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良い噂話はしたほうがいい!間接的な誉め言葉についての思索


前置き:私は正直すぎて、時に苦しい

私は自他ともに認める”正直者”だ。
思ったことは何でも口にしてしまうタイプである。自分の良い部分でもあり悪い部分でもあると自覚している。

自分の正直さに悩んだことはあるだろうか?
正直でいることに疲れる。でも、嘘をつくことの方がもっともっと疲れる。

少し前に流行した人狼ゲーム。今でも大人数でやりがちな定番のゲームだが、私はあれが本当に苦手だ。
スマホアプリがグループの各メンバーにランダムで役割を与える。
人狼は村人を装い、毎晩1人襲う。
村人は人狼と思わしき人物を協議の上決定し、毎日1人処刑する。
私はとにかく人狼になるのが嫌だ。人狼でありながら、「自分は村人だ!」と言い張り続けるのが苦痛で仕方ない。さらに、恐怖心を煽るアプリの奇妙な音楽・・・耐えられない。あのゲームをやる時はいつも「自分が村人になってさっさと処刑されたい。」とつい思ってしまうのだ。
キャンプの夜に友人達とよく人狼ゲームをするが、私が人狼になってしまった時はあからさまに覇気がないらしく、すぐにバレて早めに処刑されるのが既定路線となってしまっている。

今日の話題:いかにして誉め言葉を素直に受け取ってもらえるか?

正直な私の口から出る言葉は、かなり信頼性が保証されている。それでいて、私は思ったことを何でも言ってしまうものだから、時には言わなくていいことまで言ってしまって、思わず人を傷つけてしまうこともある。
ネガティブな内容に関しては簡単に言葉の刃となってしまうが、逆にポジティブな内容は信頼性の高い誉め言葉として受け取ってもらえている。

絶対にお世辞や社交辞令を言わない私は、人を誉めるとかなりの確率で素直に喜んでもらえる。「あなたに言われるのが一番嬉しい」とさえ言ってもらえる。自分の正直さを強みとして、ポジティブな内容はできるだけたくさん言葉にするように心がけている。

そんな中、最近ひらめいた。
「嘘をつかない私の”噂話”は、より一層信頼してもらえるのではないか?」

思索:間接的な誉め言葉はなぜ嬉しいのだろう?

私は、直接褒められるよりも、間接的に褒められる方が嬉しいと感じている。

直接褒められても、日本人の国民性が邪魔をして、社交辞令やお世辞の可能性をなんとなく疑ってしまう。間接的に聞くと、褒め言葉が誠実で本心であると感じやすい。

直接褒めらた時に、謙虚にならなければ・・・と感じることはないだろうか?例えば「その服可愛いね」と言われると「いやいや、めっちゃ古いし安いし・・・!」と反射的に謙遜してしまう。私に限らずよくあることだと思う。間接的に聞くとその必要がないため、素直に喜びや感謝の気持ちを感じやすくなる。

また、「人が自分のことを第三者に良く言っている」というその事実は、自分の評価として確立されるし、自己肯定感が高まる。見えないところで悪口を言われているのを知ってしまうと、直接言われるより傷つく。逆もしかりで、自分がいないところで自分が良い噂話のネタになっていると知った時、どんなことでも嬉しくなり、誰もが心の中でガッツポーズするだろう。

まとめ:良い噂話をたくさんしよう。

私は、日頃陰口を言わないように十分気を付けている。
「人の口に戸は立てられぬ」、やっぱり人間は噂好きだ。愚痴はどんどん出る。どんどん広まる。自分の悪い噂を耳にしたら、直接言われるよりも深く傷つく。めちゃめちゃへこむ・・・。

反対に、私は「あなたの彼女、おしゃれで美人だよね」のような、ポジティブな噂話はあえて言葉にするようにしている。こういう良い噂話こそ、自分の知らないルートでどんどん広まってくれ・・・と願う。もしかしたら誰かが間接的に本人に伝えてくれるかもしれない。
いや、私の場合「Mamiが、美人って言ってたよって、彼女に伝えておいて!」とまで言う。自分が美人って噂されたら女の子はみんな嬉しいじゃないか!(もちろん、お世辞は絶対に言わない。本心で思った場合だけ。)

そして、自分が間接的に誰かの誉め言葉を聞いたら、必ずその本人に伝えることにしている。
「私って実際みんなからどう思われているんだろう?」と不安になるのは、誰だって一度は経験したことがあるはすだ。その生の声がポジティブな誉め言葉だった時の嬉しさは、この上ないものだ。
良い噂が回り回って自分の耳に届くと、素直に喜べるし心から安心できる。

誉め言葉のサイクルを自分発信で作っていけたらいいなと思う。

もちろん、直接本人を誉めることも忘れずに。

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