中々立て直すことができない。分かっている、ここで買ってしまったら負けだ。
しかし息子は土下座をやめない。
私の笑いも止まらない。
ここで折れたら負けだという気持ちが、どんどん萎んでいく。
「分かった、分かったから、もうそれやめて」
日本古来の文化、土下座の圧倒的な力に私はひれ伏してしまった。これは完全に「甘やかし」である。
親としていかがなものか。
しかしながら、土下座から顔をあげた息子の晴れやかな笑顔を見ていたら、甘やかしでも良いか…という気持ちになってしまう。
そして、この出来事は私の記憶に深く刻み込まれるのだ。息子としてはシメシメといったところだろうが、息子が大人になり手を離れた時に、私はこのことを思い出して微笑むのだろう。
子育てをしていると「甘やかし」はいけないという言葉に出会う。その度に思うのだ。どこまでだったら良いの?と。
甘やかさないようにしすぎると、子どもの心は行き場を無くして折れてしまうことがあるのでは無いか?と。
今でこそ笑い合ってる私と息子だが、日の光が当たらないような暗闇の時代があった。
息子が「学校に行きたくない」と言い出したのだ。
「宿題なんてしたくない」
「学校に行くくらいなら死にたい」
我が子から「死にたい」と言われたら、あなたはどうするだろうか?生きてる意味が分からないと問われたら、何と答えるだろうか?
私は色んなことを後悔した。息子が学校に行きたくないのはイジメが原因ではない。学校に行くことを頑張りすぎた結果だった。
甘やかさないようにと宿題は毎日やるように言い続けたことや、息子の出すSOSのサインを見逃していたことへの後悔が私を襲う。
それ以降、我が家は「甘やかし」で溢れるようになった。息子が学校に通うようになってからも、宿題を強制させることはない。
我が家では宿題をしなくても怒られはしないし、何なら音読をしてなくても音読カードにサインをする。
絶対的な甘やかしだ。
他の家庭からすれば、そんなに甘やかして…と思われるかもしれないが、これが我が家の行き着いたスタイルなのだ。
甘やかしだろうが何だろうが、生きていてくれればそれで良い。
この世に絶望しないで笑っていてくれてたら、それで良い。
息子への絶対的な甘やかしの開始とともに、私は自分自身にも甘くなるようになった。子どもを甘やかしてる自分に厳しくするのはやめたのだ。
甘やかしたら人はダメになる。
本当だろうか?
息子を見ていて思う。
やらなくて良いよと言っていても、自分で宿題をやるようになった。
自分で筆を洗うようになった。
1人で寝るようになった。
帰りが遅い私を待ち、私の布団を敷いておいてくれる優しい子に育った。
今日もまた、私は息子のお願いを聞く。
心の中で「自分でやれば良いのに」と思いながら、息子の買ったポケモンカードの開封を手伝う。
一緒に何かをしているこの時間は、きっと単なる甘やかしではないと感じながら。